3章 色彩を忘れた魔女

 特急タナバタから下車し、お忘れ物センター前まで戻ってくると、アンジェリカはムゲンに何度も頭を下げた。
「ほんっとうにありがとうございました! 前世お忘れ物捜索サービス、頼んで良かったです。おかげで、絵が好きだった頃を思い出せました。あの、MUGENさんも……良かったら、漫画、描いてくださいね」
 アンジェリカは漫画家のほうの自分に言ったらしい。ムゲンは眉をハの字にして、機会があれば、と簡単に返した。
 ちょうどその時、お忘れ物センターから、一人の少女が出てくる。アンジェリカと似たような、奇抜なワンピースに、たくさんのフリルがついた大きな帽子を被っている。
 手には、あの魔法のクレヨンがあった。
 少女はアンジェリカの顔を見ると、あっ、と大きな声を出した。
「あなたはアンジェリカ様では!? なんでっ、一番売れっ子のカード師がここにいるの!?」
 顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。アンジェリカのファンのようだ。
 どうも同じ世界から来たようである。
「ちょっと旅行に行ってました。あなたの持っているのは魔法のクレヨンね。あなたもカード師?」
「はいっ、でもまだ開店したてで、ぜんっぜんお客が来なくて……、あの、これから帰るなら、一緒に帰りませんか? いろいろカードのこと教えてほしいんです」
 アンジェリカはもちろんと頷いた。ムゲンにぺこりと頭を下げて、少女と一緒に中央改札の方へと歩いていった。
 魔法のクレヨンも持ち主の元に戻って良かった、と思いながらムゲンはお忘れ物センターのドアを開ける。いつもの通り、今すぐベッドに倒れ込みたかった。
「あっ、ムゲンさん! おかえりなさい!」
 へとへとのムゲンにばっと抱きついてくるものがあった。星間ちゃんだった。
 まだ星間ちゃんがいる。嬉しくなって、ムゲンはしゃがんで星間ちゃんを抱きしめた。
「ただいま帰りました」
「ムゲンさん、お疲れのところすみません。見てほしいものがあるんです」
 星間ちゃんはムゲンの手を引いて、カウンターの左横の壁まで連れて行く。
 ムゲンは壁にあったものを見て、驚いた。
 自分が描いたデザインのポスターが、既に清書され、印刷され、壁に貼られていた。星間ちゃんが傘を持って微笑んでいる絵だった。
「なんで」
「バンドウさんが机の上に置きっぱなしだったやつを一枚選んで、スキャンして宣伝部にメールで送ってました。時たまイライラしてましたけど、ムゲンさんに教えられた通りやって、なんとか送れたようです。宣伝部って、お仕事が早いんですね。六時間もすればポスターが送られてきました。持ってきたのはジョーさんでした。ジョーさんもバンドウさんも、ここに立って、いいですねえ、いいねえ、っていっぱい褒めてましたよ」
 ムゲンはすぐにパソコンの前に座り、メールの送信履歴を見る。
『おせわになっています。お忘れ物センターのポスターの制作をおねがいしたいです。うちのムゲンが案を考えました。スキャンしたものをてんぷしています。このままのデザインで清書して、印刷して送ってください。よろしくおねがいします。バンドウ』
 たったこれだけの文章だったが、バンドウは入力すらままならないので、時間をかけて打ち込んだのだろう。だからイライラしていたのだ。
 このままのデザインで清書してくれ、という文章を読んだ時、ムゲンは顔を赤くした。
「バンドウさんはどこですか」
「保管室でさっきまで寝てました。もう起きていると思いますよ」
 星間ちゃんがふふふ、と笑って、ポスターの前に戻ってしまった。
 ムゲンがそっとカーテンを開けると、バンドウはベッドの上に座ってぼうっとしていた。寝起きみたいだった。
「バンドウさん」
「あ、ムゲンさん、おかえりなさい。お疲れでしょう。どうぞ」
 バンドウはベッド脇に座り、ぽんぽんと叩いた。ムゲンはバンドウの隣に座って、もじもじと話し出す。
「ポスター……あの……」
「ああ、あれ、いいのができましたね。ムゲンちゃんのおかげです。素晴らしい絵でした」
「バンドウさん、パソコン……どうして……、あんなに嫌がっていたのに」
「パソコンは大嫌いですけど、ムゲンちゃんのためなら、なんか頑張れる気がしたんですよ。ムゲンちゃんが頑張ってるなら、僕も頑張らないとって思って。捜索サービスから疲れて帰ってくるムゲンちゃんを驚かしたいなって思ってましたし。結果、見事に僕も疲れて、寝込んじゃったんですけど」
 ははは、と笑うバンドウに、ムゲンは口をぱくぱくとさせる。
「仕事も大嫌いなのに、なんで」
「大嫌いというわけじゃないですよ。ここで働く意義が分からず、やる気がなかっただけです。無理に働くと僕たちの心はすぐ壊れてしまいますし。ムゲンちゃんがここに来る前は、僕、サボりにサボってましたよ。先輩が死んでからはほとんど仕事せずサボってました。ムゲンちゃんも見たでしょう、ぐちゃぐちゃの保管室。でも、ムゲンちゃんがここに来た時、すごく、嬉しくて、懐かしかったんです。でも、何故か、悲しかった。なんであなたがここに来たんですかって言葉が、ここまで出てきました」
 バンドウは喉元に手を当てた。
「まあ新人にそんなこと言うと困らせるだけですから、言わなかったんですけど。それに、そんな言葉が出てくる理由も僕自身分からなかったし、今も分かってません。でも、ムゲンちゃんに、僕は懐かしさを感じます。僕は昔から、ムゲンちゃんのことを知っている気がするんです。だから、余計に、ムゲンちゃんのためにいい上司になろうって思ったんです。サボり癖は相変わらずですけどね」
 ムゲンはそう言われて、バンドウの顔をまっすぐに見ることができず、視線を保管室の棚に移した。
「バンドウさん、私、漫画家だった。MUGENっていう名前で、ハッピープラネットの漫画を描いてた」
「ああ、だから絵があんなにお上手だったんですね。そうですか。記憶がありましたか」
「でも、私はストーリーは、いつも誰かに考えてもらってた。その誰かは分からないけれど、その誰かが、いつも私を褒めてくれていた。だからなのか、私は、バンドウさんに褒められると、とても……嬉しい……ポスター……ありがとうございました」
「そうですか、そうですか。いくらでも褒めてあげますよ。あ、じゃあ、僕もムゲンちゃんにたくさん褒めてもらいたいです。本当にパソコンが苦手なんですが、スキャンもメールも頑張ったんです。疲れましたから、ご褒美にムゲンさんにぎゅうっとしてもらいたいです」
 ムゲンははっとして、バンドウの顔を見る。
 読んできた漫画と、ほぼ一緒のセリフに、ムゲンの胸が苦しくなる。
「それだけでいいの」
 言ったあとになって、口を両手で覆う。言葉が勝手に口から出てきてしまった。何でもないと発言を撤回するよりも先に、バンドウが言葉に反応する。
「え、それ以上のこともしていいんですか?」
「ち、ちがっ、私が描いた漫画に似たようなシーンがあっただけっ」
「キスしたいです」
 バンドウに手首を掴まれ、そのまま顔を寄せられる。息を呑んだ。
 細い目が、ムゲンをじっと見つめる。
「前にも言いましたけど、嫌だったら、嫌って言わないと、ムゲンちゃん。このままじゃ、本当にしちゃいますよ。特急の前に身を投げ出したくなるくらい、したいんです。僕は、ムゲンちゃんのこと、昔から、ずっと好きだった気がするんですから」
 頬に手が添えられる。ムゲンは嫌とも言えず、バンドウを突き飛ばすこともできず、ただ、何故、という思いを抱きながらバンドウのキスを受け入れてしまった。何故、あの漫画と同じセリフが言えるの、それは偶然なの――その言葉は、口を塞がれて出てこれなかった。
 嫌だとは思わなかった。優しいキスだった。
 勢いよく湧き出てくる懐かしさに、目眩がする。涙が出そうだった。切なさと、悲しさと、喜びが混ざった、感情の波に襲われる。
 自分で描いた漫画を手に取った時と同じような衝撃と、強い眠気に、くらりとしてしまい、気絶するようにバンドウの胸の中に倒れた。
 バンドウはしっかりとムゲンを抱きしめる。ムゲンの目に溜まっていた涙がバンドウのジャケットに小さな染みを作った。バンドウはそれから数回、ムゲンの頭を撫でた。
 横にさせると、ムゲンがバンドウの袖を握った。
「いかないで……」
 寝言にしては、はっきりした言葉だった。バンドウはムゲンの頬をそっと撫でて、小さく言った。
「僕はもうどこにも逝きませんよ。おやすみなさい。お疲れ様でした」
 カウンターに出ると、星間ちゃんがちらりとこちらを見てくる。何か言いたそうだったので、何ですか、と問うと、星間ちゃんは、はあっとわざとらしく溜息をついた。その溜息の仕方はムゲンに似ていた。
「無理矢理はよくないと思います。ムゲンさん、混乱してましたよ」
「しょうがないじゃないですか。僕にも止められないんですよ、これは。この衝動は。ホームに飛び込むよりマシでしょう。それに、僕、ちゃんと確認しましたよ。ムゲンちゃん、嫌って言いませんでした。無理矢理じゃありません」
「それはそうですけどぉ……」
 星間ちゃんはムゲンに似た冷たい視線をバンドウに突き刺した。こういう真面目なところはムゲンに似ていてつい笑ってしまう。
 ふっと最後の息を吐いたところで、バンドウは顔から笑みを落とした。
「何なんですかねえ、僕たち。僕が前世お忘れ物捜索サービスを受けたいくらいですよ」
「依頼をこなしていれば、バンドウさんもそのうち見つかりますよ、きっと」
 星間ちゃんの言葉はそこで途切れた。
 バンドウはガラスの壁の向こうを見る。
「働けってことですね」
 記憶というお忘れ物は、一体どこに落ちているのか。それを捜すためにも、もう少し仕事を頑張ってみるかとバンドウは心の中で決めた。

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