2章 ラスボスを忘れた勇者

 橘と三宅がキスしていた所を目撃してしまったのが始まりだった。
 悲しむのは嫌でそこまで期待はしていなかったが、それでも密かな想いを抱いていた晃樹にとっては衝撃的な光景だった。
 飲み会の帰りだった。晃樹は人付き合いが苦手だったので、一次会が終わったら帰ろうと目論んでいた。他に一次会で上がる人がいれば帰りやすくなる。帰る方向が一緒だった橘を誘おうとしていた。飲み会が終わって、二次会どうする、と酒場の前で集まって無駄な時間を過ごしている時、晃樹は橘の姿がないことに気がついた。店から一緒に出たのは覚えているから、店の中に残っているというわけではない。水を買いに行ったのか、と思い、橘を探すことにしたのだ。この時、晃樹は三宅も一緒にいなくなっていることに気が付かなかった。
 自販機の光を見つけ、その前に三宅がいることに気がついた晃樹は、軽い気持ちで「また飲みすぎたんですか」と声をかけようとして、そして、三宅の前に橘がいることに気がついた。晃樹は話しかけることもせず、立ち去ることもせず、雑居ビルの影に身を潜ませ様子を見てしまった。
 ――いけませんよ、だって、不倫になるじゃないですか。
 ――バレなきゃいいんだよ。
 あの優しい橘のことだから、断れなかったのかもしれないし、本気で三宅のことを想っていたのかもしれない。
 橘の腕が三宅の首に回された時、晃樹はその場から逃げた。そして、二次会で自棄になって大量の酒を煽り、泥酔し、翌日は二日酔いで欠勤した。失恋のショックもあった。
 ――電話にも出なくて……。
 それは誰の電話? 会社の電話? それとも橘の携帯?
 ――私、課長に用事があって……。
 何の? デートの約束でもするのか?
 晃樹はナイフを片手に幽かな笑みをもらす。
 あれから三宅を探すために近くをうろうろとしていたが、結局オフィス街に戻っていた。晃樹は道の端にあったベンチに座って三宅を待っている。その隣にムゲンは立っていた。
 ビルは無表情で晃樹を見下ろしている。ここが犯行の現場だった。
 あれは深夜。三宅が残業を終えて帰っているところを、晃樹は襲った。深夜になると、このオフィス街も人通りがなくなる。月明かりのない、冷たいビルの中、晃樹はナイフを三宅に向けた。三宅は一心不乱に襲いかかってくる晃樹のナイフを奪い、正当防衛だと言って、晃樹の腹にナイフを突き立てた。
 転生の瞬間を思い出す。アスファルトで熱せられた空気が揺らいでいた。その揺らぎの中に、晃樹は過去の失敗を見る。
「ムゲンさん。この世って、不公平だと思いませんか?」
「何がですか」
「力がある人って、不公平を生み出すんですよ。オレの同期には軽いノルマ、オレには重いノルマを押し付けて、達成するまで帰ってくるな、土下座してでも売れって怒鳴るんです。ひどいですよね。自分は旧プラ時代から営業やってんだよって偉そうに。それに、あいつはオレがいない間、涼しい部屋で、女性職員たちと一緒にオレを笑ってるんです。その中にはきっと、橘もいるんです。オレに優しくしていながら、あの女は影で笑ってるんです。だから、オレはあいつを殺ろうと決めたんです。あいつさえいなければ、オレは不公平な目にあわなくて済んだし、もうちょっとまともに働けたし、もうちょっとRe:プラが好きになってました。あのクソ上司さえいなければ良かったんです」
「そうですか。お好きなようにされたらよいと思います」
 ムゲンは時計を見る。暑い中、三宅を待っていると、時間が経っていた。もうすぐ帰りの特急の時間である。
 晃樹の身体がゆらりと動いた。
 舌なめずりをして、つぶやく。
「オレはレベル100だぞ――」
 一人の男の前に立ち、晃樹はナイフをちらつかせた。
 三宅だ。顔が青ざめている。本当に二日酔いで倒れていたような顔だった。
「……は? え、なんでお前がいるんだよ。お前、俺が、だって、お前……あの時……」
 俺が殺したのに。ナイフを突きつけた感触を思い出したのか、三宅は吐きそうになり、口を手で覆った。
「殺しそびれたから、戻ってきました――今度こそ、死ねッ!!」
 オフィス街に悲鳴が響いた。
 ムゲンはその光景を無表情で見ていた。
 一人の男の残虐な行為を、ある者はスマホで撮影し、ある者は警察を呼んでいた。誰も、晃樹の腕を掴まなかった。
 三宅は何度も腹をナイフで刺される。内臓がぐちゃぐちゃにかき回されるような音が聞こえた。アスファルトに血の海ができた。
 返り血を浴びた晃樹は行為が終わるとナイフを投げ捨てた。海の中には肉塊と成り果てた三宅が転がっている。
「なんだ。ラスボスも雑魚じゃん。何かいいアイテムくらい落としてくれよ――」
 パトカーのサイレンが聴こえる。周囲には人が集まり始めた。
 ムゲンは時計を見た。時間ちょうどだった。晃樹の腕を取り、背後に現れた特急のドアに逃げるように押し込んだ。


 特急の中はやけに涼しかった。うだるような暑さにいた自分を労ってくれているかのようだった。
 ムゲンは溜息をつき、背もたれに身を預けた。
 晃樹は眠っていた。頬に血がこびりついているが、拭う間もなく、席についたらすぐに眠ってしまった。また転生先のアルスに戻るための眠りだった。
 転生先に持って帰るものはなかったが、向こうでやり遂げることはあった。アルスはこのサービスに満足して帰っていくだろう。仕事は上手くいった。なのに、何故だろうか。早くセンターに帰りたかった。センターに帰ったら、すぐベッドに入りたかった。
 ムゲンは疲労というものを感じていた。身体が疲れているわけではないが、何故か気だるい。加速に伴う圧力でさえ、苦しく感じる。
「あら、あなたがムゲンさん?」
 通路から声をかけられ、ムゲンは顔を上げた。
「はい、ムゲンですが……」
 自分と同じ、黒髪のっぺり顔の客室乗務員が、にこにこしながら自分を見ていた。何故この人は自分を知っているのだろうと思ったが、バンドウが利用している特急だ。バンドウから話が伝わっているのだろうとすぐに察する。
「お仕事お疲れ様でした。なんだか、すごい疲れた顔をしていますね」
「ええ、まあ……。えっと、あなたは」
「ハナビです。特急タナバタの客室乗務員になって二十年です。バンドウさんがたまに乗って、面白い話を聞かせてくれますよ。この前なんか、僕にもようやく可愛い後輩ができたって、喜んでました」
「はあ……」
 自分のことを可愛い後輩などと他人に言わないでほしい。恥ずかしかった。
 それよりも、ハナビにバンドウと似たような雰囲気を感じてしまい、つい聞いてしまった。
「ハナビさんって、死にたくなること、ありますか」
「ありますよ。私、こっそり、裏でビール飲むんですけどね。なんだか薬が欲しくなるんです。大量の錠剤。ここにはないので、できませんが。薬があったら、多分、一度に全部飲んじゃいます。バンドウさんに一度頼んだんですけど、薬は駅にも売ってないみたいですね。残念でした」
 ふふふ、と笑うので、ムゲンはそうですか、と返事をするしかなかった。
 ビールをバンドウに渡していたのは、このハナビだったというのも判明する。バンドウが特急タナバタを勧めてくる理由もよく分かった。
「それよりムゲンさん。お客様がいなければビールをお渡しするつもりだったんですけど、お客様がお隣にいらっしゃるので、これをお渡ししますね」
 ワゴンから出したのは、センターの冷蔵庫にあるはずのミックスジュースが入ったペットボトルだった。
 何かメモもついている。
「ムゲンさんはいい上司を持たれたと思います。それでは、ごゆっくり」
 ワゴンを押し、ハナビは前方へ行ってしまった。
 もう少し話したかったが、彼女も仕事中だ。
 ムゲンはメモを開いた。
『可愛い後輩へ。お仕事お疲れ様でした。初めての捜索サービスどうでしたか? 疲れたと思うので、甘いものを飲んでくださいね。バンドウ』
 ムゲンはメモを折りたたみ、ジャケットのポケットの中に入れた。
 ペットボトルのキャップを開け、ジュースを飲む。
 懐かしい、甘い味だった。
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