2章 ラスボスを忘れた勇者
Re:プラネット。そう書かれたプレートがビルの壁に埋め込まれていた。
ムゲンはなんとなく晃樹に聞いてみる。
「これと似たような会社が他にありますか」
「ああ、ハッピープラネットのことですか? みんな旧プラって呼んでますけど、ありましたよ。場所もここだったそうです。ソシャゲで大失敗して潰れちゃいましたけど。この会社はその跡を引き継いで再スタートを切った会社なんです。だからRe、なんですよ。社長は変わりました。オレはRe時代しか知りません。社風はハピプラを引き継いでると言う人の方が多いですね。改革中だそうです」
ハッピープラネット。
飴玉のように、ムゲンの口の中に残った。舌の上を転がるような感覚がする。甘く、苦い、言葉にできない感情が胸に広がる。
こちらに来てから、ずっとそんな気持ちになる。
――仕事中だ。仕事に集中しなければ。
ムゲンはジャケットの裾を両手で持ち引っ張った。服の皺が伸びると、自分の気持ちも正される。
ロビーに入ると、エレベーターが左右に二つあった。晃樹は名札をキーにかざし、エレベーターを一階に呼ぶ。
エレベーターの中には誰もいなかった。晃樹とムゲンは黙って乗る。晃樹が選んだフロアは三階だった。営業部とゴシック体で印刷されたシールが貼られていた。
エレベーターはあっという間にムゲンたちを三階に運び、チンッと軽快にベルを鳴らした。ドアが開き、晃樹が外に出るので、ムゲンも着いていく。
すると、色んな方向から「おかえりなさい」という声が帰ってくる。
晃樹は戸惑いながらも「ただいま帰りました」と返事をする。
デスクが並んでいる。机の上には書類をまとめたファイル、ゲームのキャラクターだろうか、フィギュアの女の子、小さな観賞植物などがあった。あまり綺麗ではない。ムゲンの好きな空間とは程遠かった。
ムゲンはエレベーターの横で壁にひっつき待機することにする。
「なんだ、向。もう帰ってきたのか。予定より随分早いじゃねえか」
すれ違った男が晃樹の肩を叩いた。
「あ、はい。今回は順調でした」
晃樹は適当に言い繕う。男性は煙草を咥えて喫煙ルームへと向かっていった。
「外、暑かったでしょ」
晃樹に話しかけたのは、女性の職員だった。半袖の白ブラウスの上にグレーのベスト、黒のスカートという服装で、軽くウェーブのかかった茶髪を揺らしていた。ピンクでまとめた可愛らしい顔がにこりと笑う。豊かな胸の上で名札が揺れるが、ムゲンからは名前を確認することはできなかった。
「はい、もう汗だくです」
晃樹があはは、と笑うと、遠くのデスクから男性の職員が「汗臭いまんまで俺らのアイドルに近寄んなよぉ」と声を上げた。この部屋の中にいる中では身分が高そうな中年の男だった。
「何言ってるんですか。向さん、県外に出張に行ってたんですよ? お茶くらい出してあげないと。先輩、どうぞ」
「ありがとう、橘さん」
晃樹は顔を赤くしながらガラスのコップを受け取った。中には冷たいお茶が入っている。
お盆を持ったまま、橘は首を傾げた。
「向さん、課長とどこかですれ違ったりしてませんか?」
「え? 課長? 昼飯に出てるんじゃなくて?」
橘は頬に手を当てて時計を見た。ムゲンも自分の腕時計を見る。午後一時半。
「それが、朝から出てるんですけど、帰ってこないんです。午前中で終わる予定だから、どこかでご飯を食べていると思ったんですけど、もう休憩時間も過ぎてますし。電話にも出なくて」
晃樹は動静表のホワイトボードを見る。
県外出張の欄には向と書かれた磁石が貼ってある。三日前から向は県外出張に出ていることになっていた。予定では明日帰ってくることになっていた。予定よりだいぶ早い帰りということである。その隣、外回りの欄には三宅と書かれた磁石が貼ってあった。AMまでと隣にペンで書かれている。
中年の男が「課長、昨日めっちゃ飲んでたからなあ。どっかで吐いてるんじゃねえの」と汚い声で笑い、橘はもう! と怒った。
「向さん、もう今日は直帰ということにしていいですから、ついでに課長と会ったら、早く帰ってきてくださいと伝えてくれませんか? 私、課長に用事があって」
「分かりました。確認すること確認したら行ってきます」
晃樹はフロアの隅に向かった。パーテーションがあり、中がよく見えない。ムゲンも黙って移動する。
パーテーションの中には円テーブルと椅子が五脚あった。会議用の机だろうか。
机の上にはゲームのパッケージ、ポスター、ゲーム機本体などが置きっぱなしだった。
ゲームのタイトルは『巡り巡る時を越えて』と書かれてあった。凛々しい表情をした青年が片手に剣を持ち、片手に少女を抱いていた。青年の背後には仲間と思しきキャラクターも数名描かれていた。
「これ、オレの転生先の世界。このゲームの世界に転生したんです。オレが担当してる商品で、この宣伝に明け暮れてたんです」
晃樹はゲームを起動させ、すぐに『はじめから』を選択した。
オープニングムービーが流れ、物語のあらましが文章で語られる。晃樹は黙ってそれを見ていた。
――あなたは、失敗した経験はありますか。
――なかったことにしたい過去はありますか。
――やり直したい過去はありますか。
女神だろうか。天使だろうか。背中に大きな純白の翼を持った女がプレイヤーに語りかけている。
「やり直したい過去かあ。ムゲンさんはありますか?」
「過去の記憶は私にはありませんから。それより、向様は。向様は、思い出したいことがあって、このサービスを利用したんですよね」
画面が暗転する。
短剣が光った。主人公は短剣を両手で握りしめ、自分の胸を勢いよく突き刺した。
どろりと血が流れる。血の海の中で息絶えた主人公を女神が抱きしめる。
転生が始まる――女神は魂を手のひらの上に乗せ、ふっと息を吹きかけた。
晃樹は左手でシャツを鷲掴みにして、喘いでいた。喉がヒュウヒュウと鳴っている。
「オレ……、オレ……」
右手がズボンのポケットをまさぐる。硬いものが手に当たった。
それが何だったのか、晃樹はようやく思い出した。
右手にあったのは、ナイフだった。
「オレ……、出張に行く……、フリをして……、課長を殺そうとして、逆に……ナイフを奪われて……課長に殺されたんだ……」
晃樹はゲームを投げ出し、ムゲンを突き飛ばしてトイレに走った。
壁に激突したムゲンは肩を撫でて、すぐに晃樹を追いかける。
手洗い場の鏡の前で、晃樹はシャツのボタンを外す。男性トイレであろうが、ムゲンには関係なかった。静かに入って晃樹の後ろから様子を見る。
ばっと胸元を開き、下着も捲し上げる。
ぺたぺたと自分の腹に手を当て、身体を確認していた。
「ない、ない、ない……!」
「何がですか」
「刺された跡が、ない! オレは殺されてないんだ! オレは、もう一度、課長を殺れる……、そうだ、オレのラスボスは、課長なんだ!」
ムゲンは腕時計を確認した。
午後二時過ぎ。時間には余裕があった。
「まだ時間があります。どうしますか」
「どうするって?」
「あなたはラスボスを思い出しました。そのラスボスはこちらで生きる人物です。つまり、ラスボスはこちらでないと倒せません。あなたが忘れたのは、旅の目的ではなく、その課長を倒すことではないのですか」
晃樹はナイフを持ったまま、ゆっくりと振り返った。
その目は充血していた。
「ああ、そうか……、だから、オレは向こうでやることがなかったんだ……」
晃樹はふらりとトイレから出ていった。
――仕事だから。
ムゲンは自分に言い聞かせ、晃樹に静かについて行った。
ムゲンはなんとなく晃樹に聞いてみる。
「これと似たような会社が他にありますか」
「ああ、ハッピープラネットのことですか? みんな旧プラって呼んでますけど、ありましたよ。場所もここだったそうです。ソシャゲで大失敗して潰れちゃいましたけど。この会社はその跡を引き継いで再スタートを切った会社なんです。だからRe、なんですよ。社長は変わりました。オレはRe時代しか知りません。社風はハピプラを引き継いでると言う人の方が多いですね。改革中だそうです」
ハッピープラネット。
飴玉のように、ムゲンの口の中に残った。舌の上を転がるような感覚がする。甘く、苦い、言葉にできない感情が胸に広がる。
こちらに来てから、ずっとそんな気持ちになる。
――仕事中だ。仕事に集中しなければ。
ムゲンはジャケットの裾を両手で持ち引っ張った。服の皺が伸びると、自分の気持ちも正される。
ロビーに入ると、エレベーターが左右に二つあった。晃樹は名札をキーにかざし、エレベーターを一階に呼ぶ。
エレベーターの中には誰もいなかった。晃樹とムゲンは黙って乗る。晃樹が選んだフロアは三階だった。営業部とゴシック体で印刷されたシールが貼られていた。
エレベーターはあっという間にムゲンたちを三階に運び、チンッと軽快にベルを鳴らした。ドアが開き、晃樹が外に出るので、ムゲンも着いていく。
すると、色んな方向から「おかえりなさい」という声が帰ってくる。
晃樹は戸惑いながらも「ただいま帰りました」と返事をする。
デスクが並んでいる。机の上には書類をまとめたファイル、ゲームのキャラクターだろうか、フィギュアの女の子、小さな観賞植物などがあった。あまり綺麗ではない。ムゲンの好きな空間とは程遠かった。
ムゲンはエレベーターの横で壁にひっつき待機することにする。
「なんだ、向。もう帰ってきたのか。予定より随分早いじゃねえか」
すれ違った男が晃樹の肩を叩いた。
「あ、はい。今回は順調でした」
晃樹は適当に言い繕う。男性は煙草を咥えて喫煙ルームへと向かっていった。
「外、暑かったでしょ」
晃樹に話しかけたのは、女性の職員だった。半袖の白ブラウスの上にグレーのベスト、黒のスカートという服装で、軽くウェーブのかかった茶髪を揺らしていた。ピンクでまとめた可愛らしい顔がにこりと笑う。豊かな胸の上で名札が揺れるが、ムゲンからは名前を確認することはできなかった。
「はい、もう汗だくです」
晃樹があはは、と笑うと、遠くのデスクから男性の職員が「汗臭いまんまで俺らのアイドルに近寄んなよぉ」と声を上げた。この部屋の中にいる中では身分が高そうな中年の男だった。
「何言ってるんですか。向さん、県外に出張に行ってたんですよ? お茶くらい出してあげないと。先輩、どうぞ」
「ありがとう、橘さん」
晃樹は顔を赤くしながらガラスのコップを受け取った。中には冷たいお茶が入っている。
お盆を持ったまま、橘は首を傾げた。
「向さん、課長とどこかですれ違ったりしてませんか?」
「え? 課長? 昼飯に出てるんじゃなくて?」
橘は頬に手を当てて時計を見た。ムゲンも自分の腕時計を見る。午後一時半。
「それが、朝から出てるんですけど、帰ってこないんです。午前中で終わる予定だから、どこかでご飯を食べていると思ったんですけど、もう休憩時間も過ぎてますし。電話にも出なくて」
晃樹は動静表のホワイトボードを見る。
県外出張の欄には向と書かれた磁石が貼ってある。三日前から向は県外出張に出ていることになっていた。予定では明日帰ってくることになっていた。予定よりだいぶ早い帰りということである。その隣、外回りの欄には三宅と書かれた磁石が貼ってあった。AMまでと隣にペンで書かれている。
中年の男が「課長、昨日めっちゃ飲んでたからなあ。どっかで吐いてるんじゃねえの」と汚い声で笑い、橘はもう! と怒った。
「向さん、もう今日は直帰ということにしていいですから、ついでに課長と会ったら、早く帰ってきてくださいと伝えてくれませんか? 私、課長に用事があって」
「分かりました。確認すること確認したら行ってきます」
晃樹はフロアの隅に向かった。パーテーションがあり、中がよく見えない。ムゲンも黙って移動する。
パーテーションの中には円テーブルと椅子が五脚あった。会議用の机だろうか。
机の上にはゲームのパッケージ、ポスター、ゲーム機本体などが置きっぱなしだった。
ゲームのタイトルは『巡り巡る時を越えて』と書かれてあった。凛々しい表情をした青年が片手に剣を持ち、片手に少女を抱いていた。青年の背後には仲間と思しきキャラクターも数名描かれていた。
「これ、オレの転生先の世界。このゲームの世界に転生したんです。オレが担当してる商品で、この宣伝に明け暮れてたんです」
晃樹はゲームを起動させ、すぐに『はじめから』を選択した。
オープニングムービーが流れ、物語のあらましが文章で語られる。晃樹は黙ってそれを見ていた。
――あなたは、失敗した経験はありますか。
――なかったことにしたい過去はありますか。
――やり直したい過去はありますか。
女神だろうか。天使だろうか。背中に大きな純白の翼を持った女がプレイヤーに語りかけている。
「やり直したい過去かあ。ムゲンさんはありますか?」
「過去の記憶は私にはありませんから。それより、向様は。向様は、思い出したいことがあって、このサービスを利用したんですよね」
画面が暗転する。
短剣が光った。主人公は短剣を両手で握りしめ、自分の胸を勢いよく突き刺した。
どろりと血が流れる。血の海の中で息絶えた主人公を女神が抱きしめる。
転生が始まる――女神は魂を手のひらの上に乗せ、ふっと息を吹きかけた。
晃樹は左手でシャツを鷲掴みにして、喘いでいた。喉がヒュウヒュウと鳴っている。
「オレ……、オレ……」
右手がズボンのポケットをまさぐる。硬いものが手に当たった。
それが何だったのか、晃樹はようやく思い出した。
右手にあったのは、ナイフだった。
「オレ……、出張に行く……、フリをして……、課長を殺そうとして、逆に……ナイフを奪われて……課長に殺されたんだ……」
晃樹はゲームを投げ出し、ムゲンを突き飛ばしてトイレに走った。
壁に激突したムゲンは肩を撫でて、すぐに晃樹を追いかける。
手洗い場の鏡の前で、晃樹はシャツのボタンを外す。男性トイレであろうが、ムゲンには関係なかった。静かに入って晃樹の後ろから様子を見る。
ばっと胸元を開き、下着も捲し上げる。
ぺたぺたと自分の腹に手を当て、身体を確認していた。
「ない、ない、ない……!」
「何がですか」
「刺された跡が、ない! オレは殺されてないんだ! オレは、もう一度、課長を殺れる……、そうだ、オレのラスボスは、課長なんだ!」
ムゲンは腕時計を確認した。
午後二時過ぎ。時間には余裕があった。
「まだ時間があります。どうしますか」
「どうするって?」
「あなたはラスボスを思い出しました。そのラスボスはこちらで生きる人物です。つまり、ラスボスはこちらでないと倒せません。あなたが忘れたのは、旅の目的ではなく、その課長を倒すことではないのですか」
晃樹はナイフを持ったまま、ゆっくりと振り返った。
その目は充血していた。
「ああ、そうか……、だから、オレは向こうでやることがなかったんだ……」
晃樹はふらりとトイレから出ていった。
――仕事だから。
ムゲンは自分に言い聞かせ、晃樹に静かについて行った。