4章 統治を忘れた国王

 次に目が覚めると、もう机にはムゲンはいなかった。
 カーテンをそっと開けて外を見ると、カウンターを挟んでムゲンと星間ちゃんが何か話していた。カウンターの外にいる星間ちゃんは背伸びをしているのか、とんがり頭を隠している制帽だけがバンドウから見えた。ムゲンはカウンターに肘をついてもたれかかっている。少し身を乗り出す格好になっていて、寝ているバンドウに配慮しているのか、ひそひそと話をしていた。
 バンドウは耳を澄ませ、会話の内容を盗み聴く。
「だから、バンドウさんに話をしてみたらどうですか?」
「でも、今度のことは、余計なことかもしれない」
「バンドウさんがやめろなんて言うわけないじゃないですか。それに、宣伝部だって、お仕事早いですし、ひとつくらい仕事増えても文句言いませんよ。というか、宣伝するのが宣伝部の仕事じゃないですか?」
「それもそう、だけど、でも」
「でもじゃなくて、バンドウさんに相談してみればいいんです。なんでそんな弱気になってるんですか」
 珍しく星間ちゃんが熱くなっている。自分には冷たい言葉を浴びせてくるのに、ムゲンに対しては熱い言葉を送っているのが気に食わなかった。バンドウはそれから先の会話は聞かずに、机の上に置きっぱなしにされていたものを見る。
 シャープペンシルとコピー用紙。何か描こうとして、消された跡が残っていた。消しゴムのかすが机の上にまとめられている。それに、長い定規と短い定規が残されていた。ムゲンはこれに何を描こうとしていたのだろう。跡をよく見ようとしても、綺麗に消されていたため、見当がつかなかった。
 まだ頭がぼんやりとしているので、無地のマグカップにインスタントコーヒーを入れ、椅子に座ってずずっと飲んだ。
 バンドウは完全なブラック派だった。微糖すら許さない。甘いものもそこまで好きではない。食べられないことはないが、甘い物を食べる時は、渋めのお茶かブラックコーヒーが欲しかった。
 入社一年目の時、オチ先輩からもらった保管期限切れの饅頭を少し口にして、餡の甘さにムカムカしたのがきっかけだった。それまでは何も口にしておらず、自分の好みも忘れてしまっていたバンドウだった。甘いのは苦手だと分かった途端、苦味の強いものを好んで口にするようになった。懐かしさがあったからだった。
 ムゲンが甘いのが好きだというのは、何となく知っているような気がしていたし、ミックスジュースが好きそうだと予想はしていた。実際、彼女はあれからよく休憩室の自販機でミックスジュースを買ってくる。あまり休憩室に行きたくないと言って、三本ほどまとめて買って冷蔵庫に置いている時もあった。ムゲンがリピートしているのは、バンドウと同じ理由で、懐かしさを感じているからだろう。
 お忘れ物センターにいると、様々な物に関わる。物に懐かしさを感じることもあるが、いちばん懐かしいと思うのは、物ではなくムゲンだった。
 コーヒーを半分飲んだ頃になって、ムゲンが保管室に忘れ物を置きに入ってくる。
「ムゲンさん、何か描こうとしてたんですか?」
 棚に忘れ物を分類しながら置き、ムゲンは「まあ」と答えた。
「漫画のラフをちょっと描いてみただけ」
「ちょっと? でも、何度も描いては消してってしてますよね、これ。結構考えてたんですか。あ、もしかして、エッチなやつでも描いてたんですか?」
「なっ……馬鹿、私はそんな漫画描いたことないっ」
 ムゲンはつかつかと机に歩み寄り、ばっとコピー用紙をバンドウから取り上げ、ぐじゃぐじゃに丸めた。
「恋愛ものは描いていたから、ハグとか、キスとかは描いたことあるけど、それ以上のことはないからっ」
 ゴミ箱に丸めたコピー用紙を投げ込んだムゲンの顔は真っ赤だった。
 相変わらず、この手の話には弱いなあと思いながらも、ムゲンがそこまで記憶を取り戻していることに驚く。
「へえ。そこまで思い出したんですね。羨ましい」
 ムゲンは冷蔵庫からミックスジュースを取り出し、一口飲んで、諦めたかのように言った。
「お忘れ物センターのパンフレットを作って、総合案内所に置いてもらおうと思って。簡単な漫画のパンフレットにしたらどうかなって……でも、絶対面白くないし、もういいかなって、思ってる……」
 半分ほど飲み、溜息をつく。
 ペットボトルのキャップをしめ、冷蔵庫の扉をぱたんと閉じた。
「僕は、好きにしたらいいと思いますよ、としか言えません。漫画のことはムゲンさんのほうがよく知っているでしょうし」
「バンドウさんは、お話とか考えたことありますか」
「考えたことはありませんが、雑誌の漫画とか新聞の連載小説とか読んでいると、よくこんな話が書けるなあと感心することはあります」
 自分の言葉に、違和感があった。
 何故、よく書けるな、と感心するのか。普通は、面白いとか、良かったとか、そういう感想がまず出てくるのではないか。
 残りのコーヒーでその違和感を腹の底に流し込み、バンドウは流しにカップを置いて保管室から出る。
 清掃員が次のお忘れ物を持ってくる時間が近づいていた。
 カウンターに出ると、星間ちゃんがバンドウを横目で見てくる。またムゲンさんに余計なことを言って困らせましたね、と言いたいのが伝わってきて、バンドウは肩をすくめた。
「星間ちゃんさんは、何故、僕とムゲンさんで態度を変えるんですか。僕もあなたを描いてあげたじゃないですか」
「だってムゲンさんのほうが上手ですもん。あ、そうだ。ボク、バンドウさんが出張に行っている間、ムゲンさんにたーっくさんぎゅうしてもらったんです!」
 勝ち誇った顔で言われ、バンドウはすう、と目を細める。
「ああ、嫉妬と深い悲しみに包まれて特急の前に身を投げ出したくなりますね」
 後ろで、ムゲンが息を呑んだのが聞こえた。
「冗談言わないで」
 バンドウは死ぬわけないじゃないですか、と笑ったが、ムゲンは本気にしているようだった。
 ホームで儀式をしているところを見られてしまったから、そう思われても仕方ないか。バンドウはそう思いながら新しいリスト用紙をファイルに挟んだ。ムゲンは新しい札に糸を通し始める。
「星間ちゃんさん、そのことは内緒だったはずです。それに、バンドウさんにあまりキツく言わないでください。本当に死なれては困ります」
 ムゲンに注意をされた星間ちゃんは、はあい、と言って、ちらりとバンドウを見た。バンドウも星間ちゃんを見る。
 視線がぶつかり合い、ばちっと火花が散った。
 それは、小さい子供が母親ばかりに懐いて、父親に懐かない様子と似ていた。そして、父と子がお互いに愛する妻、愛する母を奪い合っているようでもあった。バンドウはいつか読んだお忘れ物の育児雑誌を思い出した。その雑誌の中に小さなコラムがあり、子と父が嫉妬し合うことがあるということが紹介されていた。
 魔法の存在なのに、どこか、人間っぽさがあった。
 ムゲンのデザインによって多少は可愛らしくなった星間ちゃんだが、性格は可愛くないなと思う。それがまた星間ちゃんに伝わったのか、星間ちゃんはバンドウをじっと見ていた。
 お前のせいだろ、と言われたような気がした。
 剣呑な雰囲気にムゲンは少し二人から距離を取った。
 大きく溜息をつく。二人とも、何をそこまで熱くなる必要があるのだろうか。
 ムゲンの眉間には皺が寄っていた。
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