Skeb
金木犀の香るオフィス街を歩いていると、冷たい風が導の頬を撫でた。長く、絹のような髪が舞い上がり、咄嗟に手で押さえつける。溜息をつき、空を見上げた。
金木犀が秋のさわやかな空気に合う甘い香りを漂わせているのだが、あいにく、今日は曇天である。
昨日は汗ばむほど暑かったので、今日も暑くなるだろうと予想し、ブラウス一枚の格好にしたのだが、それは失敗だった。愛用しているカーディガンはベッドの上に投げている。早く帰りたい。
先ほどまで、会食会場へ打ち合わせに行っていた。明日に控えていて、今日が最後の打ち合わせである。
豪勢な会場で、立ち眩みを覚えるほどだった。シャンデリアで煌々と照らされる室内。金が目立つテーブルや椅子。壁にはいくつもの書や絵画。どこかの城にでもいるのかと錯覚しそうだった。
提供されるものの試食として出された料理が、一人前のランチと同じくらいの量だったので、お腹も膨らんでいた。
養護施設で育ってきた導には、絶対に縁のない世界だと思っていたものが、目の前に現実として広がっている。
本当に実在するんだ、フィクションじゃなかったんだ、という稚拙な感想は、胸の中に留めておいた。そういう子供じみた発言をするなともよく言われている。
秘書としての仕事をするようになり、そういうことが増えた。まだ全然慣れていない。
この、まるでファンタジーのような世界が、自分の雇い主で、上司である風上繕の当たり前。大企業の最年少取締役の生きる世界。
彼と食事をしたい、コネを作っておきたいと思っている人はたくさんいる。今度の会食は、繕が選び抜いた人々たちが訪れる。とびきりの場所を用意しろと命令されたので、導は何時間もかけて調べ、何時間もかけて選んだ。
だが、彼は特別驚きもしないだろうし、感謝もしないだろう。導が頑張ってやったことは、彼にとって、当たり前のことだから。
でも、彼のためにできることはしたいと思う自分がいる。できることがあるのは、純粋に嬉しい。
もう会場は大丈夫だし、手配も済んだから、これ以上することはない。
この大仕事が終わったら休みをもらおうと決め、冷える体を両腕で抱きつつ、帰路を急ぐ。
この激しすぎる寒暖差、風邪を引きそうだ。繕には気をつけろと言っておこう、と思った矢先だった。
「ああ、やっと帰ってきたか」
その一言に、導は違和感を覚える。
執務室のデスクに座っている繕は、見た目はいつも通りだ。髪はきちんとワックスで整えられているし、スーツの皺は一切ない。椅子に座り、ふんぞり返って書類を眺めている。どこか気怠そうなのもいつもと同じ。彼は毎日、毎日、つまらなさそうに仕事をしている。
気のせいかな、と思って、とりあえず仕事の報告をする。
「試食させてもらったんだけどね、明日のお料理、めっちゃ美味しかったよ」
「その幼稚な感想と貧弱な語彙、相変わらずだな」
「いいの。料理は、美味しかった、が一番の感想なの」
「お前のその幼稚で経験不足な舌も信頼できん」
「なによー!」
繕が、ふん、と馬鹿にするような笑いをしたあと、小さな音が導の耳に届く。
違和感は気のせいでも何でもなかった。
「……ねえ、風邪引いてる? なんか、鼻声じゃない?」
繕の小指がぴくりと動いた。椅子を回転させ、背後にある大きな窓の外を見つめる。こうなると、導からは彼の表情が見えない。
そのあからさまな反応に、導は溜息をついた。
「やっぱり。朝、寒かったから。明日、大事な食事会なんだし、今日は早く終わったら?」
「俺が風邪なんか引くわけないだろ。体調管理ができない社会人はゴミだ」
「でも鼻声なんですけど」
けほ、と小さな咳払いが聞こえてくる。喉もやられているらしい。
導の場合だが、喉がやられると、数日のうちに熱が出る。症状が鼻だけなら、発熱はしにくいのだが、喉はすぐに発熱してしまう。
「あんまり言わないけどさ。体調管理ができるんなら、明日、熱出さないようにしてよね」
彼の性格上、ここまでが限界だった。これ以上言うと、逆効果だ。
それまでにして、導はすごすごと自室に帰った。
杞憂だったのか、会食は予定通り終わった。
導は遠くから様子を見ていたが、繕は表向きの微笑みを浮かべ、会話と食事を楽しんでいるように見せていた。実際のところ、彼は何も思っていないだろう。
客人たちは、それに何も気づいていないかのように、和気藹々と会話をしている。一人が繕との会話を終えたあと、すかさず次の一人が繕との会話を始める。
今日集まった人々は金になる客。適当に会話をしていれば金になる。彼はそうとしか思っていない。そうとしか人を見ていない。
客たちもきっとそうなのだろう。ここにいる人々は、皆、利益のことしか考えていない。
だったら、自分はどうして彼に引き取られたのだろうと思う。特に利益のなさそうな自分が。
養護施設から出て、自立しようと思った矢先に、彼に引き取られてしまった。成人しているのに、嫌だという気持ちも強かった。当時は今みたいに仕事ができるわけでもなかったのに。
自分の容姿には自信がある。だから、体目的なのかと疑ったこともある。でもそういったことは一度もされていない。態度は雑だが、なんとなくだが、大切にされている感じがする。
今は感謝の気持ちはあるし、彼のためになりたいという気持ちもある。一方、なぜ、という疑問もずっと抱いている。
いつか分かるのだろうか。
「おい」
はっとして、導は顔を上げた。目の前に繕がいる。
「あ。社長、何か足りませんでしたか」
外向きの言葉遣いが咄嗟に出てくるあたり、自分も成長したなと思う。何度も注意をされて、ようやく染み付いてくれた。
飲み物が少なかっただろうかと思い、テーブルの上を見るが、客人のグラスの中にはたっぷりの赤ワインがある。足りていないわけではないようだ。
「違う。帰りたい」
「ですが、まだお時間……」
顔を見た途端、あ、と声が出る。
普段、飲酒しても顔が赤くならない繕なのだが、真っ赤になっている。立っていられないのか、壁に肘をつき、部屋をあとにした。導は慌てて彼を追いかける。
自分が突然いなくなってしまっては心配させるだろうからと、客たちには退席することを伝えるよう命じられる。
彼の面子もあるので、用事がありますから、と適当にはぐらかすと、客人たちは「そういうこともある」というような反応を見せた。この世界だとよくあることらしい。彼らは繕と会話をするという目的さえ果たせていたらよかったのだ。
繕は繕で、その場にいる全員と一言交わすという目的を果たしていた。それまでは、我慢していたのだろう。
車に乗ったあと、いつから調子が悪いのか聞いた。
「夕方くらいか。でもまだ我慢できた」
「それが、あなたの言う”体調管理”なんだね」
「行くときはお前も分からなかっただろ」
「演技、上手だから。繕様は」
反応がなかった。ふと横を見ると、もう繕は目を瞑っていた。視界に入ってくる光が頭痛を誘うのか、こめかみを指で押さえていた。
帰ってからが大変だった。
大人しく布団に入って寝たかと思いきや、バスルームから突然シャワーの音が聞こえてくる。濡れた髪のまま、そしてバスローブ一枚で出てきたのは繕で、唇を真っ青にしてガタガタ震えていた。
暑いし、汗が止まらないし気持ち悪いし、熱も下がるだろうと思って冷水を浴びた。彼はそのように述べた。
それを聞いた途端、導は「馬鹿? ねえ、馬鹿なの?」と叫んでいた。ベッドにあった毛布を繕に投げたい衝動に駆られたが、それは我慢した。
リビングの真ん中に座らせ、タオルケットを肩にかけ、急いでドライヤーをかける。そのあいだ、何度もくしゃみと咳をしていた。
「手際がいいんだな」
「まあ。施設だと日常茶飯事でしたし」
養護施設にいた頃を思い出してしまう。こうやって、よく年下の子の看病をしていた。子供はすぐに熱を出す。精神的に不安定な子は、もっと体調を崩す。大人たちも対応はしてくれるが、処置までだ。小さい子ほど、傍に誰かいてほしくなる。そうなると、自然と年長が面倒を見ることになる。
ドライヤーのスイッチを切り、繕の頭をついぽんぽんと叩いた。癖だった。急に恥ずかしくなって、繕の背中を思いっきり叩いた。う、と小さなうめき声が聞こえてくる。
「おわり。さっさと寝てください」
さすがにもう寝るだろうと思っていたのだが、繕は導の予想をはるかに超えた。
今度はキッチンから物音がしてくる。
まだ寝ていなかったのかと様子を見に行くと、繕は電子レンジの前に立っていた。
その中で、何かがバチバチと発光している。それが危険な現象であることは、誰が見ても分かるはずなのに、繕はまったく危機感のない様子で見ていた。
繕を押しのけ、慌てて電子レンジを開くと、中にはマグカップに突っ込まれたままのスプーンがあった。発光していたのはこれだ。
「ばっか、火事になるでしょうが! 何してんの! 金属入れたら駄目だよ!」
「それは知らなかった」
「当たり前でしょうが! てか、何飲もうとしてたの? 飲みかけのコーヒーの温め直し?」
マグカップの中にあったのは牛乳だ。ホットミルクを作ろうとしていたのだろう。
「これ飲んだら早く治る気がして」
少しだけ舐めると、ほんのり甘い。砂糖の量は間違えていなかった。電子レンジもまともに使えない人でも、砂糖の量は間違えないのだなあと感心した。
――小さい頃、おうちの人にしてもらったことがあるのかな。
温め直しながら、ふとそう思った。でなければ、ホットミルクを飲もうなどという思考にならないはずだ。
繕の過去は何も知らない。でもたまに、遠い昔の生活が、透けて見える。
そういう家庭で過ごしていた時期があったのだろう。それが少しだけ羨ましい。
繕を布団に押し込んで、ホットミルクを飲み終わるまで、傍にいた。
「もう変なことしないでよね。これ飲んだら寝て」
「ああ」
「明日の仕事も全部キャンセルだからね」
「それは」
「駄目です。体調管理も仕事でしょ」
マグカップを受け取り、大きな枕に沈んでいく繕を見ながら、溜息をつく。
「……治ったらさ、どっか行こうよ。休息日は必要だよ。行きたいとこある? 予約がいるなら、私がしとくよ」
別にいい、と言おうとしたのか、唇がぴくりと動く。だが、言葉は何も出てこなかった。
少しの沈黙の後、繕はまぶたを持ち上げた。
「しるべが行きたいところでいい」
「いやいや。それは違うよ。あなたのリフレッシュが目的なんだから」
「……そうだな。だったら、海」
「海?」
「一番に思い浮かんだのが、そこだったから」
それを最後に、繕は寝息を立て始めた。
海。海かあ。
導は自分の部屋に帰って、スマホで何かを検索しはじめた。
完全復活までは三日ほど要した。その間の仕事のキャンセル、スケジュール変更に追われる導だったが、無理して倒れられるよりはマシだと自分に言い聞かせて頑張った。
繕の突拍子もない行動は初日の夜以降はなかったが、何かありそうなので、何度か寝室に行って様子を見た。
額に冷却シートを貼っている繕は、いつもの完璧な繕の姿とは程遠く、少しだけ面白かった。写真でも撮ってやろうかとも思ったのだが、それはやめておいた。あとで発見されて怒られると面倒くさい。
「おはよーう、海行くよ、海!」
シャッとカーテンを開けると、もぞもぞと繕がベッドの中で動く。
朝のさわやかな光が差し込んでくる。気持ちの良い秋晴れだ。窓を開けると、澄んだ空気が部屋に入ってくる。
「……は?」
「だから、海。行きたいって言ってたじゃん。電車で行くから。はやく支度して」
ハンガーに引っかかっていたシャツとジャケットを布団の上に投げた。
導もいつもと同じ服。
ブルーのブラウスに、グレーのカーディガン。白のプリーツスカートはアイロンしたて。
車で行けばいいのにとぶつぶつ言う繕を引っ張り、電車に乗り込んだ。
向かうは、近くの海浜公園である。電車にしたのは、理由があった。
「ほら。見てよ」
導が指差す先に広がるのは、朝日に輝く海だった。東の海は、朝がいちばん綺麗なのだ。
これが見たかった。この路線から見える海が綺麗だという情報を見つけ、繕にも見せたかった。
繕は特に大きな反応を見せなかったが、目はずっと海に向いている。
これを選んでよかった。さすが、私の秘書力。こっそり、うぬぼれてみる。
最寄り駅で下車し、そのまま海浜公園に入る。公園には散歩やランニングをしている人々がいた。海を見ながらの散歩はとても気持ちがいい。
潮風に当たりながら、導は大きく深呼吸した。長い髪が風に乗る。
その様子を、繕は少し後ろから見ていた。
「気持ちいいでしょ。朝がいいよね、やっぱり」
「そうだな」
わずかに笑みが浮かんでいるのは、錯覚なのだろうか。
錯覚だとしてもいい。ほっとできる時間になってほしかった。
きっと、体調を崩したのは、疲れもあったからだ。やりがいを感じない、つまらない仕事をしていては、疲れもたまるはずだ。
繕はそれから逃げることはできない。逃げようともしていない。素晴らしいところではあるが、息抜きというものを覚えてほしい。
それからしばらく、二人は無言で歩いた。導が先を歩き、その少し後ろを繕が歩く。
公園を一周したあと、繕がスマホを出して迎えを呼ぼうとするので、咄嗟にそれを止める。
「まーった、まだだめ」
「もう満足したから」
「分かってないなあ。このあと、モーニングを食べるところまでがセットでしょ。近くのカフェ、ふわふわのフレンチトーストと、美味しいコーヒーが有名なの。ここを選んだのは、近くに美味しいモーニングがあるカフェもあったからなんだよ」
「……結局、お前が行きたいところになるんだな」
「海は、繕様がご希望でしたけどー!」
「はいはい」
そのとき、導ははっきりと目視した。
錯覚ではない。確実に、繕は笑みを浮かべている。
あ、この人、演技じゃなくても、こんな表情ができるんだ。なんて思ったのは、内緒である。
金木犀が秋のさわやかな空気に合う甘い香りを漂わせているのだが、あいにく、今日は曇天である。
昨日は汗ばむほど暑かったので、今日も暑くなるだろうと予想し、ブラウス一枚の格好にしたのだが、それは失敗だった。愛用しているカーディガンはベッドの上に投げている。早く帰りたい。
先ほどまで、会食会場へ打ち合わせに行っていた。明日に控えていて、今日が最後の打ち合わせである。
豪勢な会場で、立ち眩みを覚えるほどだった。シャンデリアで煌々と照らされる室内。金が目立つテーブルや椅子。壁にはいくつもの書や絵画。どこかの城にでもいるのかと錯覚しそうだった。
提供されるものの試食として出された料理が、一人前のランチと同じくらいの量だったので、お腹も膨らんでいた。
養護施設で育ってきた導には、絶対に縁のない世界だと思っていたものが、目の前に現実として広がっている。
本当に実在するんだ、フィクションじゃなかったんだ、という稚拙な感想は、胸の中に留めておいた。そういう子供じみた発言をするなともよく言われている。
秘書としての仕事をするようになり、そういうことが増えた。まだ全然慣れていない。
この、まるでファンタジーのような世界が、自分の雇い主で、上司である風上繕の当たり前。大企業の最年少取締役の生きる世界。
彼と食事をしたい、コネを作っておきたいと思っている人はたくさんいる。今度の会食は、繕が選び抜いた人々たちが訪れる。とびきりの場所を用意しろと命令されたので、導は何時間もかけて調べ、何時間もかけて選んだ。
だが、彼は特別驚きもしないだろうし、感謝もしないだろう。導が頑張ってやったことは、彼にとって、当たり前のことだから。
でも、彼のためにできることはしたいと思う自分がいる。できることがあるのは、純粋に嬉しい。
もう会場は大丈夫だし、手配も済んだから、これ以上することはない。
この大仕事が終わったら休みをもらおうと決め、冷える体を両腕で抱きつつ、帰路を急ぐ。
この激しすぎる寒暖差、風邪を引きそうだ。繕には気をつけろと言っておこう、と思った矢先だった。
「ああ、やっと帰ってきたか」
その一言に、導は違和感を覚える。
執務室のデスクに座っている繕は、見た目はいつも通りだ。髪はきちんとワックスで整えられているし、スーツの皺は一切ない。椅子に座り、ふんぞり返って書類を眺めている。どこか気怠そうなのもいつもと同じ。彼は毎日、毎日、つまらなさそうに仕事をしている。
気のせいかな、と思って、とりあえず仕事の報告をする。
「試食させてもらったんだけどね、明日のお料理、めっちゃ美味しかったよ」
「その幼稚な感想と貧弱な語彙、相変わらずだな」
「いいの。料理は、美味しかった、が一番の感想なの」
「お前のその幼稚で経験不足な舌も信頼できん」
「なによー!」
繕が、ふん、と馬鹿にするような笑いをしたあと、小さな音が導の耳に届く。
違和感は気のせいでも何でもなかった。
「……ねえ、風邪引いてる? なんか、鼻声じゃない?」
繕の小指がぴくりと動いた。椅子を回転させ、背後にある大きな窓の外を見つめる。こうなると、導からは彼の表情が見えない。
そのあからさまな反応に、導は溜息をついた。
「やっぱり。朝、寒かったから。明日、大事な食事会なんだし、今日は早く終わったら?」
「俺が風邪なんか引くわけないだろ。体調管理ができない社会人はゴミだ」
「でも鼻声なんですけど」
けほ、と小さな咳払いが聞こえてくる。喉もやられているらしい。
導の場合だが、喉がやられると、数日のうちに熱が出る。症状が鼻だけなら、発熱はしにくいのだが、喉はすぐに発熱してしまう。
「あんまり言わないけどさ。体調管理ができるんなら、明日、熱出さないようにしてよね」
彼の性格上、ここまでが限界だった。これ以上言うと、逆効果だ。
それまでにして、導はすごすごと自室に帰った。
杞憂だったのか、会食は予定通り終わった。
導は遠くから様子を見ていたが、繕は表向きの微笑みを浮かべ、会話と食事を楽しんでいるように見せていた。実際のところ、彼は何も思っていないだろう。
客人たちは、それに何も気づいていないかのように、和気藹々と会話をしている。一人が繕との会話を終えたあと、すかさず次の一人が繕との会話を始める。
今日集まった人々は金になる客。適当に会話をしていれば金になる。彼はそうとしか思っていない。そうとしか人を見ていない。
客たちもきっとそうなのだろう。ここにいる人々は、皆、利益のことしか考えていない。
だったら、自分はどうして彼に引き取られたのだろうと思う。特に利益のなさそうな自分が。
養護施設から出て、自立しようと思った矢先に、彼に引き取られてしまった。成人しているのに、嫌だという気持ちも強かった。当時は今みたいに仕事ができるわけでもなかったのに。
自分の容姿には自信がある。だから、体目的なのかと疑ったこともある。でもそういったことは一度もされていない。態度は雑だが、なんとなくだが、大切にされている感じがする。
今は感謝の気持ちはあるし、彼のためになりたいという気持ちもある。一方、なぜ、という疑問もずっと抱いている。
いつか分かるのだろうか。
「おい」
はっとして、導は顔を上げた。目の前に繕がいる。
「あ。社長、何か足りませんでしたか」
外向きの言葉遣いが咄嗟に出てくるあたり、自分も成長したなと思う。何度も注意をされて、ようやく染み付いてくれた。
飲み物が少なかっただろうかと思い、テーブルの上を見るが、客人のグラスの中にはたっぷりの赤ワインがある。足りていないわけではないようだ。
「違う。帰りたい」
「ですが、まだお時間……」
顔を見た途端、あ、と声が出る。
普段、飲酒しても顔が赤くならない繕なのだが、真っ赤になっている。立っていられないのか、壁に肘をつき、部屋をあとにした。導は慌てて彼を追いかける。
自分が突然いなくなってしまっては心配させるだろうからと、客たちには退席することを伝えるよう命じられる。
彼の面子もあるので、用事がありますから、と適当にはぐらかすと、客人たちは「そういうこともある」というような反応を見せた。この世界だとよくあることらしい。彼らは繕と会話をするという目的さえ果たせていたらよかったのだ。
繕は繕で、その場にいる全員と一言交わすという目的を果たしていた。それまでは、我慢していたのだろう。
車に乗ったあと、いつから調子が悪いのか聞いた。
「夕方くらいか。でもまだ我慢できた」
「それが、あなたの言う”体調管理”なんだね」
「行くときはお前も分からなかっただろ」
「演技、上手だから。繕様は」
反応がなかった。ふと横を見ると、もう繕は目を瞑っていた。視界に入ってくる光が頭痛を誘うのか、こめかみを指で押さえていた。
帰ってからが大変だった。
大人しく布団に入って寝たかと思いきや、バスルームから突然シャワーの音が聞こえてくる。濡れた髪のまま、そしてバスローブ一枚で出てきたのは繕で、唇を真っ青にしてガタガタ震えていた。
暑いし、汗が止まらないし気持ち悪いし、熱も下がるだろうと思って冷水を浴びた。彼はそのように述べた。
それを聞いた途端、導は「馬鹿? ねえ、馬鹿なの?」と叫んでいた。ベッドにあった毛布を繕に投げたい衝動に駆られたが、それは我慢した。
リビングの真ん中に座らせ、タオルケットを肩にかけ、急いでドライヤーをかける。そのあいだ、何度もくしゃみと咳をしていた。
「手際がいいんだな」
「まあ。施設だと日常茶飯事でしたし」
養護施設にいた頃を思い出してしまう。こうやって、よく年下の子の看病をしていた。子供はすぐに熱を出す。精神的に不安定な子は、もっと体調を崩す。大人たちも対応はしてくれるが、処置までだ。小さい子ほど、傍に誰かいてほしくなる。そうなると、自然と年長が面倒を見ることになる。
ドライヤーのスイッチを切り、繕の頭をついぽんぽんと叩いた。癖だった。急に恥ずかしくなって、繕の背中を思いっきり叩いた。う、と小さなうめき声が聞こえてくる。
「おわり。さっさと寝てください」
さすがにもう寝るだろうと思っていたのだが、繕は導の予想をはるかに超えた。
今度はキッチンから物音がしてくる。
まだ寝ていなかったのかと様子を見に行くと、繕は電子レンジの前に立っていた。
その中で、何かがバチバチと発光している。それが危険な現象であることは、誰が見ても分かるはずなのに、繕はまったく危機感のない様子で見ていた。
繕を押しのけ、慌てて電子レンジを開くと、中にはマグカップに突っ込まれたままのスプーンがあった。発光していたのはこれだ。
「ばっか、火事になるでしょうが! 何してんの! 金属入れたら駄目だよ!」
「それは知らなかった」
「当たり前でしょうが! てか、何飲もうとしてたの? 飲みかけのコーヒーの温め直し?」
マグカップの中にあったのは牛乳だ。ホットミルクを作ろうとしていたのだろう。
「これ飲んだら早く治る気がして」
少しだけ舐めると、ほんのり甘い。砂糖の量は間違えていなかった。電子レンジもまともに使えない人でも、砂糖の量は間違えないのだなあと感心した。
――小さい頃、おうちの人にしてもらったことがあるのかな。
温め直しながら、ふとそう思った。でなければ、ホットミルクを飲もうなどという思考にならないはずだ。
繕の過去は何も知らない。でもたまに、遠い昔の生活が、透けて見える。
そういう家庭で過ごしていた時期があったのだろう。それが少しだけ羨ましい。
繕を布団に押し込んで、ホットミルクを飲み終わるまで、傍にいた。
「もう変なことしないでよね。これ飲んだら寝て」
「ああ」
「明日の仕事も全部キャンセルだからね」
「それは」
「駄目です。体調管理も仕事でしょ」
マグカップを受け取り、大きな枕に沈んでいく繕を見ながら、溜息をつく。
「……治ったらさ、どっか行こうよ。休息日は必要だよ。行きたいとこある? 予約がいるなら、私がしとくよ」
別にいい、と言おうとしたのか、唇がぴくりと動く。だが、言葉は何も出てこなかった。
少しの沈黙の後、繕はまぶたを持ち上げた。
「しるべが行きたいところでいい」
「いやいや。それは違うよ。あなたのリフレッシュが目的なんだから」
「……そうだな。だったら、海」
「海?」
「一番に思い浮かんだのが、そこだったから」
それを最後に、繕は寝息を立て始めた。
海。海かあ。
導は自分の部屋に帰って、スマホで何かを検索しはじめた。
完全復活までは三日ほど要した。その間の仕事のキャンセル、スケジュール変更に追われる導だったが、無理して倒れられるよりはマシだと自分に言い聞かせて頑張った。
繕の突拍子もない行動は初日の夜以降はなかったが、何かありそうなので、何度か寝室に行って様子を見た。
額に冷却シートを貼っている繕は、いつもの完璧な繕の姿とは程遠く、少しだけ面白かった。写真でも撮ってやろうかとも思ったのだが、それはやめておいた。あとで発見されて怒られると面倒くさい。
「おはよーう、海行くよ、海!」
シャッとカーテンを開けると、もぞもぞと繕がベッドの中で動く。
朝のさわやかな光が差し込んでくる。気持ちの良い秋晴れだ。窓を開けると、澄んだ空気が部屋に入ってくる。
「……は?」
「だから、海。行きたいって言ってたじゃん。電車で行くから。はやく支度して」
ハンガーに引っかかっていたシャツとジャケットを布団の上に投げた。
導もいつもと同じ服。
ブルーのブラウスに、グレーのカーディガン。白のプリーツスカートはアイロンしたて。
車で行けばいいのにとぶつぶつ言う繕を引っ張り、電車に乗り込んだ。
向かうは、近くの海浜公園である。電車にしたのは、理由があった。
「ほら。見てよ」
導が指差す先に広がるのは、朝日に輝く海だった。東の海は、朝がいちばん綺麗なのだ。
これが見たかった。この路線から見える海が綺麗だという情報を見つけ、繕にも見せたかった。
繕は特に大きな反応を見せなかったが、目はずっと海に向いている。
これを選んでよかった。さすが、私の秘書力。こっそり、うぬぼれてみる。
最寄り駅で下車し、そのまま海浜公園に入る。公園には散歩やランニングをしている人々がいた。海を見ながらの散歩はとても気持ちがいい。
潮風に当たりながら、導は大きく深呼吸した。長い髪が風に乗る。
その様子を、繕は少し後ろから見ていた。
「気持ちいいでしょ。朝がいいよね、やっぱり」
「そうだな」
わずかに笑みが浮かんでいるのは、錯覚なのだろうか。
錯覚だとしてもいい。ほっとできる時間になってほしかった。
きっと、体調を崩したのは、疲れもあったからだ。やりがいを感じない、つまらない仕事をしていては、疲れもたまるはずだ。
繕はそれから逃げることはできない。逃げようともしていない。素晴らしいところではあるが、息抜きというものを覚えてほしい。
それからしばらく、二人は無言で歩いた。導が先を歩き、その少し後ろを繕が歩く。
公園を一周したあと、繕がスマホを出して迎えを呼ぼうとするので、咄嗟にそれを止める。
「まーった、まだだめ」
「もう満足したから」
「分かってないなあ。このあと、モーニングを食べるところまでがセットでしょ。近くのカフェ、ふわふわのフレンチトーストと、美味しいコーヒーが有名なの。ここを選んだのは、近くに美味しいモーニングがあるカフェもあったからなんだよ」
「……結局、お前が行きたいところになるんだな」
「海は、繕様がご希望でしたけどー!」
「はいはい」
そのとき、導ははっきりと目視した。
錯覚ではない。確実に、繕は笑みを浮かべている。
あ、この人、演技じゃなくても、こんな表情ができるんだ。なんて思ったのは、内緒である。
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