3章 色彩を忘れた魔女



 久しぶりに体を流した気がする。
 ムゲンは職員休憩室の隣にあったシャワールームにいた。駅で過ごす職員たちのために作られている場所だが、滅多に使われていない。体を洗い流す必要などなかったからだ。ムゲンは別の目的で来ていた。
 初めての前世お忘れ物捜索サービスから三週間。広告の影響か、一週間に一件のペースで捜索サービスへの依頼が来ていた。二度はバンドウが行ったが、前回はムゲンが行った。この仕事に早く慣れたかったからだ。
 ムゲンが担当した男性の依頼人が取りに行ったのは、一枚の写真だった。心中した恋人の写真だという。転生後、恋人がどこにもいなくて自分一人で寂しかったから写真がほしい、という依頼だった。心中の理由は聞かなくても依頼人が語った。駆け落ちだったという。依頼人はかなりしっかりとした記憶を持っていて、依頼は滞りなく進み、トラブルもなく転生先の世界へ帰っていった。
 疲れるようなことはなかったはずだが、帰ってくると疲労がムゲンを襲ってきて、すぐに保管室にあるベッドに入って眠ってしまった。女性職員用の仮眠室があることも知っていたが、そこまで行く元気がなかった。
 目が覚めてすぐに、ムゲンはバンドウにセンターを任せ、シャワールームに来た。眠気がいつまでもまとわりついている気がして、しゃきっとしたかったからだ。うだうだしている自分が許せなかった。
 限界だと感じるまでお湯の温度を上げ、頭からシャワーを浴びた。長いまつ毛から雫がぽたぽたと落ちていくのを見つめていた。
 前面は鏡となっていて、自分の姿が写っている。無駄な肉が削ぎ落とされたかのような体、それでいて女性らしい丸みを帯びたラインをしている。傷や痣などといったものはどこにもなく、二十八年生きているにしては綺麗すぎると思った。
 自分の顔には表情がなかった。笑えと言われても笑うことができなかった。
 前髪をかきあげ自分の額を見たが、あのおじさん勇者みたいな転生印はなかった。アデリアみたいに自分の乳房に転生印があるのかと思って乳房も見てみたがなかった。アルスみたいに首筋にあるのかと思ったが、首筋にもなかった。
 お腹にも、太ももにも、腕にも、腰にも、どこにも転生印を見つけ出すことができなかった。背中は自分では見えなかったから諦めた。
 彼らは皆、桃色の花の印を肌に浮かばせていた。桃色の花の印を持つ者は、日本という国を前世の国としていた。
 ムゲンが懐かしさを感じる国の名前だった。だから、ムゲンは自分の体のどこかに彼らと同じ印があるのではないかと考えて、それを確かめにもシャワールームに来ていた。誰かに背中を見てほしかったが、そのようなことを頼める人はいなかった。
 バンドウはいつか言っていた。証が自分たちにはない、と。
 懐かしさはあるのに、転生者である証がない。では、自分たちは、何者なのだろう。
 何故この会社に勤めることになったのだろう。
 思い出そうとしても分からなかった。まったく記憶がない。
 転生者には記憶がほとんど残っている者、部分的に残っている者、まったく残っていない者がいる。まったく残っていない者は転生者であることすら自覚していないことが多い。自分もその一部なのだろうか。でも、転生印がない。証明するものがないのだから、分からなかった。
 このような疑問を持つことすらおかしいのではないかと思い始め、ムゲンはお湯を止めた。徐々に冷たくなっていく雫が足の爪先に落ちる。
 シャワールームに置かれていたタオルで自分の体を包むと、バンドウに抱きしめられた時の温かさを思い出し、顔が火照った。
 嫌だったら嫌と言えたはずなのに。やめてといつもの調子で言えば、バンドウもやめてくれたはずなのに。
 何故懐かしさを感じ、そのまま眠ってしまったのか、理解ができなかった。
 ――特急の前に身を投げ出したくなるのと同じように、ムゲンちゃんに、そうしたくなるんです。
 つまりそれは、懐かしさからくるものだとバンドウも言っているのだ。それも理解ができなかった。自分たちに何の繋がりもないはずなのに。
 考えていると恥ずかしくなってしまい、タオルで体をごしごし拭き、カゴに投げ入れた。
 白のシャツに制服のスーツを着て、名札を首にかける。ドライヤーで髪を乾かし、ロッカーに入れていた自分の化粧ポーチを出し、顔を作った。
 化粧は得意だった。アイラインを引き、きりっとした顔にすると、心も引き締まる。口紅はナチュラルなものを使っていた。
 休憩室に入ると、誰もいなかった。自販機のラインナップを見ると、いつか飲んだことがありそうなものが並んでいた。中でもこの前バンドウが買ってくれたミックスジュースが一番好きなような気がする。炭酸は苦手だったし、コーヒーはブラックよりも微糖のほうが好きだし、それよりもカフェオレの方が好きなような気がする。バンドウがミックスジュースを選んだのはたまたまなのか、それとも、知っていてそれを選んだのか分からなかった。名札裏にあるバーコードをリーダーにかざし、ミックスジュースを買った。それともう一本、バンドウのためにブラックコーヒーを買い、ジャケットの中に入れた。


 センターに戻ろうと歩いていると、総合案内所にいるジョーを見つけた。
 お忘れ物センターに来る時のジョーはいつもヘラヘラしていて、ムゲンの小言をかわし、バンドウと一緒になって遊んでいるが、総合案内所のカウンターの中にいる彼は、普通の駅員として働いていた。それが意外だった。
 ジョーの後ろには、中年の女性がいる。彼女がきっとジョーをきつく縛り上げている上司の女性なのだろう。もう一人、金髪の青年がジョーの隣で働いていた。黒髪が多いのかと思っていたので、金髪の駅員が複数いることに驚いた。
 北口改札前よりも歩いている客の数が多く、ぼうっとしていると流されてしまいそうだ。
 ムゲンは壁際に寄り、ジョーの様子を遠くから見ていた。
 カウンターの中から段ボール箱を持って出てきたジョーは、カウンターの前にしゃがんだ。段ボールから飛び出しているのは、ポスターだった。
 ツアー案内のポスターだった。丸まったポスターを伸ばし、ジョーは雑にポスターを貼っていく。しばらくすると女性上司が様子を見にカウンターの外に出てきて、何かを命じていた。貼り直しだ。聞こえなくても分かる。概ね斜めになっているからとか、たるんでいるからとか、そういう理由だろう。几帳面な上司のようで、少しだけ羨ましかった。ジョーは何か口答えしたようで、女性に尻を蹴られていた。ジョーは尻を何度か撫で、貼ったポスターを一度剥がし、再度、今度は丁寧に貼り直した。最初からそうすればいいのに、そこまで考えが至らないのが、ジョーらしい。
 ムゲンはふと上を見上げた。天井からは駅の案内やポスターが吊り下げられている。他の会社の広告はじめ、異世界鉄道会社の広告など、様々なポスターがあった。
 お忘れ物センターには、これといったポスターは置いていなかった。大きなモニターが一つあり、期限切れになりそうなお忘れ物を掲示しているが、それを見る者は誰もいない。外からも見えにくかった。
 ムゲンは少しだけ考えて、決めた。
 できるかどうかは分からなかったが、なんとなくできそうな気がした。お忘れ物を取りに来る客が増えれば、ゴミも減る。客が増えれば、バンドウももっと働いてくれるだろう。
 そうと決めたら、すぐに仕事に取り掛かりたかった。ムゲンは急いでセンターに戻った。
 途中、お土産売り場にいた星間ちゃんを見て、やっぱりダサいなと思った。

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