Skeb
前期が終わってからというもの、緋司は虚無とも言える長い夏休みを過ごしていた。エアコンと扇風機の風を直で浴びながら、ブランケットにくるまってベッドに横たわっていた。
カーテンは閉じたままだが、隙間からこぼれる光が、今が日中であることを教えてくれていた。
寝返りを打った拍子にイヤホンが耳から外れると、セミのうるさい鳴き声が聞こえてくる。眉間に皺を寄せて、イヤホンをした。外界をシャットアウトできる優れものである。
今年は猛暑で、外に出るのが億劫だった。盆に実家に帰ることもなく、学生アパートで過ごしている。帰ったら、両親や兄からあれこれと言われるのが予想できたからだ。帰ったとしても三十分くらいで家を飛び出すに決まっている。だったら最初から帰らないほうがマシだ。
日々、積んでいたゲームを消化し、ソシャゲのイベントを走るだけだった。
普段は部屋は小綺麗にしている方なのだが、家事もろくにできていなかった。カップ麺のゴミがキッチンの上に置きっぱなしだし、服も脱ぎっぱなしだった。
さすがに動くべきだと思っても、体が重くて、結局横になったままスマホをいじって時間を浪費してしまう。SNSにはいつも誰かのつぶやきが表示されている。
緋司は趣味アカウントとリアル用アカウントを使い分けているが、普段見ているのは趣味用の方だった。同じゲームを遊んでいる人たちの投稿がタイムラインに表示されている。それらに機械的にいいねをつけていく。
そんなことをしていると、眠気がやってきて、次に目覚めたのは夕方。イヤホンも外れていて、外からひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。扇風機の自動オフタイマーが作動して切れていたので、ベッドから身を乗り出してまた電源を入れる。
溜息をついて、壁にもたれかかって座った。髪をかき上げる。いつの間にか伸びていて、切りに行かなければなと思う。長らく染めてもいないから、みっともないプリンになっているはずだ。部屋を見渡して、掃除をしなければと思う。今日は何も食べていないから、外に出て何か食料を買ってこなければと思う。しなければならないことは山程あるが、緋司はこの夏、腐りきっていた。
薄暗い部屋の中、スマホがまばゆい光を発する。
リアル垢を恐る恐る見ると、友人たちの現状がたくさん並んでいた。
『明日からインターンなので、髪の毛を染めて、新しいスーツもゲット。も〜、めっちゃ太ってたから、入学式で着たスーツが入らなかった〜。悲しい〜! でも新しいスーツは前のよりもシュッとしてるから身体がきれいに見える! 気合入れて頑張るぞ!』
と写真つきで投稿しているのは、同じクラスの女子である。もともと、明るい茶髪にしていた彼女だが、真っ黒に染められていた。
彼女の投稿には、他の友人からの返信がぶら下がっている。
『インターン頑張れ〜。ガチ勢に負けるな』
『ガチ勢って何ww』
『めっちゃできますアピールしちゃう人がいるんだよ。グループワークとかあるから頑張れ〜』
『やだこわ〜。ほどほどに頑張る〜』
そこまで読んで、その返信欄は閉じた。
他にも、就活に関する投稿が並んでいる。以前はこのような投稿はあまり見られなかったのに、やはり時期が時期なだけあって、それぞれ本格的に始まる就活に備えて準備を始めていた。
すでにインターンを経験して、経験談を投稿している者、情報を求めている者、行くかどうか悩んでいる者、様々である。
そのうち、緋司は、投稿はしてはいないものの、行くかどうか悩んでいる組に入っていた。
就活をするかどうか、自分が何をしたいのかも分かっていない。それを探すのが今の時期なのだろうが、悩んでばかりいて動くことができなかった。
この部屋で腐っている理由の一つだった。
自分が何者になればいいのか、分からないでいた。
壁に立てかけてあるギターを手にとって、適当にかき鳴らした。虚しく部屋に響き、そして消える。
稼ごうと思えば、術は一応ある。だが、それを一生のものにしたいという思いも、覚悟も、ない。それで誇れる何かになれる自信もない。
比較されない何かがいい。そう思って、親や兄とは全く関係のない法学部に身を置いた。勉強もそれなりにできたし、法の勉強も嫌いではなかったのだが、その方面の職につきたいという気持ちは生まれなかった。
こんな腐りきっている自分が、法の世界でまっとうに働けるのか?
そもそも、俺が、シャキッとしたスーツを着て、ビシッと働けるのか?
弁護士とかそういうのではなくとも、法務部みたいなところで俺が真面目に働く?
俺が?
想像ができなかった。
もう一度ギターをかき鳴らして、立ち上がった。
腹が減っているせいもあって、うまく考えられない。コンビニで適当なものを買ってくることだけが、今の緋司に決定できることだった。
アパートからほど近いところにあるコンビニに入り、雑誌コーナーの前を横切ろうとしたとき、兄が表紙を飾っている雑誌が目に入った。上半身は裸で、この美しい身体を見ろと言わんばかりの表情をしていた。
キッモ、と毒づく。
でも、これで喜ぶ人間が、この世にはたくさんいる。認めたくないが、それが事実だった。
カップ麺を買って、アパートに戻って、テレビをつければ今度は母が出てくる。
『こんな年齢なんですけどね、ラブシーンに挑戦したんです、ふふっ』
それを聞いた瞬間、鳥肌が立ってテレビを消した。実の親が演じるラブシーンなど見たくもないし、想像もしたくない。
でも、それで喜ぶ人間が、この世にはたくさんいる。認めたくはないが、それも事実だった。
母も兄も、緋司の前にそびえ立つ巨像のようなものだった。目に入れたくないのに入ってくる。誰かの注目の的になっている、輝かしい人間。
そんな二人と自分を比較するのが嫌だった。だから法学部に入ったのに、それもうまく活かせていない。
カレンダーを見る。夏休みはもうすぐ終わる。きっと、何もしないまま終わる。
満腹になったら、今度は眠気が襲ってくる。そのまま眠って、考えるのをやめよう。スマホを握りしめ、緋司はまたベッドに戻った。
夏休みが終わり、後期の生活にも慣れてきた十月。じわじわとはじまるのは学祭の準備だった。
例年、特定のサークルやバンドに所属していない緋司は適当にやり過ごしているのだが、今年はあるバンドからピンチヒッターの依頼がきていた。もともといたギターの子が夏に体調を崩してしまったから、手伝ってほしいという内容だった。
依頼者は人文の女子。中肉中背の大人しそうな女である。肌がきれいなだけで、他に特徴はなかった。『りお』という名前で活動していた。彼女は同学年で、キーボード担当。他のメンバーたちも同じく同学年。ボーカルは女子が担当していた。
オリジナル曲ではなく、ここ最近流行っているポップスをカバーしたものだった。あらかじめ渡されていた譜面を見る限り、難易度はそう高くはなかった。練習の回数が少ないだろうからと思って引き受けたのである。
一回目の音合わせは都内にあるスタジオをレンタルしていた。
「緋司くんが依頼引き受けてくれるとは思ってなかった、ほんとありがとう」
「別にいいよ。早く始めよう。時間もあるし」
「そうだね。今日は初めての合わせだし、ゆっくりやってみよ」
言いはしないのだが、他のメンバーたちの演奏は、全然、様になっていなかった。初見かと疑ってしまうほどのレベルである。
唯一、まともに演奏ができていたのはりおだけだ。ボーカルも全然歌えていないし、緋司とりおがメロディーを奏でた部分だけまともな曲になっていた。
合わせが終わったあと、みんな、口々に言い訳を始める。
夏休み中はインターンで忙しかったから、バイトが忙しかったから。見ているこっちが情けなくなってくる。
「別にいいよ。そういう時期だもん。学祭に間に合えば大丈夫」
りおはメンバーを心配させまいと明るく言った。だが、それは仇となってしまった。
練習の回数が少なくて済んだのは、メンバーが集まらなかったからだ。
夏にインターンに参加しておらず、遅れを取ってしまったメンバーが、こぞって秋開催のインターンに参加し始めたのである。きっと、講義が始まって、インターンの話を直で聞くうちに、焦り始めたのだろう。インターンをきっかけにしてOBと繋がれば、それだけで就活に有利になるという噂も聞いたのかもしれない。
常に誰か一人は欠けていて、全然練習にならなかった。常にいるのは、りおと緋司だけである。
四回目の合わせが終わり、スタジオにりおと緋司だけが残ったとき、りおは緋司に聞いた。
「緋司くんは、もう夏の間にインターンとか行ったの」
「いや、何もしてねーな。行ったほうがいいんだろうなとは思っていたけど、結局、どこにも行かなかった」
黒マスクの下で訥々と語る緋司を見て、りおは破顔した。
「よかったあ。私もなの」
「なんで」
「んー。なんかね。まだそういう時期じゃないかなって。人間が出来上がってないというか。だから、院に行くつもり」
「院」
「うん。ちょっと学びたいことがあるから」
それは、全然、俺と違う。
やりたいことが明確になっているりおは、全く違う。
何も一緒じゃない。
そう言おうとしたが、まだ浅い関係であるりおには言わなかった。
キーボードを片付け終えたりおは、うーんと大きく伸びをした。
「緋司くん、このあと、時間ある?」
「どうして」
「ピンチヒッターやってくれたお礼。もう今の感じだと、だめだね。諦める。まだ出演申請前でよかった。どっか、飲みに行こう」
「別にいいけど、構わないよ。謝礼とかもいらないし」
「私がそうしたいの。だから来て」
ギターケースを背負って、スタジオを出た。もう夜は少し冷える。ジャケットを持ってきていて良かったと思った。
スタジオ近くの居酒屋に入って、好きなものを頼んでいいと言われた。適当におつまみと、カクテルを頼んだ。
りおは見かけによらず、ビールから入る。
自棄になっているのだとすぐに分かった。お礼というのは口実で、自分は自棄酒に付き合わされているだけだった。
りおの飲むペースは早く、とにかく愚痴を聞かされた。やりたいって言ったはずなのにサボりやがって、と徐々に口も悪くなっていった。緋司は愚痴を否定もせず、肯定もせず、右から左に聞き流していく。どんどん運ばれてくる料理だけ食べて、酒は最初に頼んだカクテル一杯だけにしておいた。
こんなところで何やってんだろうな、俺。そう思いながら、枝豆をつまみ出す。
ぼうっとしていたら、りおは机の上に突っ伏していた。指先で前髪をかき分けると、気持ちよく眠っている顔が出てくる。舌打ちをした。
ラストオーダーの時間を過ぎ、緋司はりおを担いで会計を済ませ、店を出る。
駅に向かう途中、コンビニに寄って、ペットボトルの水を渡した。しおは水を口に含んで、しばらく店の前でしゃがんでいた。ようやく立ち上がれるようになって、二人で駅まで向かった。
「ごめん、私ばっかり」
「別にいいよ。どこまで送ったらいい?」
「いい、いい。そこまで迷惑かけられない。一人で帰る」
「あ、そう」
だったらこれ以上関わる必要もない。じゃ、と短い挨拶だけして、踵を返そうとしたとき、ジャケットの裾を掴まれた。
「え。何」
「付き合って」
突拍子のない申し出に、面食らってしまう。
「ちょっと意味が分からん」
「そうだよね。ごめん。緋司くん、優しかったから。勢いで言っちゃった。じゃあね」
ぱたぱたと走って、りおは駅の中に消えていった。
それを見送ったあと、大きな溜息が出る。
飲み足りないと思った。そう思った途端、足が動き出していた。
「あら〜、久しぶりね、緋司チャン! 来てくれて嬉しいわ〜!」
カウンターから身を乗り出し、両手を前に突き出して、頭をわしゃわしゃとかき乱してくるのは、バーのオネエマスターである叶だった。
今日は派手なワンピースではなく、白いジャケットを羽織っていた。カウンターからは見えないが、下はタイトなスカートだろう。そっちのほうが叶に似合っているといつも思う。
「やめてください、叶さん」
「ん〜、その冷たい視線、さ、い、こ、う! 何飲む?」
「なんでもいい」
「そんなこと言ったら、強いの出しちゃう。いいの?」
「いい」
「うふふ。緋司チャンが成人して、楽しみが増えたわ。おつまみはサービスでつけとくわね」
ピーナッツの入った小皿と、オレンジ色のカクテルが出てくる。名前を聞いたら、サード・レールと教えてくれた。口当たりの優しい、飲みやすいカクテルだった。
もっときついものが出されるかと思っていたのだが、叶なりに、今の緋司に合いそうなものを選んでくれたらしい。
だから、ここに来てしまう。
兄が通っているというのも知っている。だからなるべく来たくはないのだが、この叶という人物に無性に会いたくなるときがある。
何かにぶち当たってしまって、身動きできなくなってしまったとき。叶も緋司がここを訪ねるタイミングは知っているのだが、叶からは深くは聞いてこない。
緋司が語らなければ、叶も語らない。それが居心地がいいのだ。
ピーナッツを噛んで、口の中に残ったものをカクテルで胃に流した。酔いが回ってきたところで、ようやく口が動き出す。
「なんでアイツは親の後を追いかけて行ったんですかね」
「やだ、緋司チャン。違う違う。追いかけたんじゃないの、追い越そうとしたのよ。ほんと、自信たっぷりのいい男よね」
「最後の部分は否定させてください。アイツはいい人間じゃないですよ」
「ふふ、どうしたの。進路相談?」
「そんなとこっす」
どうぞ、と出されたのは、ドライフツールの入った小皿だった。クランベリーを口に含むと、少しだけさっぱりとする。
「由宇チャンったら、大切なところは弟に教えてないのね」
「アイツは何にも悩みがなかったんすか」
「不安はあったのかもしれないし、悩みもあったのかもしれない。何度かここに来たの。でも、口にしなかった。アタシが聞いたのは、なる、という宣言だけ。何かしらの覚悟ができたんでしょうね。だから、アタシが緋司チャンに教えられることは、このくらいしかないわ。あと、アタシが名付け親ってことだけね。だから、直接聞いたほうが早いわよ」
「それは嫌っすね。会いたくない」
「あらあら」
しょうがない子、と呟く叶。実の母より、母親っぽくて、つい笑ってしまった。
ただの名付け親なのに、兄弟を知っているせいか、母親面をする叶。だが、嫌ではなかった。
母親よりも、胸中を吐き出せる。言ってもいい、信頼できる大人。それが叶だった。
「何者かにならないといけないなとは思うんすよね。でも、何者になればいいか分からない」
「なんで?」
「なんで……なんでか。なんでだろう」
親や兄がそうだから。思い浮かぶ理由はそれしかなかった。
叶は溜息をついて、椅子に腰掛ける。タバコを取り出して、火をつけた。
「何者にもなれない人だって、世の中にはわんさかいるというのに。ここに来るお客様だって、そういう人たちが多いわ。アタシだってそう」
「叶さんはちゃんとお店にいて、オカマになってる」
「それはアタシの長い人生においての一部分よ。アタシにも紆余曲折あったんだから。言わないケド」
ふう、と煙を吐き出す叶は、どこか遠い目をしていた。何か大切な過去を思い出しているのだろう。
「アンタの親や由宇チャンは、すぐに自分のいるべき場所を見つけて、その場所におさまって、成功してる。でも、そんな人、ほんの一握りよ。あの人たちを参考例にすべきじゃないの。一発で何者になれる人なんか稀。みんな、くねくねくねくね曲がりくねった道を行ってる。それは、アンタの親や由宇ちゃんは体験していないの。アンタのアンタだけの曲がり道を行けばいいんじゃない? 失敗したってやり直しがきく。アンタはまだ若いんだから」
きゃ、いいこと言っちゃった、と叶は一人で照れている。
カクテルの残りを飲み干し、緋司は立ち上がった。
「ありがとう、叶さん。ちょっと楽になったわ」
「あらそう? また来て。今度は兄弟そろって来てもいいのよ」
「それはないっすね。絶対ない」
代金を渡して、店から出る。
まだ解決したわけではないが、夏からあった、胸の中の重りが少しだけ軽くなった気がする。
学祭の日、なんとなく大学に行った。
絶対ないと思いながらも、なんとなく、兄のクソな顔が見たくなったからである。兄のことだから、きっと、女どもにちやほやされに来ているのだろうと予想していた。
その予想は的中し、学校の門の前で女たちに囲まれていた。派手なヒョウ柄の上着を羽織っている。ただでさえ目立つのに、余計に目立とうとしているのが気持ち悪い。
遠巻きに眺めていると、由宇に気づかれ、大きく手を振られる。そういうのは目立つからやめろと何度も言っているのに、直してくれなかった。
兄は女たちに何か一言かけると、女たちから「え〜」と残念そうな声が上がった。ウインクで女たちはようやく散り散りになっていく。
「緋司から会いに来てくれるなんて嬉しくてドキドキしちゃう♡」
「マジその喋り方やめてくれん?」
「む、り♡」
「あー、キモ」
やっぱり会わなきゃよかったか、と思った瞬間、兄が首に腕を回してくる。
「どったん、お兄ちゃんに何か相談事かな」
「なんでもねーよ」
「嘘。叶さんとこに行ったの、知ってるぞ♡」
「……ッ!」
耳元で囁かれ、ぶわっと鳥肌が立った。
「なんでッ、なんでだよッ!」
「叶さんほど、俺らを心配してくれる人はいないよ。そして、叶さん以上に、お兄ちゃんは緋司のこと、すっごく心配してる」
わしわしと頭をなでてくるので、足蹴りしようかと思ったが、やめた。
「心配されなくても、自分でなんとかするし。もう子供じゃねーぞ」
「そっか。じゃ、女の子のとこ行ってくるネ♡ ほんとココの大学、かわいい子多いよね〜」
マジきもちわりー……と軽蔑の視線を送って見送った。
言いたい事は言った。
もう子供じゃないから、自分でなんとかする。
きっと、自分は、兄や親よりも、道は一直線じゃないし、他の人よりも曲がりくねっている。分かれ道もいっぱいあるかもしれない。
だが、その道を一人で行く決心はできた。
今の問題はまだ先送りにはなっているが、大学生でいられる期間はまだある。その間に散々悩めばいいし、決定できなくてもそれもまた自分の道だと思えた。
学祭で賑わうキャンパスを歩きながら、自分がモラトリアムを生きていることを実感する。
いつまでも、こうしていられるわけではない。だが、いつか必ず、答えが出ると信じたい。
カーテンは閉じたままだが、隙間からこぼれる光が、今が日中であることを教えてくれていた。
寝返りを打った拍子にイヤホンが耳から外れると、セミのうるさい鳴き声が聞こえてくる。眉間に皺を寄せて、イヤホンをした。外界をシャットアウトできる優れものである。
今年は猛暑で、外に出るのが億劫だった。盆に実家に帰ることもなく、学生アパートで過ごしている。帰ったら、両親や兄からあれこれと言われるのが予想できたからだ。帰ったとしても三十分くらいで家を飛び出すに決まっている。だったら最初から帰らないほうがマシだ。
日々、積んでいたゲームを消化し、ソシャゲのイベントを走るだけだった。
普段は部屋は小綺麗にしている方なのだが、家事もろくにできていなかった。カップ麺のゴミがキッチンの上に置きっぱなしだし、服も脱ぎっぱなしだった。
さすがに動くべきだと思っても、体が重くて、結局横になったままスマホをいじって時間を浪費してしまう。SNSにはいつも誰かのつぶやきが表示されている。
緋司は趣味アカウントとリアル用アカウントを使い分けているが、普段見ているのは趣味用の方だった。同じゲームを遊んでいる人たちの投稿がタイムラインに表示されている。それらに機械的にいいねをつけていく。
そんなことをしていると、眠気がやってきて、次に目覚めたのは夕方。イヤホンも外れていて、外からひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。扇風機の自動オフタイマーが作動して切れていたので、ベッドから身を乗り出してまた電源を入れる。
溜息をついて、壁にもたれかかって座った。髪をかき上げる。いつの間にか伸びていて、切りに行かなければなと思う。長らく染めてもいないから、みっともないプリンになっているはずだ。部屋を見渡して、掃除をしなければと思う。今日は何も食べていないから、外に出て何か食料を買ってこなければと思う。しなければならないことは山程あるが、緋司はこの夏、腐りきっていた。
薄暗い部屋の中、スマホがまばゆい光を発する。
リアル垢を恐る恐る見ると、友人たちの現状がたくさん並んでいた。
『明日からインターンなので、髪の毛を染めて、新しいスーツもゲット。も〜、めっちゃ太ってたから、入学式で着たスーツが入らなかった〜。悲しい〜! でも新しいスーツは前のよりもシュッとしてるから身体がきれいに見える! 気合入れて頑張るぞ!』
と写真つきで投稿しているのは、同じクラスの女子である。もともと、明るい茶髪にしていた彼女だが、真っ黒に染められていた。
彼女の投稿には、他の友人からの返信がぶら下がっている。
『インターン頑張れ〜。ガチ勢に負けるな』
『ガチ勢って何ww』
『めっちゃできますアピールしちゃう人がいるんだよ。グループワークとかあるから頑張れ〜』
『やだこわ〜。ほどほどに頑張る〜』
そこまで読んで、その返信欄は閉じた。
他にも、就活に関する投稿が並んでいる。以前はこのような投稿はあまり見られなかったのに、やはり時期が時期なだけあって、それぞれ本格的に始まる就活に備えて準備を始めていた。
すでにインターンを経験して、経験談を投稿している者、情報を求めている者、行くかどうか悩んでいる者、様々である。
そのうち、緋司は、投稿はしてはいないものの、行くかどうか悩んでいる組に入っていた。
就活をするかどうか、自分が何をしたいのかも分かっていない。それを探すのが今の時期なのだろうが、悩んでばかりいて動くことができなかった。
この部屋で腐っている理由の一つだった。
自分が何者になればいいのか、分からないでいた。
壁に立てかけてあるギターを手にとって、適当にかき鳴らした。虚しく部屋に響き、そして消える。
稼ごうと思えば、術は一応ある。だが、それを一生のものにしたいという思いも、覚悟も、ない。それで誇れる何かになれる自信もない。
比較されない何かがいい。そう思って、親や兄とは全く関係のない法学部に身を置いた。勉強もそれなりにできたし、法の勉強も嫌いではなかったのだが、その方面の職につきたいという気持ちは生まれなかった。
こんな腐りきっている自分が、法の世界でまっとうに働けるのか?
そもそも、俺が、シャキッとしたスーツを着て、ビシッと働けるのか?
弁護士とかそういうのではなくとも、法務部みたいなところで俺が真面目に働く?
俺が?
想像ができなかった。
もう一度ギターをかき鳴らして、立ち上がった。
腹が減っているせいもあって、うまく考えられない。コンビニで適当なものを買ってくることだけが、今の緋司に決定できることだった。
アパートからほど近いところにあるコンビニに入り、雑誌コーナーの前を横切ろうとしたとき、兄が表紙を飾っている雑誌が目に入った。上半身は裸で、この美しい身体を見ろと言わんばかりの表情をしていた。
キッモ、と毒づく。
でも、これで喜ぶ人間が、この世にはたくさんいる。認めたくないが、それが事実だった。
カップ麺を買って、アパートに戻って、テレビをつければ今度は母が出てくる。
『こんな年齢なんですけどね、ラブシーンに挑戦したんです、ふふっ』
それを聞いた瞬間、鳥肌が立ってテレビを消した。実の親が演じるラブシーンなど見たくもないし、想像もしたくない。
でも、それで喜ぶ人間が、この世にはたくさんいる。認めたくはないが、それも事実だった。
母も兄も、緋司の前にそびえ立つ巨像のようなものだった。目に入れたくないのに入ってくる。誰かの注目の的になっている、輝かしい人間。
そんな二人と自分を比較するのが嫌だった。だから法学部に入ったのに、それもうまく活かせていない。
カレンダーを見る。夏休みはもうすぐ終わる。きっと、何もしないまま終わる。
満腹になったら、今度は眠気が襲ってくる。そのまま眠って、考えるのをやめよう。スマホを握りしめ、緋司はまたベッドに戻った。
夏休みが終わり、後期の生活にも慣れてきた十月。じわじわとはじまるのは学祭の準備だった。
例年、特定のサークルやバンドに所属していない緋司は適当にやり過ごしているのだが、今年はあるバンドからピンチヒッターの依頼がきていた。もともといたギターの子が夏に体調を崩してしまったから、手伝ってほしいという内容だった。
依頼者は人文の女子。中肉中背の大人しそうな女である。肌がきれいなだけで、他に特徴はなかった。『りお』という名前で活動していた。彼女は同学年で、キーボード担当。他のメンバーたちも同じく同学年。ボーカルは女子が担当していた。
オリジナル曲ではなく、ここ最近流行っているポップスをカバーしたものだった。あらかじめ渡されていた譜面を見る限り、難易度はそう高くはなかった。練習の回数が少ないだろうからと思って引き受けたのである。
一回目の音合わせは都内にあるスタジオをレンタルしていた。
「緋司くんが依頼引き受けてくれるとは思ってなかった、ほんとありがとう」
「別にいいよ。早く始めよう。時間もあるし」
「そうだね。今日は初めての合わせだし、ゆっくりやってみよ」
言いはしないのだが、他のメンバーたちの演奏は、全然、様になっていなかった。初見かと疑ってしまうほどのレベルである。
唯一、まともに演奏ができていたのはりおだけだ。ボーカルも全然歌えていないし、緋司とりおがメロディーを奏でた部分だけまともな曲になっていた。
合わせが終わったあと、みんな、口々に言い訳を始める。
夏休み中はインターンで忙しかったから、バイトが忙しかったから。見ているこっちが情けなくなってくる。
「別にいいよ。そういう時期だもん。学祭に間に合えば大丈夫」
りおはメンバーを心配させまいと明るく言った。だが、それは仇となってしまった。
練習の回数が少なくて済んだのは、メンバーが集まらなかったからだ。
夏にインターンに参加しておらず、遅れを取ってしまったメンバーが、こぞって秋開催のインターンに参加し始めたのである。きっと、講義が始まって、インターンの話を直で聞くうちに、焦り始めたのだろう。インターンをきっかけにしてOBと繋がれば、それだけで就活に有利になるという噂も聞いたのかもしれない。
常に誰か一人は欠けていて、全然練習にならなかった。常にいるのは、りおと緋司だけである。
四回目の合わせが終わり、スタジオにりおと緋司だけが残ったとき、りおは緋司に聞いた。
「緋司くんは、もう夏の間にインターンとか行ったの」
「いや、何もしてねーな。行ったほうがいいんだろうなとは思っていたけど、結局、どこにも行かなかった」
黒マスクの下で訥々と語る緋司を見て、りおは破顔した。
「よかったあ。私もなの」
「なんで」
「んー。なんかね。まだそういう時期じゃないかなって。人間が出来上がってないというか。だから、院に行くつもり」
「院」
「うん。ちょっと学びたいことがあるから」
それは、全然、俺と違う。
やりたいことが明確になっているりおは、全く違う。
何も一緒じゃない。
そう言おうとしたが、まだ浅い関係であるりおには言わなかった。
キーボードを片付け終えたりおは、うーんと大きく伸びをした。
「緋司くん、このあと、時間ある?」
「どうして」
「ピンチヒッターやってくれたお礼。もう今の感じだと、だめだね。諦める。まだ出演申請前でよかった。どっか、飲みに行こう」
「別にいいけど、構わないよ。謝礼とかもいらないし」
「私がそうしたいの。だから来て」
ギターケースを背負って、スタジオを出た。もう夜は少し冷える。ジャケットを持ってきていて良かったと思った。
スタジオ近くの居酒屋に入って、好きなものを頼んでいいと言われた。適当におつまみと、カクテルを頼んだ。
りおは見かけによらず、ビールから入る。
自棄になっているのだとすぐに分かった。お礼というのは口実で、自分は自棄酒に付き合わされているだけだった。
りおの飲むペースは早く、とにかく愚痴を聞かされた。やりたいって言ったはずなのにサボりやがって、と徐々に口も悪くなっていった。緋司は愚痴を否定もせず、肯定もせず、右から左に聞き流していく。どんどん運ばれてくる料理だけ食べて、酒は最初に頼んだカクテル一杯だけにしておいた。
こんなところで何やってんだろうな、俺。そう思いながら、枝豆をつまみ出す。
ぼうっとしていたら、りおは机の上に突っ伏していた。指先で前髪をかき分けると、気持ちよく眠っている顔が出てくる。舌打ちをした。
ラストオーダーの時間を過ぎ、緋司はりおを担いで会計を済ませ、店を出る。
駅に向かう途中、コンビニに寄って、ペットボトルの水を渡した。しおは水を口に含んで、しばらく店の前でしゃがんでいた。ようやく立ち上がれるようになって、二人で駅まで向かった。
「ごめん、私ばっかり」
「別にいいよ。どこまで送ったらいい?」
「いい、いい。そこまで迷惑かけられない。一人で帰る」
「あ、そう」
だったらこれ以上関わる必要もない。じゃ、と短い挨拶だけして、踵を返そうとしたとき、ジャケットの裾を掴まれた。
「え。何」
「付き合って」
突拍子のない申し出に、面食らってしまう。
「ちょっと意味が分からん」
「そうだよね。ごめん。緋司くん、優しかったから。勢いで言っちゃった。じゃあね」
ぱたぱたと走って、りおは駅の中に消えていった。
それを見送ったあと、大きな溜息が出る。
飲み足りないと思った。そう思った途端、足が動き出していた。
「あら〜、久しぶりね、緋司チャン! 来てくれて嬉しいわ〜!」
カウンターから身を乗り出し、両手を前に突き出して、頭をわしゃわしゃとかき乱してくるのは、バーのオネエマスターである叶だった。
今日は派手なワンピースではなく、白いジャケットを羽織っていた。カウンターからは見えないが、下はタイトなスカートだろう。そっちのほうが叶に似合っているといつも思う。
「やめてください、叶さん」
「ん〜、その冷たい視線、さ、い、こ、う! 何飲む?」
「なんでもいい」
「そんなこと言ったら、強いの出しちゃう。いいの?」
「いい」
「うふふ。緋司チャンが成人して、楽しみが増えたわ。おつまみはサービスでつけとくわね」
ピーナッツの入った小皿と、オレンジ色のカクテルが出てくる。名前を聞いたら、サード・レールと教えてくれた。口当たりの優しい、飲みやすいカクテルだった。
もっときついものが出されるかと思っていたのだが、叶なりに、今の緋司に合いそうなものを選んでくれたらしい。
だから、ここに来てしまう。
兄が通っているというのも知っている。だからなるべく来たくはないのだが、この叶という人物に無性に会いたくなるときがある。
何かにぶち当たってしまって、身動きできなくなってしまったとき。叶も緋司がここを訪ねるタイミングは知っているのだが、叶からは深くは聞いてこない。
緋司が語らなければ、叶も語らない。それが居心地がいいのだ。
ピーナッツを噛んで、口の中に残ったものをカクテルで胃に流した。酔いが回ってきたところで、ようやく口が動き出す。
「なんでアイツは親の後を追いかけて行ったんですかね」
「やだ、緋司チャン。違う違う。追いかけたんじゃないの、追い越そうとしたのよ。ほんと、自信たっぷりのいい男よね」
「最後の部分は否定させてください。アイツはいい人間じゃないですよ」
「ふふ、どうしたの。進路相談?」
「そんなとこっす」
どうぞ、と出されたのは、ドライフツールの入った小皿だった。クランベリーを口に含むと、少しだけさっぱりとする。
「由宇チャンったら、大切なところは弟に教えてないのね」
「アイツは何にも悩みがなかったんすか」
「不安はあったのかもしれないし、悩みもあったのかもしれない。何度かここに来たの。でも、口にしなかった。アタシが聞いたのは、なる、という宣言だけ。何かしらの覚悟ができたんでしょうね。だから、アタシが緋司チャンに教えられることは、このくらいしかないわ。あと、アタシが名付け親ってことだけね。だから、直接聞いたほうが早いわよ」
「それは嫌っすね。会いたくない」
「あらあら」
しょうがない子、と呟く叶。実の母より、母親っぽくて、つい笑ってしまった。
ただの名付け親なのに、兄弟を知っているせいか、母親面をする叶。だが、嫌ではなかった。
母親よりも、胸中を吐き出せる。言ってもいい、信頼できる大人。それが叶だった。
「何者かにならないといけないなとは思うんすよね。でも、何者になればいいか分からない」
「なんで?」
「なんで……なんでか。なんでだろう」
親や兄がそうだから。思い浮かぶ理由はそれしかなかった。
叶は溜息をついて、椅子に腰掛ける。タバコを取り出して、火をつけた。
「何者にもなれない人だって、世の中にはわんさかいるというのに。ここに来るお客様だって、そういう人たちが多いわ。アタシだってそう」
「叶さんはちゃんとお店にいて、オカマになってる」
「それはアタシの長い人生においての一部分よ。アタシにも紆余曲折あったんだから。言わないケド」
ふう、と煙を吐き出す叶は、どこか遠い目をしていた。何か大切な過去を思い出しているのだろう。
「アンタの親や由宇チャンは、すぐに自分のいるべき場所を見つけて、その場所におさまって、成功してる。でも、そんな人、ほんの一握りよ。あの人たちを参考例にすべきじゃないの。一発で何者になれる人なんか稀。みんな、くねくねくねくね曲がりくねった道を行ってる。それは、アンタの親や由宇ちゃんは体験していないの。アンタのアンタだけの曲がり道を行けばいいんじゃない? 失敗したってやり直しがきく。アンタはまだ若いんだから」
きゃ、いいこと言っちゃった、と叶は一人で照れている。
カクテルの残りを飲み干し、緋司は立ち上がった。
「ありがとう、叶さん。ちょっと楽になったわ」
「あらそう? また来て。今度は兄弟そろって来てもいいのよ」
「それはないっすね。絶対ない」
代金を渡して、店から出る。
まだ解決したわけではないが、夏からあった、胸の中の重りが少しだけ軽くなった気がする。
学祭の日、なんとなく大学に行った。
絶対ないと思いながらも、なんとなく、兄のクソな顔が見たくなったからである。兄のことだから、きっと、女どもにちやほやされに来ているのだろうと予想していた。
その予想は的中し、学校の門の前で女たちに囲まれていた。派手なヒョウ柄の上着を羽織っている。ただでさえ目立つのに、余計に目立とうとしているのが気持ち悪い。
遠巻きに眺めていると、由宇に気づかれ、大きく手を振られる。そういうのは目立つからやめろと何度も言っているのに、直してくれなかった。
兄は女たちに何か一言かけると、女たちから「え〜」と残念そうな声が上がった。ウインクで女たちはようやく散り散りになっていく。
「緋司から会いに来てくれるなんて嬉しくてドキドキしちゃう♡」
「マジその喋り方やめてくれん?」
「む、り♡」
「あー、キモ」
やっぱり会わなきゃよかったか、と思った瞬間、兄が首に腕を回してくる。
「どったん、お兄ちゃんに何か相談事かな」
「なんでもねーよ」
「嘘。叶さんとこに行ったの、知ってるぞ♡」
「……ッ!」
耳元で囁かれ、ぶわっと鳥肌が立った。
「なんでッ、なんでだよッ!」
「叶さんほど、俺らを心配してくれる人はいないよ。そして、叶さん以上に、お兄ちゃんは緋司のこと、すっごく心配してる」
わしわしと頭をなでてくるので、足蹴りしようかと思ったが、やめた。
「心配されなくても、自分でなんとかするし。もう子供じゃねーぞ」
「そっか。じゃ、女の子のとこ行ってくるネ♡ ほんとココの大学、かわいい子多いよね〜」
マジきもちわりー……と軽蔑の視線を送って見送った。
言いたい事は言った。
もう子供じゃないから、自分でなんとかする。
きっと、自分は、兄や親よりも、道は一直線じゃないし、他の人よりも曲がりくねっている。分かれ道もいっぱいあるかもしれない。
だが、その道を一人で行く決心はできた。
今の問題はまだ先送りにはなっているが、大学生でいられる期間はまだある。その間に散々悩めばいいし、決定できなくてもそれもまた自分の道だと思えた。
学祭で賑わうキャンパスを歩きながら、自分がモラトリアムを生きていることを実感する。
いつまでも、こうしていられるわけではない。だが、いつか必ず、答えが出ると信じたい。