5章 神を忘れた聖女
優一郎がそれまで愛用していたガラケーからスマホに乗り換えた時は、睦も驚いた。起きてから寝るまでずっとスマホを握りしめ、何かしている。
ずっと、ゲームをしていた。特に、ストーリーのあるタイプのゲームをしており、手元にはメモ用のノートもあった。ストーリーを進めるためにいくらか課金もし、読めるだけ読んだ後は、企画のための準備を始める。
今まで触ってこなかった、スマホ向けのゲーム。据え置きや携帯ゲームとは違う遊び方。優一郎が頭を抱えているのを見ることが増えた。
ハピプラから出すのだし、いつものままでいいのではないかと声はかけたが、あまり納得はしていないようだった。
いつも楽しそうにしていたのに、呻きながらノートの上で鉛筆を動かしていた。
無事話がまとまり、開発に動き出した時、酷く疲れている顔をしていたのを覚えている。
主人公はプレイヤーの分身というタイプのキャラクターだった。主人公デザインとメインキャラクターのデザインを担当したが、優一郎からの指示は「もうお任せします」だけだった。
いつもと違う。小さな違和感が、大きな不安に変わったのは、リリース後だった。
スマホをちらりと見ては、スマホをベッドに投げて溜息をつく。シナリオの評価を気にしているみたいだった。
ある時、会社から帰ってきて真っ先に大事なノートを可燃ゴミの袋の中に突っ込んでいた。本当に捨てていいのかと聞いたが、もう要らないと答えられた。
一人で部屋に籠もっていることも増え、中から「書けない、もう何も出ない」という声が聞こえてきた。
あまりにも様子がおかしいので、杏奈に相談しに行ったのだ。
「私、睦ちゃんに、何があったのか教えたわね」
杏奈は瞼を伏せた。
「慧斗は優さんを責めてた。悪いのは、金に目がくらんだ慧斗の方なのに」
「あのガチャシステムを改善しなかったのは、社長の指示だったのですか」
「そうよ。どうせすぐにサ終するくらいなら、今いるコアなファンたちからもらうだけもらったほうがいいって。だから、優さんは悪くなかった。悪いのは慧斗のほう」
大型アップデートの話が出てから、ますます優一郎は引きこもりがちになった。
たまにリビングでノートを開いていたが、手は動いていない。コーヒーも減っていなかった。
引きこもるのも限界が来たのか、優一郎は突然「取材に行ってきます」と睦に言った。
いつもは二人で行っていたので、睦も一緒に行くと言ったのだが、優一郎は一人で行かせてくださいと断ってしまった。これは息抜きも兼ねているから、一人でぼんやりとしたい、と言って。
優一郎を一人にさせるのは、不安だった。けれど、これまでの様子から、一人にした方がいいのかもしれないとも思った。
だから、新幹線の切符は一人分だけ買った。行先は東北だった。その選択に特に深い理由はないらしい。目的地も決めていない様子だった。適当に赴いた場所で、適当にネタになるものを集めてくると言っていた。まあ、そういうこともあるのだろう、と、睦は話を聞いていた。
けれども、出発前夜になって、やはり不安になって、睦は言ったのだ。行かないでとベッドの中で言った。
このまま一人で遠い所に行かせると、帰ってこないような気がした。
――睦ちゃんは想像しすぎですよ。そこが大好きなんですけどね、悪い方に想像するのは良くないですよ。
そう言われ、優一郎に抱かれた。
おかしかった。いつもは優しい優一郎が、激しく睦を抱いた。まるで永遠の別れの前みたいだと思った。目的地が決まってないのは、そもそもそこまで行くつもりがないからだと思った。優一郎の言う通り、自分が想像しすぎているだけかもしれない。けれど、想像だけではなかった。勘もあった。
――どこにも行かないで、お願い、行くなら私も一緒に行く。
――書けないなら、書かなくていいから、私とずっと一緒にいて。
何度も懇願するものの、優一郎は頷くことはなかった。一人で行かせてください。一生のお願いです。そう言われた。一生のお願いなんて、今使わないで、と泣きながら優一郎の手を握ったが、心配しすぎだと抱きしめられ、そのまま寝てしまった。
翌日の早朝、一人で出ていって、そして、想像した通り、優一郎は帰ってこなかった。
それからのことは、兄がやってくれた。自分は言われた最低限のことだけをした。
裁判のことも、葬式のことも、全て兄や親にしてもらった。
兄から聞いた話では、優一郎は、新幹線の前に身を投げ出す前、誰かに謝っていたという。優一郎の後ろで並んで待っていた人の証言だった。
死なせてください。逝かせてください。もう駄目なんです。ごめんなさい。
その言葉が誰に向けられたものなのかは分からなかったが、その言葉を聞いた時、睦は、優一郎をもっと強く引き止めればよかったという後悔と共に、泣き崩れた。
葬式の日は、雨だった。
多くの関係者が参列した。けれど、睦はそこにいるだけで精一杯で、一人一人挨拶をすることができなかった。遺影の優一郎を見ることもできず、火葬場ではずっと泣いていた。隣にずっと兄がいてくれたから、なんとかなっていた。
式が終わった後、杏奈は最後まで残っていた。泣きはらし、疲弊した顔をする睦を、杏奈は謝りながら抱きしめた。
「私、睦ちゃんに誓ったわね。万道優一郎の世界を守るって。だから、MUGENちゃん、戻ってきてって言ったわね」
「はい。言ってくれました。葬式の時に。あの時は、ありがとうございました」
「ごめんね。本当に、守れなくて、ごめんなさい」
杏奈は、罪滅ぼしのように、慧斗を引っ張り、裁判所に行ったと言う。
慧斗に謝罪をさせ、会社を畳むよう指示した。大事なチームの一員を死へ追いやる社長が率いる会社など、存在して欲しくなかったからだ。
実質、杏奈がそれからの会社を動かしていたようなものだった。なるべく穏便に済ませるために、杏奈は各手続きを終わらせた。
「杏奈さんは、本当に、良くしてくれたと思います……、優一郎さんが苦しみながら生み出したあのゲームも静かに終わったみたいで」
「静かに終わったのは、もう見向きもされていなかったからよ。慧斗は大切な大切なファンたちを捨てたの。本当にあの人は、大切なものを失ったわ。私たちも。MUGENという素晴らしい漫画家も、クリエイターたちも。何もかも、失った。でも、私、優さんの創りあげた世界だけは、守りたかった。だから、私、もう一度、やり直そうと思ったの。そう、やり直そうと……思ったのよ……、でも、今、こうやってベッドの上にいる」
裁判も終わり、ハッピープラネットも終焉を迎え、いざ再出発しようという時だった。
杏奈は白い天井を見つめる。
「大量に血が出てね。おかしいと思って、婦人科に行ったの。あまりいい状態ではないみたい。ああ、そうだ。昨日も大量に血が出て、意識を失ったんだわ。それで、夢を見ていたのね。面白い夢だった。慧斗に似た王様がいて、優一郎に似た左大臣がいて、私は右大臣として、国を創ったわ」
杏奈は歌うように語る。
素晴らしい国が出来上がったけれど、ハッピープラネットのように、途中から怪しくなっていたと杏奈は語って聞かせてくれた。
「左大臣……優さんはね、別の所に行くと言って城から出ていったわ。記憶が全てなくなるから、私のことも国のことも忘れるって言って。あの人……バンドウさんは、きっと、左大臣……優さんよね」
ムゲンはやっと分かった。だから、センターでバンドウを見た時、意図の分からない質問をしてきたのだ。
杏奈はまだ死んだわけではなかった。意識を失い、その間だけ、転生していた。
死んでいなくて、良かった。生きていて、良かった。ムゲンは杏奈の手を握った。
杏奈もムゲンの手を握り返した。
「それより、睦ちゃんの方こそ、体、大丈夫なの。もうすぐ、予定日じゃないの?」
「え」
「お腹の子、もうすぐじゃなかった?」
ムゲンは、花束で隠れていた自分のお腹に手を当てた。無駄な肉のない、たいらな腹に。
ずっと、ゲームをしていた。特に、ストーリーのあるタイプのゲームをしており、手元にはメモ用のノートもあった。ストーリーを進めるためにいくらか課金もし、読めるだけ読んだ後は、企画のための準備を始める。
今まで触ってこなかった、スマホ向けのゲーム。据え置きや携帯ゲームとは違う遊び方。優一郎が頭を抱えているのを見ることが増えた。
ハピプラから出すのだし、いつものままでいいのではないかと声はかけたが、あまり納得はしていないようだった。
いつも楽しそうにしていたのに、呻きながらノートの上で鉛筆を動かしていた。
無事話がまとまり、開発に動き出した時、酷く疲れている顔をしていたのを覚えている。
主人公はプレイヤーの分身というタイプのキャラクターだった。主人公デザインとメインキャラクターのデザインを担当したが、優一郎からの指示は「もうお任せします」だけだった。
いつもと違う。小さな違和感が、大きな不安に変わったのは、リリース後だった。
スマホをちらりと見ては、スマホをベッドに投げて溜息をつく。シナリオの評価を気にしているみたいだった。
ある時、会社から帰ってきて真っ先に大事なノートを可燃ゴミの袋の中に突っ込んでいた。本当に捨てていいのかと聞いたが、もう要らないと答えられた。
一人で部屋に籠もっていることも増え、中から「書けない、もう何も出ない」という声が聞こえてきた。
あまりにも様子がおかしいので、杏奈に相談しに行ったのだ。
「私、睦ちゃんに、何があったのか教えたわね」
杏奈は瞼を伏せた。
「慧斗は優さんを責めてた。悪いのは、金に目がくらんだ慧斗の方なのに」
「あのガチャシステムを改善しなかったのは、社長の指示だったのですか」
「そうよ。どうせすぐにサ終するくらいなら、今いるコアなファンたちからもらうだけもらったほうがいいって。だから、優さんは悪くなかった。悪いのは慧斗のほう」
大型アップデートの話が出てから、ますます優一郎は引きこもりがちになった。
たまにリビングでノートを開いていたが、手は動いていない。コーヒーも減っていなかった。
引きこもるのも限界が来たのか、優一郎は突然「取材に行ってきます」と睦に言った。
いつもは二人で行っていたので、睦も一緒に行くと言ったのだが、優一郎は一人で行かせてくださいと断ってしまった。これは息抜きも兼ねているから、一人でぼんやりとしたい、と言って。
優一郎を一人にさせるのは、不安だった。けれど、これまでの様子から、一人にした方がいいのかもしれないとも思った。
だから、新幹線の切符は一人分だけ買った。行先は東北だった。その選択に特に深い理由はないらしい。目的地も決めていない様子だった。適当に赴いた場所で、適当にネタになるものを集めてくると言っていた。まあ、そういうこともあるのだろう、と、睦は話を聞いていた。
けれども、出発前夜になって、やはり不安になって、睦は言ったのだ。行かないでとベッドの中で言った。
このまま一人で遠い所に行かせると、帰ってこないような気がした。
――睦ちゃんは想像しすぎですよ。そこが大好きなんですけどね、悪い方に想像するのは良くないですよ。
そう言われ、優一郎に抱かれた。
おかしかった。いつもは優しい優一郎が、激しく睦を抱いた。まるで永遠の別れの前みたいだと思った。目的地が決まってないのは、そもそもそこまで行くつもりがないからだと思った。優一郎の言う通り、自分が想像しすぎているだけかもしれない。けれど、想像だけではなかった。勘もあった。
――どこにも行かないで、お願い、行くなら私も一緒に行く。
――書けないなら、書かなくていいから、私とずっと一緒にいて。
何度も懇願するものの、優一郎は頷くことはなかった。一人で行かせてください。一生のお願いです。そう言われた。一生のお願いなんて、今使わないで、と泣きながら優一郎の手を握ったが、心配しすぎだと抱きしめられ、そのまま寝てしまった。
翌日の早朝、一人で出ていって、そして、想像した通り、優一郎は帰ってこなかった。
それからのことは、兄がやってくれた。自分は言われた最低限のことだけをした。
裁判のことも、葬式のことも、全て兄や親にしてもらった。
兄から聞いた話では、優一郎は、新幹線の前に身を投げ出す前、誰かに謝っていたという。優一郎の後ろで並んで待っていた人の証言だった。
死なせてください。逝かせてください。もう駄目なんです。ごめんなさい。
その言葉が誰に向けられたものなのかは分からなかったが、その言葉を聞いた時、睦は、優一郎をもっと強く引き止めればよかったという後悔と共に、泣き崩れた。
葬式の日は、雨だった。
多くの関係者が参列した。けれど、睦はそこにいるだけで精一杯で、一人一人挨拶をすることができなかった。遺影の優一郎を見ることもできず、火葬場ではずっと泣いていた。隣にずっと兄がいてくれたから、なんとかなっていた。
式が終わった後、杏奈は最後まで残っていた。泣きはらし、疲弊した顔をする睦を、杏奈は謝りながら抱きしめた。
「私、睦ちゃんに誓ったわね。万道優一郎の世界を守るって。だから、MUGENちゃん、戻ってきてって言ったわね」
「はい。言ってくれました。葬式の時に。あの時は、ありがとうございました」
「ごめんね。本当に、守れなくて、ごめんなさい」
杏奈は、罪滅ぼしのように、慧斗を引っ張り、裁判所に行ったと言う。
慧斗に謝罪をさせ、会社を畳むよう指示した。大事なチームの一員を死へ追いやる社長が率いる会社など、存在して欲しくなかったからだ。
実質、杏奈がそれからの会社を動かしていたようなものだった。なるべく穏便に済ませるために、杏奈は各手続きを終わらせた。
「杏奈さんは、本当に、良くしてくれたと思います……、優一郎さんが苦しみながら生み出したあのゲームも静かに終わったみたいで」
「静かに終わったのは、もう見向きもされていなかったからよ。慧斗は大切な大切なファンたちを捨てたの。本当にあの人は、大切なものを失ったわ。私たちも。MUGENという素晴らしい漫画家も、クリエイターたちも。何もかも、失った。でも、私、優さんの創りあげた世界だけは、守りたかった。だから、私、もう一度、やり直そうと思ったの。そう、やり直そうと……思ったのよ……、でも、今、こうやってベッドの上にいる」
裁判も終わり、ハッピープラネットも終焉を迎え、いざ再出発しようという時だった。
杏奈は白い天井を見つめる。
「大量に血が出てね。おかしいと思って、婦人科に行ったの。あまりいい状態ではないみたい。ああ、そうだ。昨日も大量に血が出て、意識を失ったんだわ。それで、夢を見ていたのね。面白い夢だった。慧斗に似た王様がいて、優一郎に似た左大臣がいて、私は右大臣として、国を創ったわ」
杏奈は歌うように語る。
素晴らしい国が出来上がったけれど、ハッピープラネットのように、途中から怪しくなっていたと杏奈は語って聞かせてくれた。
「左大臣……優さんはね、別の所に行くと言って城から出ていったわ。記憶が全てなくなるから、私のことも国のことも忘れるって言って。あの人……バンドウさんは、きっと、左大臣……優さんよね」
ムゲンはやっと分かった。だから、センターでバンドウを見た時、意図の分からない質問をしてきたのだ。
杏奈はまだ死んだわけではなかった。意識を失い、その間だけ、転生していた。
死んでいなくて、良かった。生きていて、良かった。ムゲンは杏奈の手を握った。
杏奈もムゲンの手を握り返した。
「それより、睦ちゃんの方こそ、体、大丈夫なの。もうすぐ、予定日じゃないの?」
「え」
「お腹の子、もうすぐじゃなかった?」
ムゲンは、花束で隠れていた自分のお腹に手を当てた。無駄な肉のない、たいらな腹に。