おまけ

 客を前世の世界に残し、一人タナバタに乗ってしばらくすると、見慣れない女性の客室乗務員がワゴンを押してムゲンの元にやってきた。ハナビと同じく、きらきらと輝くスカーフを首に巻いていて、化粧もきちんとしている。うなじで一つにくくった黒髪の艶も良かった。名札には『研修』というプラスチック製のプレートがついていた。
「あの、ハナビさんからです」
 紙コップになみなみとミックスジュースが注がれていた。
「ありがとうございます。研修中ですか」
「はい。今日と明日、こちらにお世話になります」
 よろしくおねがいします、と頭を下げられた。研修生はワゴンを押し、別の車両に向かっていった。ハナビも別の車両で仕事をしているのだろう。あの研修生はこれからどこに配属になるのだろう。この先、精神を削ることになるとは知らない研修生は、きらきらとしていた。これから会社から呪いを受けるなんて、彼女は、彼女たちは、全く知らないのだ。
 ムゲンもそうだった。彼女と同じように、数日、特急に乗り込んで客室乗務員の仕事を経験したことがある。あれは何ヶ月前のことだろう。自分がどのくらいここで働いているのかは全く数えていない。
 働く場所がお忘れ物センターに決まり、同期と離れ離れになり、心細いまま向かった。お忘れ物センターに行くと、誰もいなかった。おかしいと思って保管室を覗くと、制服を着た男が部屋の隅にあったベッドで寝ていた。それがバンドウだった。
 ――ああ、今日でしたね、そうでした、忘れてました。お忘れ物センターの管理者なのにね、忘れてました、あはは。責任者といっても、ここにきて五年目のバンドウです。よろしくおねがいします。
 寝起きの顔で迎えられたのは今でもはっきりと覚えている。
 働け、働け、と洗脳されていたムゲンが最初に見たのは、働いていない上司だった。ムゲンに対し既に懐かしさを感じていたバンドウの内心など知るわけがなく、ハズレを引いたなあ、と思っていた。他の同期たちはきっと特急で、駅構内で、ホームで、バリバリやっているのだと思うと少しだけ悔しかった。頑張ることといえばぐちゃぐちゃになった保管室を整理するくらいしかなかった。サボっているバンドウを見るたびに、溜息が出た。
 お忘れ物センターで、よかった。バンドウがいて、よかった。そう思っている自分など、予想もできなかった。
 他の駅員はどうなのだろう。研修生がいるということは、また駅員が減っているのか。お忘れ物センターの先輩二人が自死したように、他の駅員もまた、自死しているのだろうか。
 永遠に老いない、睡眠も食事も不要な特別な体。それでも心はとても繊細な自分たち。会社に使い捨てにされる自分たち。ムゲンもまた、そのうちの一人。こうやって普通に働けているのもまた、バンドウのおかげだった。
 研修生たちにもそういう出会いがあってほしい、などと思うのは、自分が彼らの先輩になった証拠だろうか。ずっとバンドウの後輩でしかなかったから、くすぐったい。
 結局、ハナビとは一度も会話をせず下車をした。ハナビは研修生の相手で忙しかったのだろう。声をかけられないのが残念だった。ホームにも見慣れない顔があり、彼らの名札にも研修のプレートがあった。通常の業務に加え、研修生の相手をしなければならない先輩職員たちにご苦労さまです、と内心声をかけた。
 研修生の受け入れがないお忘れ物センターは静かなはず、と思いながら帰ったが、その予想に反して、バンドウが受話器を握りしめぺこぺこと頭を下げながら何か話していた。その隣で、ミライが呆れた顔をしている。
「あ、おかえりなさい!」
 ムゲンの帰りに気がついたミライが、カウンターから出てきて飛びついてくる。右手には星間ちゃんのぬいぐるみがあった。
「ただいま。バンドウさんはどこと電話をしているのですか」
「本部だそうです。なんかすっごい喧嘩してたんですよ。まあ……半分以上はお父さんの我儘ですが」
「喧嘩」
 珍しい、と素直に思った。バンドウが声を荒らげている場面は一度も見たことがない。優一郎が怒っているところも見たことがない。自分ではどうしようもならないと思うと、深く溜息をついて目を閉じることがあるのは知っているが、それをする場面も滅多に見ることはない。
 ムゲンが帰ってきたのを悟ったバンドウは、聞こえないようにするためか、口を手で隠してボソボソと喋っていた。聞かれたら困るようなことを話しているのだろうか。気にはなるが、電話中なので、ミライを抱き上げたまま保管室に入った。ミライも今日は駅長の元で研修を行ったらしく、眠たそうにしているのでベッドに行く。ぎゅっと星間ちゃんを抱きしめ、ムゲンの胸の中ですぐ眠ってしまった。
 ミライの頭を撫でながらムゲンもうとうととしはじめた時、「たはー」と溜息をつきながらバンドウが保管室に入ってくる。ベッドの端に座り、ムゲンにおかえりなさいと声をかけてくる。
「いやあ、本部の頑固さには呆れてしまいますね。優一郎の設定の甘さが見えてしまいましたね」
 設定の範囲外だから思うようにならない、と愚痴をこぼすバンドウに、電話の内容を聞いてみたが「個人的なことです」とはぐらかされてしまった。
「喧嘩してたって聞きましたけど」
「喧嘩? いやいや、喧嘩ではなく、主張をしただけです。まあちょっとイラっとしていたかもしれませんが。ムゲンさん、僕、これから三日間、いません」
「え、これから、出張ですか」
「いえ。休暇をもらいました。有給にできなかったのは残念ですが……行かなければならないところがありまして。ああ、心配しないでください。心配するかもしれませんが、ちゃんと帰ってきますから」
 会社から休暇をもらった。この会社が、休暇を与えた。ミライと前世の世界に行くときでさえ「研修」という名目で行くのに。驚いた。ミライは「我儘」と表現していたが、本部を言い負かして勝ち取ったのだろうか。
 もう少し話を聞かなければ行かせることができない。起き上がって問い詰めようとしたが、軽いキスをされ、衝動的な眠気に負けてしまった。
 次に目を覚ましたのは早朝で、清掃員の「すみませーん」の声で飛び起きた。お忘れ物を受け取ったあと、バンドウを探したが、その姿はもうなかった。


 バンドウがいないとお忘れ物センターから出ることができなかった。前世お忘れ物捜索サービスの予約が入っても、いつものように「では、翌日で」とはならない。申し訳ないと思いながら、数日後に予約を入れてもらった。
 お忘れ物の整理整頓はミライにも手伝ってもらった。ミライから言ってきたのだ。手伝いたいと。ムゲンがぼんやりしていたのを見ていたのかもしれない。気を遣わせてしまっていた。
 バンドウが担当しているゴミ出しも、ミライと共に行った。いつもはパンパンになるまでお忘れ物を詰め込んでいたが、運べないので、小分けして運んだ。駅とホテルの間にあるダストボックスで分別をしていると、たまにミライがお忘れ物で遊びはじめるので困った。
 ミライが研修で不在になると、どうしようもない不安が襲ってきて、保管室で机に突っ伏していた。仕事にならなかった。ふとお忘れ物を置いている棚を見ると、星間ちゃんのぬいぐるみが目に入ってきた。なんとなく、それを手にする。
 いつか、バンドウが喋るクマのぬいぐるみを敢えて捨てずに置いていたことがある。オラクルだ。バンドウが気に入ったから、という理由もあったが、はじめてのお忘れ物捜索サービスで疲れて帰ってくるムゲンのため、という理由もあった。
 ぎゅう〜、というオラクルの声が蘇る。あの時、抱きしめるという行為に、とてつもない懐かしさを感じた。自分にとって、とても、大切なものだと思った。
 小さな星間ちゃんのぬいぐるみを抱きしめる。本当はバンドウがいい。だが、そのバンドウはまだ帰ってこない。三日間は、とても長かった。
 どの列車で、いつ帰ってくるかも分からず、帰ってくる予定の日はずっとそわそわとしていた。
 ミライと一緒になってムゲンもベッドに横になっていた。早朝、そろそろ駅に人が増えるという時間になって、バンドウは帰ってきた。
 センターのドアがキィと鳴る音を耳にしたムゲンは、飛び起きて、迎えに行った。涙が出た。
「だから心配しないでって言ったじゃないですか、帰ってくるって。もうそろそろ僕を信じてくださいよ」
「せめてどこに何をしに行くのかくらい教えてくださいっ」
「教えても、きっと心配させました。ハヤミで自分の創った世界に行ってたんですよ」
 ハヤミ、と聞いて、ムゲンの胸がぎゅっと締め付けられた。
 速水の名はもう二度と聞きたくなかった。
「なんで」
「やー、ちょっと欲しいものがありましてね。いや、ほんと、買い物がしたかっただけなんですよ。深い意味はなくて。思い当たるのがそこしかなくてですね」
「か、買い物のために、三日間、わざわざ本部と言い争って休日をもらったんですか」
「だから主張しただけですってば。まあ、はい。いやあ、すみませんほんと。ムゲンさんがそこまで思い詰めるとも思ってなくて。ムゲンさんを心配させないための買い物でもあるのですが」
 買ったものを聞いたが、それはまだ仕上がっていないので、数日後のお楽しみ、ということにされてしまった。
 バンドウに特に変わった様子はなく、その日から仕事は普通にしていた。自分の心配は杞憂だった。いつになったらバンドウがちゃんと帰ってくると信じて待てるのだろう。信じていないわけではないのに、バンドウが少しでもセンターから離れるだけで、心配になる。
 睦の後悔が、ずっと尾を引いているのだろうか。バンドウは、もうあの頃の優一郎ではないと分かっているのに。
 それから数日後、センターにジョーが大きなダンボール箱を持ってやってきた。かなり大きな段ボール箱だ。
「ちわっす。またお届け物っす。総合案内所は宅配所じゃねーっつーの。なんか客から持っていってほしいって頼まれたんスけど」
 どん、とカウンターに箱を置いて、何が入っているのかバンドウに聞いていた。バンドウはジョーに見せるものではない、と言って、珍しくすぐにセンターから追い出していた。
 大きさの割には軽いようで、バンドウはすぐに保管室に持っていった。ムゲンも気になってついていく。保管室で遊んでいたミライは、なぜか「ひゅ〜」と口笛のモノマネをして星間ちゃんぬいぐるみと一緒に保管室から出ていってしまった。
 ハサミでガムテープを切り、よいしょ、と中に入っているものを取り出す。
「いやあ、やっぱりよくできています。さすが優一郎の設定した店なだけあります」
 出てきたのは、オラクルと同じサイズくらいのクマのぬいぐるみだった。いや、オラクルよりは少し大きいかもしれない。だが、色が違う。オラクルは黄色だったが、このクマはダークブラウンの生地で作られていた。首にはピンクのリボンがある。
 そのクマの表情を見たとき、あっ、と声が出た。
 漫画で描いたような記憶がある。クマの目がやや小さく、微笑みを浮かべているのは、優一郎に似せたからだ。
 おもちゃ屋の経営ゲーム。ハピプラが出した、数少ない、子供向けゲームだった。宣伝を兼ねて、雑誌に掲載するカラーのショート漫画を描いたことがある。
 ――優一郎さんっぽいの、背景に置いておきます。
 ――え、やめてください、恥ずかしい。
 ――ただの背景ですから。ね、似てる。色は優一郎さんの髪の色にしておきます。
 それが目の前にあった。優一郎にも、バンドウにも、どことなく似ているぬいぐるみ。
「僕が出張に出ると、いつもムゲンさんが不安そうな顔で待っていて、どうにかしたかったんです。一度、睦ちゃんの手を振り放してしまった僕が言えることじゃないんですけど、安心して待ってくれたらいいなって思って。ムゲンちゃん、オラクルさんのこと気に入ったみたいだったし、睦ちゃんもこれ描いていた時楽しそうだったし」
 はい、と渡され、ムゲンはぬいぐるみを抱きしめた。ふわふわのぬいぐるみだった。
「ムゲンちゃん、そろそろここに来て、一年になります。この一年間、僕は死なずにいられました。もしムゲンちゃんがここに来てくれなかったら、僕、たぶんもう一度死んでいました。ミライさんとも会えなかったし、優一郎のことも思い出さないままだったと思います。死にたいと衝動的に思っても、死にたくない、死なないと言い聞かせて、帰ってきています。これからも死なずにここに帰ってきますから、それと一緒に、安心して待っていてくれませんか」
 僕の身代わりです、と、バンドウもぬいぐるみを撫でた。
「……、待ちます、信じて、待ちます……っ」
 ぬいぐるみに顔を埋めて、大粒の涙を流した。せっかく新しいぬいぐるみに、涙が染みてしまうのに、手放したくなかった。抱きしめていると、ほっとする。そこはかとなく、コーヒーの香りがした。コーヒーは、ムゲンにとって、バンドウの香りだった。
 バンドウに、ぬいぐるみ共々抱きしめられる。
「ありがとうございます、バンドウさん。二年目も、よろしくお願いします」


 次の捜索サービスはバンドウが担当した。
 帰りの特急は、いつもと同じ、特急タナバタ。午後十時着。北口改札でミライが駅員を口説いているのを見つけたので、放置することにした。最近、ミライは北口改札の女性駅員にほの字だった。一体、誰に似てしまったのだろう。ジョーにでも口説き方を教わったのだろうか。
 かつては表情がなかった駅員だったが、ミライがしつこく絡みに行くので、感情を取り戻したようで、笑顔が見えていた。
 お忘れ物センターに戻るが、カウンターにムゲンの姿がない。
 保管室に入ると、椅子に座ってぬいぐるみを抱きしめているムゲンを見つけた。
「あ、おかえりなさい」
 泣きそうになりながら、バンドウにすがりつくムゲンはいなかった。
 自分をイメージしたぬいぐるみを愛しそうに抱いて、僅かに微笑みを浮かべ、バンドウを迎えていた。
「生きて帰りましたから、今度は僕をぎゅってしてくれませんか」
「生きて帰るのは、当たり前」
 当たり前。それもそうだ、と思う。
 当たり前を続けるために、ムゲンを抱きしめる。生きている実感があった。
 ホームでの儀式はもうしなくなった。その代わり、ムゲンに毎回こうしてもらっている。いつかこの儀式も不要になるかもしれない。だが、不要になったとしても、ずっと、こうしていたい。
 自死してでもここまで自分を追いかけてきてくれた愛しい人。この人のためなら、死にたがりの自分でも、いつまでも、生きていられるだろう。
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