5章
フルダは闇の中をがむしゃらに走っていると、マーオを見つけた。
マーオのふんわりとした尻尾が、まるで灯火のように光っていた。カンテラにはまだ火はついていない。だというのに、マーオがまるでカンテラのように周辺を照らしていた。
とにかくマーオについていけば、クラウスを見つけられる。フルダはそう信じて、クラウスのカンテラを握りしめ夜の中を走る。
(クラウス、どこに行っちゃったのかしら)
疑問に思ったところで、フルダはその疑問をすぐに打ち消した。
クラウスが歌っていたではないか。母の元へ行くのだと。
故郷の記憶を失ったクラウスは、何かの拍子に思い出したのだ。きっと、夜の国にいた頃の記憶を。
(クラウスの記憶が戻ったのは、喜ばしいことよ。だって、クラウス、あんなに……)
自分のことが分からなくて不安な顔をするクラウスを思い出すと、フルダの胸の奥がちくりと痛んだ。いくら何もない枯れた土地とはいえ、故郷のことを忘れてしまっていることが、悲しそうに見えて仕方なかったのだ。
クラウスの開いた夜へと通じる道は、クラウスが本当の自分へと帰るための道のようにフルダには見えた。
(そうしたら、クラウスは、夜に、帰っちゃうのかしら……)
昼に戻ってくるものだと思って追いかけたのだが、その自分の考えに、フルダはどきりとして足を止めてしまった。
クラウスがいなくなるかもしれない。その可能性に気付いたフルダは、急に心細くなり、クラウスのカンテラを抱きしめた。
マーオが、フルダに気が付いて足を止めた。
立ち止まるフルダの眼鏡の奥を、マーオは見上げる。はっとして、フルダはマーオに微笑みかけた。
「行きましょ。私、へんなことばかり考えちゃうから、駄目ね。マーオ、あなたが照らしてくれないと、私、歩けないから……」
クラウスがカンテラを灯さないでくれと頼んだのだ。ここで灯してしまえば、クラウスのせっかくの道が閉じてしまいそうで、それはまだ、できなかった。けれど、光なしでは、自分はこの道を歩くことも、できそうになかった。
フルダの言葉に対してマーオは「分かった」と言うように、小さなあゆみを進めた。そんなマーオが頼もしくて、フルダはその後ろをついていく。クラウスがマーオをずっと大切にしている理由が分ったような気がした。
しばらく闇の中を進んでいると、暗闇の中で、体を縮こませているクラウスを見つけた。痛みで、歩けなくなってしまったのだろうか。すべてから自分をふさぐように、クラウスは両の腕で頭をまるごと抱きしめ、小さくなっていた。
「クラウス――」
フルダがクラウスの背に手を置いた時だった。
『おかえり、夜の切れ端、私の愛する夜』
闇の中から、女性の声が響いた。夜のすべてを震わせるような、高く、澄んだ――例えるなら、夜に鳴く鳥のさえずりのような声が、響いた。
すると、闇の中が満点の星に包まれ、クラウスは顔を上げた。
「ぼく」
はっとして、クラウスはフルダを見た。
「ぼく……、ここ……、どこ?」
なぜ隣にフルダがいるのだろう。なぜ、自分はこんなところにいるのだろう。
何もかもが信じられなくて、クラウスは戸惑った。
「ぼく、なんか、歌ったの? ぼく、また何か、気付かないうちにまじない歌、歌っちゃったの? フルダ、教えて」
「あなた――、角笛の音が痛いからって、ここに来たの、覚えてないの?」
フルダに言われて、クラウスは、素直に頷いた。
「まただ。また、ぼく……。なんで……」
しかし、体が悲鳴を上げているのは、感じる。どういうわけか、体中が痛い。体の中も痛くて、クラウスは呻いた。
『夜を忘れた、夜の切れ端、ならば、思い出させてあげよう。私の衣から落ちた、私の息子』
空気が震える。痛む体が癒えていくような、心地よい震えだった。
その声は、クラウスに、聞き覚えがあった。耳の奥に残る、あの歌を歌う声そのものだった。
満点の星空が、揺らめく。まるで、星空のカーテンのように闇が揺らいだ。
その中から、白く、ほっそりとした女性が顔を出した。まるで月のように空高くに光るその顔が、微笑みを浮かべてクラウスを見ている。
「あなた、誰?」
痛みで自分の体を支えられないクラウスを支えてあげながら、フルダは問うた。
夜の国の住民に、こんな人物がいるだなんて、聞いたことがない。おとぎ話の中にも、いっさいこのような女性の話はなかったはずだ。
女性は笑う。知らないのも当然だというように、歌うように答えた。
『私は夜。夜の国そのもの。夜をつくり、夜をまもり、夜を歌う、夜の女王。夜は私に愛される。私は夜』
ふふ、と笑い、月のような顔をぐんっとクラウスに近づけた。
すると、星空のドレスをまとった、一人の女性の姿になった。歳はゲルダと同じくらいだろうか。長いドレスの中にきらめく星が、闇を這う。薄いヴェールが風に揺らいだ。
『私のドレスの端から産まれた、愛しい夜の子。それなのに、お前は、昼に行きたいと、言ってきかなかった。帰りたいと歌ったのは、お前の中に眠る夜。思い出させてあげよう。夜を忘れてしまった夜のために。角笛で傷んだのだね、かわいそうに』
ヴェールをクラウスにかけると、たちまちヴェールはクラウスの全身を包んでしまった。クラウスはその中で意識を手放してしまった。フルダの膝の上で眠ってしまい、フルダは不安になる。
「大丈夫なの……?」
『夜を思い出すだけ――』
静かにするように、女王は自分の青白く光る唇に人差し指をつけ、しい、と息をもらした。
そして、闇の中に溶けるようにして、女王はいなくなってしまった。
闇と沈黙がとけあう。その中で、唯一、ほのかな光を、マーオは持っていた。
「マーオ、一緒にいてね」
フルダがクラウスを抱きしめながら言うと、マーオはフルダの膝の上に乗り、フルダと共にクラウスが目覚めるのをじっと待ったのだった。
どこかから、落ちる感覚がした。
ぽちゃん、と、水のように、落ちる感覚。
光はどこにもなく、闇だけが広がっていた。
『どうして、お前は私から落ちたんだい?』
あの、澄んだ小鳥のような声が、自分に聞いた。
そんなの、聞かれても分からないよ。そう言おうとしたけれど、クラウスは何も言えなかった。頭の中がぼんやりとしていて、何も考えることができなかった。
『私のドレスから落ちるほど、行きたいところがあるのかい』
夜に掬われる。広く、大きな手に、抱かれる感覚がクラウスを包んだ。
行きたいところ。そう聞かれて、まず思い浮かべたのは、あたたかな陽射しだった。
光が欲しい。どうしても、欲しかった。心が、そう叫んだ。
『お前は昼に行きたいのかい。夜だというのに』
「でも、行きたいんだ。だって、向こうは、あったかいし、なんでもある」
今度は、声が出た。
『なぜそれを知っているんだい』
「もうひとりのぼくが、知ってるんだ。お母さまのドレスの中で、夢を見た。もうひとりのぼくが見た夢を、見たんだ。あたたかくて、美味しいものもあって、いいなって、思ったんだ」
気が付いたら、手があった。
気が付いたら、足があった。
気が付いたら、もうひとりの自分の姿をしていた。
(あ、ぼく、そうだ。ぼく、本当は、”夜”だったんだ。昼のぼくが羨ましくて、昼のぼくになったんだ……)
自分の中の夜が教えてくれる、夢だった。クラウスは気が付いて、そのまま、自分が覚えている記憶をたどる。
『ならば、昼に行けばいい。でも、お前は夜だ。忘れてはいけない。夜と昼は出会ってはいけない。お前のそのわがままが、どうなっても、母は助けれないよ』
「いいよ。自分で、なんとかする」
そして、自分は母の手から飛び出した。母の別れの歌を聴いて。それから、もうひとりの自分が眠っていたベッドに、飛び込んだのだ。
(そうだ、取り替えたのは、ぼくだったんだ……!取り替えられたんじゃない、ぼくが、取り替えたんだ!)
昼の自分のことなど、おかまいなしだった。
昼で生きたい。そのわがままのせいで、昼の自分は、夜の国で過ごすことになってしまったのだ。
ベッドから起きると、自分を迎えてくれたのは、母でもなく、父でもなく、年老いた女性だった。
「ばあば」
クラウスはそう呼んだ。きっと、昼の自分がもともとこう呼んでいたのだろう。
こじんまりとした家に、二人で住んでいた。家族というよりは、二人で身を寄せて小さな家に住んでいるようだった。それともう一匹。マーオが、クラウスの隣に常にいた。
お腹がすけば、おいしいごはんをくれたし、あたたかい服もくれた。しかし、いくらその老婆がクラウスのために手を焼いても、クラウスは求め続けた。
体が大きくなればなるほど、お腹がすく。食べても食べても、お腹がすく。そして、クラウスは、気が付いた。
いつの間にか、村にあるものすべてを、食べていたことを。
「クラウス、これからすることを、許しておくれ。夜のお前が、昼で生きるためには、こうするしか、ないんだ」
老婆は、クラウスの額に手を当て、何か歌を紡いだ。
今なら分かる。それが、まじない歌だということを。
老婆は、ゲルダと同じ、まじない師だった。だからクラウスは、ゲルダを抱きしめた時、懐かしさを覚えたのだ。
夜が覚えていたのは、ここまでだった。
まじない歌によって記憶が封じ込まれてしまったのか、ここで記憶が途切れ、クラウスは闇の中に放り出される。
何もない。クラウスの知る、本当の夜が広がっていた。
闇を見つめたまま、クラウスは、呆然とした。
「ぼくが、村を、枯らしたんだ――、ぜんぶ、ぼくのわがままのせいだ!」
闇の中で、何も持たない自分が、何もかも求めた結果だということに、クラウスは知ってしまった。
何もない。それが、本当の夜の正体だった。そして、本当の夜は、自分だった。
(だから、何でもあるっていう、ティルハーヴェンに来たんだ。ぼくは、欲しかったんだ。何かがあることに、安心したかった……)
そしてクラウスは、昼の自分が、夜のフルダと一緒にいる理由が、なんとなくだが、分かってしまった。
(住む世界を、奪われたんだ。ぼくに。わがままをしたぼくのせいで。それで、きっと、昼のぼくは、夜の国で、夜のフルダに会って……)
二人で、きっと、取り戻そうとしているのだ。奪われた幸せを。
家を、世界を奪われたから、もうひとりの自分に対して火をつけるのだ。
想像でしかないが、もうひとりの自分の気持ちを、痛いほど感じる。
だったら、一刻も早くこの闇から出て、昼の自分に謝らないといけない。そう思った。そうしないといけないと思った。
だって、母に言ったのだから。自分でなんとかすると。
(行かなきゃ。ぼく、ぼくの中に閉じこもってちゃ、だめだ)
クラウスは闇の中に光を探した。
夜から出なければ。ここには何もないのだから。クラウスは光を求めた。
しかし、いくら探しても、光をどこにも見つけることができなかった。
夜に閉じ込められてしまった。どうしようもない不安にかられ、クラウスは震える唇で、思いつく人の名を呼んだ。
「フルダ――!」
マーオのふんわりとした尻尾が、まるで灯火のように光っていた。カンテラにはまだ火はついていない。だというのに、マーオがまるでカンテラのように周辺を照らしていた。
とにかくマーオについていけば、クラウスを見つけられる。フルダはそう信じて、クラウスのカンテラを握りしめ夜の中を走る。
(クラウス、どこに行っちゃったのかしら)
疑問に思ったところで、フルダはその疑問をすぐに打ち消した。
クラウスが歌っていたではないか。母の元へ行くのだと。
故郷の記憶を失ったクラウスは、何かの拍子に思い出したのだ。きっと、夜の国にいた頃の記憶を。
(クラウスの記憶が戻ったのは、喜ばしいことよ。だって、クラウス、あんなに……)
自分のことが分からなくて不安な顔をするクラウスを思い出すと、フルダの胸の奥がちくりと痛んだ。いくら何もない枯れた土地とはいえ、故郷のことを忘れてしまっていることが、悲しそうに見えて仕方なかったのだ。
クラウスの開いた夜へと通じる道は、クラウスが本当の自分へと帰るための道のようにフルダには見えた。
(そうしたら、クラウスは、夜に、帰っちゃうのかしら……)
昼に戻ってくるものだと思って追いかけたのだが、その自分の考えに、フルダはどきりとして足を止めてしまった。
クラウスがいなくなるかもしれない。その可能性に気付いたフルダは、急に心細くなり、クラウスのカンテラを抱きしめた。
マーオが、フルダに気が付いて足を止めた。
立ち止まるフルダの眼鏡の奥を、マーオは見上げる。はっとして、フルダはマーオに微笑みかけた。
「行きましょ。私、へんなことばかり考えちゃうから、駄目ね。マーオ、あなたが照らしてくれないと、私、歩けないから……」
クラウスがカンテラを灯さないでくれと頼んだのだ。ここで灯してしまえば、クラウスのせっかくの道が閉じてしまいそうで、それはまだ、できなかった。けれど、光なしでは、自分はこの道を歩くことも、できそうになかった。
フルダの言葉に対してマーオは「分かった」と言うように、小さなあゆみを進めた。そんなマーオが頼もしくて、フルダはその後ろをついていく。クラウスがマーオをずっと大切にしている理由が分ったような気がした。
しばらく闇の中を進んでいると、暗闇の中で、体を縮こませているクラウスを見つけた。痛みで、歩けなくなってしまったのだろうか。すべてから自分をふさぐように、クラウスは両の腕で頭をまるごと抱きしめ、小さくなっていた。
「クラウス――」
フルダがクラウスの背に手を置いた時だった。
『おかえり、夜の切れ端、私の愛する夜』
闇の中から、女性の声が響いた。夜のすべてを震わせるような、高く、澄んだ――例えるなら、夜に鳴く鳥のさえずりのような声が、響いた。
すると、闇の中が満点の星に包まれ、クラウスは顔を上げた。
「ぼく」
はっとして、クラウスはフルダを見た。
「ぼく……、ここ……、どこ?」
なぜ隣にフルダがいるのだろう。なぜ、自分はこんなところにいるのだろう。
何もかもが信じられなくて、クラウスは戸惑った。
「ぼく、なんか、歌ったの? ぼく、また何か、気付かないうちにまじない歌、歌っちゃったの? フルダ、教えて」
「あなた――、角笛の音が痛いからって、ここに来たの、覚えてないの?」
フルダに言われて、クラウスは、素直に頷いた。
「まただ。また、ぼく……。なんで……」
しかし、体が悲鳴を上げているのは、感じる。どういうわけか、体中が痛い。体の中も痛くて、クラウスは呻いた。
『夜を忘れた、夜の切れ端、ならば、思い出させてあげよう。私の衣から落ちた、私の息子』
空気が震える。痛む体が癒えていくような、心地よい震えだった。
その声は、クラウスに、聞き覚えがあった。耳の奥に残る、あの歌を歌う声そのものだった。
満点の星空が、揺らめく。まるで、星空のカーテンのように闇が揺らいだ。
その中から、白く、ほっそりとした女性が顔を出した。まるで月のように空高くに光るその顔が、微笑みを浮かべてクラウスを見ている。
「あなた、誰?」
痛みで自分の体を支えられないクラウスを支えてあげながら、フルダは問うた。
夜の国の住民に、こんな人物がいるだなんて、聞いたことがない。おとぎ話の中にも、いっさいこのような女性の話はなかったはずだ。
女性は笑う。知らないのも当然だというように、歌うように答えた。
『私は夜。夜の国そのもの。夜をつくり、夜をまもり、夜を歌う、夜の女王。夜は私に愛される。私は夜』
ふふ、と笑い、月のような顔をぐんっとクラウスに近づけた。
すると、星空のドレスをまとった、一人の女性の姿になった。歳はゲルダと同じくらいだろうか。長いドレスの中にきらめく星が、闇を這う。薄いヴェールが風に揺らいだ。
『私のドレスの端から産まれた、愛しい夜の子。それなのに、お前は、昼に行きたいと、言ってきかなかった。帰りたいと歌ったのは、お前の中に眠る夜。思い出させてあげよう。夜を忘れてしまった夜のために。角笛で傷んだのだね、かわいそうに』
ヴェールをクラウスにかけると、たちまちヴェールはクラウスの全身を包んでしまった。クラウスはその中で意識を手放してしまった。フルダの膝の上で眠ってしまい、フルダは不安になる。
「大丈夫なの……?」
『夜を思い出すだけ――』
静かにするように、女王は自分の青白く光る唇に人差し指をつけ、しい、と息をもらした。
そして、闇の中に溶けるようにして、女王はいなくなってしまった。
闇と沈黙がとけあう。その中で、唯一、ほのかな光を、マーオは持っていた。
「マーオ、一緒にいてね」
フルダがクラウスを抱きしめながら言うと、マーオはフルダの膝の上に乗り、フルダと共にクラウスが目覚めるのをじっと待ったのだった。
どこかから、落ちる感覚がした。
ぽちゃん、と、水のように、落ちる感覚。
光はどこにもなく、闇だけが広がっていた。
『どうして、お前は私から落ちたんだい?』
あの、澄んだ小鳥のような声が、自分に聞いた。
そんなの、聞かれても分からないよ。そう言おうとしたけれど、クラウスは何も言えなかった。頭の中がぼんやりとしていて、何も考えることができなかった。
『私のドレスから落ちるほど、行きたいところがあるのかい』
夜に掬われる。広く、大きな手に、抱かれる感覚がクラウスを包んだ。
行きたいところ。そう聞かれて、まず思い浮かべたのは、あたたかな陽射しだった。
光が欲しい。どうしても、欲しかった。心が、そう叫んだ。
『お前は昼に行きたいのかい。夜だというのに』
「でも、行きたいんだ。だって、向こうは、あったかいし、なんでもある」
今度は、声が出た。
『なぜそれを知っているんだい』
「もうひとりのぼくが、知ってるんだ。お母さまのドレスの中で、夢を見た。もうひとりのぼくが見た夢を、見たんだ。あたたかくて、美味しいものもあって、いいなって、思ったんだ」
気が付いたら、手があった。
気が付いたら、足があった。
気が付いたら、もうひとりの自分の姿をしていた。
(あ、ぼく、そうだ。ぼく、本当は、”夜”だったんだ。昼のぼくが羨ましくて、昼のぼくになったんだ……)
自分の中の夜が教えてくれる、夢だった。クラウスは気が付いて、そのまま、自分が覚えている記憶をたどる。
『ならば、昼に行けばいい。でも、お前は夜だ。忘れてはいけない。夜と昼は出会ってはいけない。お前のそのわがままが、どうなっても、母は助けれないよ』
「いいよ。自分で、なんとかする」
そして、自分は母の手から飛び出した。母の別れの歌を聴いて。それから、もうひとりの自分が眠っていたベッドに、飛び込んだのだ。
(そうだ、取り替えたのは、ぼくだったんだ……!取り替えられたんじゃない、ぼくが、取り替えたんだ!)
昼の自分のことなど、おかまいなしだった。
昼で生きたい。そのわがままのせいで、昼の自分は、夜の国で過ごすことになってしまったのだ。
ベッドから起きると、自分を迎えてくれたのは、母でもなく、父でもなく、年老いた女性だった。
「ばあば」
クラウスはそう呼んだ。きっと、昼の自分がもともとこう呼んでいたのだろう。
こじんまりとした家に、二人で住んでいた。家族というよりは、二人で身を寄せて小さな家に住んでいるようだった。それともう一匹。マーオが、クラウスの隣に常にいた。
お腹がすけば、おいしいごはんをくれたし、あたたかい服もくれた。しかし、いくらその老婆がクラウスのために手を焼いても、クラウスは求め続けた。
体が大きくなればなるほど、お腹がすく。食べても食べても、お腹がすく。そして、クラウスは、気が付いた。
いつの間にか、村にあるものすべてを、食べていたことを。
「クラウス、これからすることを、許しておくれ。夜のお前が、昼で生きるためには、こうするしか、ないんだ」
老婆は、クラウスの額に手を当て、何か歌を紡いだ。
今なら分かる。それが、まじない歌だということを。
老婆は、ゲルダと同じ、まじない師だった。だからクラウスは、ゲルダを抱きしめた時、懐かしさを覚えたのだ。
夜が覚えていたのは、ここまでだった。
まじない歌によって記憶が封じ込まれてしまったのか、ここで記憶が途切れ、クラウスは闇の中に放り出される。
何もない。クラウスの知る、本当の夜が広がっていた。
闇を見つめたまま、クラウスは、呆然とした。
「ぼくが、村を、枯らしたんだ――、ぜんぶ、ぼくのわがままのせいだ!」
闇の中で、何も持たない自分が、何もかも求めた結果だということに、クラウスは知ってしまった。
何もない。それが、本当の夜の正体だった。そして、本当の夜は、自分だった。
(だから、何でもあるっていう、ティルハーヴェンに来たんだ。ぼくは、欲しかったんだ。何かがあることに、安心したかった……)
そしてクラウスは、昼の自分が、夜のフルダと一緒にいる理由が、なんとなくだが、分かってしまった。
(住む世界を、奪われたんだ。ぼくに。わがままをしたぼくのせいで。それで、きっと、昼のぼくは、夜の国で、夜のフルダに会って……)
二人で、きっと、取り戻そうとしているのだ。奪われた幸せを。
家を、世界を奪われたから、もうひとりの自分に対して火をつけるのだ。
想像でしかないが、もうひとりの自分の気持ちを、痛いほど感じる。
だったら、一刻も早くこの闇から出て、昼の自分に謝らないといけない。そう思った。そうしないといけないと思った。
だって、母に言ったのだから。自分でなんとかすると。
(行かなきゃ。ぼく、ぼくの中に閉じこもってちゃ、だめだ)
クラウスは闇の中に光を探した。
夜から出なければ。ここには何もないのだから。クラウスは光を求めた。
しかし、いくら探しても、光をどこにも見つけることができなかった。
夜に閉じ込められてしまった。どうしようもない不安にかられ、クラウスは震える唇で、思いつく人の名を呼んだ。
「フルダ――!」