2章 ラスボスを忘れた勇者

 まもなく、日本、日本です。
 そのアナウンスが聞こえて、ムゲンは目を開けた。下車の準備をしないといけない。
 隣で眠っているアルスに声をかけるが、反応がなかった。薄っすらと目を開けているものの、意識がほぼなかった。ムゲンが手を差し伸べると、アルスは無意識のうちにムゲンの手を握った。
 そのまま立ち上がらせ、ドアの前まで連れて行く。この様子だと、アルスは自分の名前を忘れてしまっているのは確かだ。下車したら、名前の手がかりを探さなければならない。
 完全に停車し、ドアが開く。ムゲンは外に背を向けて下車し、アルスを導いた。
「到着です。お聞きします。あなたの前世の名前は何ですか」
 尋ねても無駄なことは分かりきっているが、聞いてみる。反応がなかった。
 下車をしたアルスの姿を見る。
 黒の短髪。やつれた顔。目の下にはくまができている。唇はかさかさとしていて、健康的とは思えなかった。スーツだった。よれよれの白のシャツ。折り目のなくなった黒のズボン。革靴。名札が首から下がっていたので、ムゲンはそれを確認する。『株式会社Re:プラネット、営業部、向晃樹』と書かれていた。
 ムゲンは名札を手に取って、晃樹の目の前に掲げた。
「読めますか、あなたの名前です」
 晃樹の黒の瞳がゆっくりと自分の名前をなぞる。
「むかい……こうき……」
 かさかさの唇が自分の名前を紡いだ瞬間、晃樹ははっとした。
「遅れるッ!」
「何に」
「会社だよッ、やべえ、寝過ごしちまった!」
 ムゲンは走り出そうとする晃樹の手を掴んだ。記憶が混濁しているのか、真っ青な顔をしていた。
「待ってください。向様は前世お忘れ物捜索サービスでここに来たのです。仕事のために来たのではありません。よく思い出してください」
 ムゲンの顔を見て、晃樹は、ああそうだったと大粒の汗を流しながら呟いた。晃樹の着ているシャツは半袖だった。暑い。夏だった。
 晃樹は今自分がどこにいるのか確認するために周囲を見回した。
 ビルが立ち並んでいる。高さが不揃いなビルたちが強烈な夏日を反射していた。ここはオフィス街だった。熱風がビルの間を吹き抜けて、容赦なく襲ってくる。街を歩く人々はタオルやハンカチでしきりに汗を拭いているにも関わらず、長袖のジャケットを着ているムゲンが涼しい顔をしていた。そのムゲンの不自然さが、前世お忘れ物捜索サービスというものを思い出させてくれた。
「ムゲンさんは暑くないんですか、それ」
「暑いです。ですが、仕事中ですので」
 ムゲンは白い顔を一切崩さなかった。マジかよ、と呟き、晃樹はズボンのポケットに突っ込んでいたハンカチを出して額を拭いた。ポケットにもう一つ何か硬いものが手に当たったが、ペンか何かだろう。
 晃樹は自分が何故こんなオフィス街のど真ん中にいるのか分からなかった。
 先程口走ったのは「遅刻」だったが、服装からして、もう出勤済みだった。名札があるということは、仕事中だということだ。仕事外では名札を取れと、入社したばかりのころはよく言われた。名札をつけたままコンビニに行くと恥ずかしいぞと。
 誰に言われたかはまだ思い出せない。
 晃樹はもう一度、自分の名札を見た。株式会社Re:プラネット。ここの社員だった。ゲームが好きで、ゲーム会社に勤めるという夢は小さい頃からあった気がする。開発がしたかった、本当は。でも、言い渡されたのは、宣伝の仕事だった。
 今、外回り中だ。晃樹は悟った。ゲームを取り扱っている店舗に行って、商品を置いてくれと頭を下げに回っていたはずだ。
 いつもビニール袋にポスターやポップを入れて回っていた。それがなくなるまで帰ってくるなときついことを言われたこともあった。その地獄のビニール袋は、今は晃樹の手にはなかった。手ぶらだった。
「ムゲンさん、今って、オレが転生した後なんですか、前なんですか?」
「それは分かりません。あなたがご希望される日時に来ているはずです」
「あの、オレの会社に行ってもいいですか? 確かめたいことがあって」
「お好きなようにどうぞ。私は付き添うだけですから。私はいないと思ってくれていいです」
 晃樹はムゲンの顔をもう一度見た。冷たい顔をしている。表情はない。不気味さを感じた。まるで幽霊のようだと思った。
 Re:プラネットのあるビルはこのオフィス街の端にあった。
 晃樹はいつも徒歩か電車を使っていた。車は持っていなかった。この都会、東京において車という移動手段は必要なかった。外回りをするにしても、電車と徒歩で十分だった。何故自分がこのオフィス外を目的地としたのかは分からなかったが、会社が近くて良かった。汗をかけばかくほど、シャツが臭う。あまり汗をかきたくなかった。会社に戻った時に、女性社員にうっと顔を背けられるのが苦痛だった。営業部には女性もいた。それも美人な。顔を武器にしてゲームを取り扱ってもらうという人事の意図が丸見えだった。晃樹はまだ結婚もしていないし、彼女もいない。チャンスを逃さないためにも、女性たちに嫌われたくなかった。身だしなみには気をつけていたかったが、仕事に追われてなかなか生活に手が回らなかった。
 歩いている時に、晃樹は自分の所属する営業部についてムゲンに話した。しかし、ムゲンはそうですか、と相槌を打つだけで、それ以上会話は膨らまなかった。
 ムゲンの素っ気なさは、会社にいる女性陣と大して変わらないから、特になんとも思わなかった。自分が会社に戻ってもお茶は出てこない。自分の顔がもう少し女性好みの顔だったら、お茶を出してくれる女性が一人か二人はいただろうに。いや、一人はいた。少し狙っている子だった。
 同期にはイケメンがいて、彼の方が女性陣に人気で、よくお茶やお菓子を出してもらっていたし、外回りノルマも少なかった。晃樹は不公平というものを初めて味わった。
 会社が近づくごとに、そのような記憶ばかりが蘇る。嫌な思い出だった。
 ビルの間を走る線路。この線路を越えれば会社はすぐだった。
 踏切の手前で、カンカンカンと音が鳴る。ゆっくりと遮断器が降りる。
 ムゲンは、その音を聞いて、ジャケットの下でぞわりと鳥肌が立ったのを感じた。
 ――どこかで聞いたことがある。なんだか懐かしい。
 赤ランプが左右に点滅している。黄色と黒の遮断器。電車がどちらから来るのか示す矢印。
 ムゲンの頭の中が真っ白になる。
「――行かないと」
 ムゲンの呟きに、晃樹はびっくりする。
「え?」
「あの人の所に行く、待ってて――」
 ムゲンの目は踏切の向こうを見ていた。
 バーに手を置き、乗り越えようとする。突然の行動に晃樹は戸惑いを隠せなかった。明らかに自殺行為である。
「えっ、ちょっ、電車来ますよ!? どうしたんですか!?」
 晃樹の言葉にムゲンは反応しない。晃樹はおろおろとしていたが、電車が通過する手前、ムゲンのジャケットを思い切り引っ張り、晃樹はムゲンの下敷きになった。
 ごうっと音を立てて、電車が通過する。
 ムゲンは晃樹の足の上に座り、静かに髪を揺らして電車を見つめていた。
 晃樹は起き上がって真っ青な顔でムゲンの背中に叫んだ。
「な、な、何やってるんですか!?」
 ムゲンがゆっくり振り返る。
「……分かりません。なんだか、死にたくなって……、電車に、轢かれたくなって……」
「はあっ!? 冗談ですよね……?」
「ごめんなさい。仕事中でした。捜索を続けましょう」
 ムゲンは謝りながら晃樹の腹から降り、立ち上がる。遮断器は上がっていた。
 晃樹も尻をはたきながら起き上がる。ムゲンは先程のことはなかったかのように自分の横に立った。
「会社、もうすぐです……」
「はい」
 先程自分が見たものは幻だったのだろうか。晃樹は胸の中にどろりとしたものを感じながら踏切を渡った。
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