2章 ラスボスを忘れた勇者

 下車後、ムゲンはアルスを中央総合案内所のカウンターまで連れて行った。ジョーはいなかったが、ジョーが毛嫌いしているおばさん上司はいた。化粧が濃いのは、皺やシミを隠しているからだろう。アルスの転生先の世界を伝え、あとは総合案内所に頼むことにした。別れ際、アルスはぺこりと頭を下げた。もうあの時の狂気はなかった。
 人混みの中をムゲンはヒールを鳴らしながら歩く。いつも北口改札前にいたから、中央の人の多さまでは知らなかった。気を抜いたらどこかに流されてしまいそうだった。なんとか北口改札への流れに乗り、センターに戻る。
「あっ、ムゲンちゃん! おかえりー!」
「おかえりなさい、ムゲンさん……?」
 案の定、ジョーがいた。バンドウと何か会話をしていたようだ。ムゲンは無言で保管室に入り、シャッとカーテンを閉めた。
 ジョーとバンドウは顔を見合わせる。
「ジョーさん。今日はもうお帰りください。すみませんね。すごろくも駄目でしたし」
「いいんすよ。こういう時もありますって。また来ます」
「あ、あと、今度来る時、南口改札前のコンビニで新聞買ってきてもらっていいですか? 最近、新聞にハマってて」
「了解っす。じゃ、また」
 軽く右手を上げて、ジョーがセンターから出ていく。バンドウはそっとカーテンを開け、ベッドを見る。ムゲンがオラクルを抱きしめてこちらに背を向けて寝そべっていた。ベッドの脇には飲みかけのミックスジュースが転がっている。
 バンドウはカーテンを閉め、静かにリストの整理を始める。それからすぐのことだった。
「ねえ」
 確かに声は聞こえたが、姿が見えない。バンドウは身を乗り出し、カウンターの下を覗き込む。
 小さな女の子がいた。金髪をツインテールに結っている幼女だった。真っ赤なドレスを着ている。
「はい、こんばんは、いらっしゃいませ。今日は何をお忘れですか?」
「オラクルっていう黄色いクマのぬいぐるみよ。ごめんなさい、迎えに来るのが遅くなっちゃった。もしかして、捨てられちゃった?」
 半泣きの幼女に、バンドウは安心してくださいと笑いかけた。
「オラクル様、保管していますよ。少々お待ち下さい」
 カーテンを静かに開け、バンドウはムゲンの背中を小さく叩いた。ムゲンはオラクルに埋めていた顔を少しバンドウに向ける。
「オラクル様のお迎えが来ました。どうします? ムゲンさんがお返ししますか?」
「……そうします」
 ムゲンはオラクルとリストを持ち、カウンターから出て、顔を幼女の背の高さにあわせた。
「お名前は」
「ミラクル」
「なくされた場所は覚えていますか」
「南十字線、特急キセキだったと思う」
「はい。確かにあなたのお忘れ物です。お返しします」
 バンドウはそっと保管室から出てきて、カウンター越しに様子を見ていた。ムゲンはオラクルをミラクルに返却した。ミラクルは受け取った瞬間、オラクルをぎゅうっと抱きしめた。
「オラクル様はとてもよいぬいぐるみですので……、大切にしてください」
 ミラクルは頬を膨らませ、当然でしょ、と怒る。
「分かってるわ! あの時、寝てて、ぼうっとしてたの! でも……期限が切れても置いておいてくれてありがと。お礼に、祝福をあげる。ここ、何か呪いがある気がするから」
 幼女はオラクルの右腕を持ち、ムゲンとバンドウに向け、くるくると動かした。
 バンドウはにっこりして、ありがとうございます、と返事をした。
 ミラクルがセンターから出て、またムゲンは保管室の中に入る。バンドウはムゲンを追った。
 ムゲンはすぐにベッドに転がった。足を折って、身を縮こませている。
「元気がありませんねえ。何かあったんですか? お客様、こちらに帰ってきたんでしょう?」
 バンドウもベッドに腰を下ろす。
 しばらくムゲンは沈黙していたが、大きく息を吸って寝返りを打った。
「死にたくなった。踏切で。私は死のうと思った。踏切の向こうに誰かが待ってるような気がして。お客様にジャケットを引っ張られて助かったけど、あの時、私、死にたくなった。電車に轢かれて、踏切の向こう……どこか遠くにいる人の所に、行きたくなった」
「そうですか。ムゲンさんもですか」
「それに……」
 ムゲンは身体を起こしてベッドの上に座った。ぽつぽつとあったことをバンドウに話した。教えられた通り、客の望むようにした。忘れたものを思い出せるように少しだけ口出しした。そうしたら、客は殺人に走った。気持ち悪くても、仕事だから、何も言わなかった。
 足を両腕で抱き、ムゲンは膝に額につけた。オラクルがいなくなって、寂しかった。
「怖かった。目の前で人は死ぬし、自分も死にたくなるし、早く、センターに帰りたかった。私……疲れました……」
「でしょう? 捜索サービス、疲れるでしょう? ここがね」
 バンドウはとんとんと自分の胸を叩いた。
「人の死に向かわないといけませんからね。でも、いいんですよ、疲れても。ムゲンちゃんも休んでいいんですよ。こういうこともあろうかと、せっかくオラクルさんを残していたのに、迎えが来てしまいましたね。残念でした。うーん、何か癒しがあればいいんですけど」
「……バンドウさん、私、頑張ったから、いつもみたいに褒めてください」
「え、それだけでいいんですか? 今なら優しすぎるいい上司がムゲンちゃんをぎゅうってしてもいいんですよ? オラクルさんより絶大な効果があるはずです」
「なんでっ」
 ムゲンはがばっと顔を上げる。顔が真っ赤だった。バンドウは準備万端だと両手を広げていた。
「僕の回復力は凄まじいと思いますけど?」
「意味が分からないし、そうだとしても、なんでバンドウさんが私をぎゅうってする必要があるの」
「まあまあ、いいから。僕がしたいんです――、特急の前に身を投げ出したくなるのと同じように、ムゲンちゃんに、そうしたくなるんです。前から言ってるじゃないですか。僕、ムゲンちゃんのこと好きだって」
 ムゲンははっとした。
 どういうこと、あれは私をからかってただけじゃないの、と拒絶する前に、バンドウがムゲンの手を引っ張って、そのまま抱きしめた。
 バンドウは背が高い。ムゲンはバンドウの胸にすっぽり埋まってしまう。
 晃樹に突き飛ばされ、壁にぶつけて痛んだ肩を優しく撫でられる。
「ムゲンちゃんを捜索サービスにまだ行かせるべきではなかったのかもしれません。時期を間違えたのは僕のミスです。ごめんなさい。よく頑張りましたね。でも、ムゲンちゃん、お願いですから、ムゲンちゃんの心を壊さないでください。嫌だったら、嫌って言っていいし、愚痴も言っていいし、仕事も休んでいいんですよ」
 バンドウに頭を撫でられていると、懐かしさと眠気が襲ってくる。それは心地よいものだった。抱きしめられることも、嫌ではなかった。
 バンドウから与えられる心地良さに負けて、ムゲンはそのままこてんと眠ってしまった。
「身体は疲れなくても、心が疲れると、駄目なんですよね、僕たち。すぐ壊れてしまいます」
 ムゲンを横にし、額を撫でた。頬にキスをしたくなる衝動に駆られたが、これも列車に身を投げ出したくなるのと同じで、懐かしさからくるものだった。ムゲンを抱きしめたのはこれが初めてだが、ムゲンの柔らかさは知っているような気がした。するりとした頬をそっと撫でてバンドウはベッドから立ち上がる。
 センターの前に、血みどろの人物がぼんやり立っていたのを見つけたので、バンドウはセンターから出て声をかける。内臓がぐちゃぐちゃになっているが、元人間だろう。前世でズタズタにされて、そのまま魂が特急にふらっと乗ってしまったようだ。胸の前には名札があった。血で濡れていてよく見えなかったが、『プラ』と『三』の文字だけは読み取れた。
 どこに行くのかと聞くと、分からないと答えた。何故自分がここにいるのかも分からない様子だった。だから、バンドウは適当に伝えた。
「転生先をお探しでしょうか。それなら、おすすめの世界があるんですよ。ゲームプラネット線、寝台特急ハヤミで行けます。ちょっと料金はお高めですけど、きっとあなたのお求めのものがあると思いますよ?」


 成人男性二人が子供じみたゲームに熱中している。カーテン越しに声が聞こえてきて、作業に集中できなかった。もう限界だった。
 カーテンをシャッと開けて、ムゲンは息を吸った。
「あなたたちはコンプライアンスというものを――」
「よっしゃーー! オレが一番乗りです! バンドウさんにようやく勝てた〜!」
「ああ、もう。絶対このまま勝てると思ったのに……ジョーさん、今日はもう終わりにしましょう。ムゲンさんが限界のようです」
 保管室の入り口に立っているムゲンの眉間には皺が寄っており、カーテンを握りしめる手が震えていた。ジョーはムゲンをちらりと見て、はあいと素直に返事をする。
 あれから、何故かすごろくが遊べるようになっていた。最初の青スライムから進めるようになり、ガイコツやドラゴンといったモンスターを倒しながら進んだ。ラスボスは闇堕ちした人物だった。ミラクルの祝福というやつが効いたのかどうかは分からないが、とにかく遊べるようにはなっていた。バンドウが勝ち続けるのでムキになったジョーは、ようやく勝てた喜びを拳に乗せ、ガッツポーズをする。
 バンドウがすごろくを片付けている間、コーラをぐびっと飲んで立ち上がった。
「じゃ、もう行きます」
「はい。新聞ありがとうございました」
 にこにこしながらジョーを見送り、新聞をばさりと開く。今日も異世界鉄道会社の広告が大きく掲載されていた。
 ムゲンはそんなバンドウを見て、大きな溜息をつく。
 休むのはいいが、この人は休みすぎな気がしてならない。
 バンドウは放っておいて、自分は自分のペースで働けば良いのだ。そう思って、ムゲンは予備が少なくなったリストの印刷を始める。いい加減デジタルにしたいが、何度言ってもバンドウにそれだけはやめてくれと言われる。タイピングをしているところを一度だけ見たことがある。人差し指でぼちぼちと打ち込んでいたので、本当に苦手だというのは分かるのだが、いい加減使えるようにする努力をして欲しかった。
 プリンターの音を聞きながら、バンドウは新聞記事を読み進めていた。
 そしてある見出しを見て、バンドウは細い目を更に細めた。
「おやおや、余計なお世話をしてしまいましたかね、僕」
 新聞を開いたまま机の上に置き、バンドウはコーヒーを入れに立ち上がった。
 見出しには、こう書かれていた。
『前代未聞! 新米転生冒険者、カンスト冒険者を倒す! 前世の因縁で下克上か?』
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