4章

 勤務前になってホームに来たアイヴィンは、クラウスの顔を見るなり「ひどいな」とつぶやいた。
「反省会はちょっと別のところでやろうか。フルダがいなくても、できるだろ」
 アイヴィンのウインクがついている時のものは、自分にとっていいお誘いであることをクラウスは知っていた。誘われるまま、海沿いにある大きな建物へとやってきた。煙突から、もくもくと煙が出ている。
「何をそんな驚いた顔をしているんだ。銭湯を教えてもらってなかったのか?」
「う、ううん。フルダがこの前、ゲルダさんと行ってたのは知ってるけど……、こんな大きいんだ」
「まあ、ここはティルで一番大きいところだからな。フルダもここに来たって言ってたから。お前のそのひどい顔をここでさっぱり綺麗にしておいたほうがいいと思うぞ」
 言われてクラウスは、自分の頬を手でこすった。あのあと、フルダに言われるままぬるま湯で洗い流したはずなのだが、まだ涙の跡が残っていたのだろうか。慌てるクラウスを見て、アイヴィンは笑った。
「落ち込んだのが顔に出てるんだよ。ああそう、泣いてたの。へえ?」
「う、アイヴィンって、フルダと同じくらい賢いよね」
 たまにいじわるだし、とクラウスは警吏を騙すアイヴィンを思い出した。おしゃべりは、フルダよりも得意なのかもしれない。
 風呂に入る前から顔が火照ってしまい、クラウスはかっかとする頬を手で隠しながら浴場まで来た。
 この時間はどうやらいつも客数が少ないようで、アイヴィンは手早く体を流してさっさと誰もいない大きな浴槽に入った。クラウスもてきぱきと体を流すアイヴィンを横目で見ながら、急いだ。なぜこんなに急ぐ必要があるのかと思ったが、湯があまりにも熱かったので納得してしまった。のんびりしていられないくらい熱い。
 窓の外からは、ティルの海が見える。最近は森ばかりに行っていたので、海を見るのは久しぶりだった。
 三つ編みをほどいて流した髪をタオルの中に包み、湯に濡れないようにしているアイヴィンが「あー」と間の抜けた声を出している。肩まで湯に浸からせながらクラウスはゆっくりとアイヴィンに近寄った。
「熱すぎるよ、ここのお湯」
「これがいいんだって。で、何に泣いてたわけ?」
 手で湯をすくって顔を流し、アイヴィンはクラウスに聞いた。
「夜の奴らを逃したこと? フルダの首が切れたこと? 夜のクラウスがいかにも”人間”っぽかったこと? どれ?」
「ぜんぶ。ぜんぶだよ、アイヴィン。でも、いちばんは、ぼくが何もできなかったせいで、フルダが傷ついてしまったことかな……」
 顔を半分湯の中に入れて、ぶくぶくと泡を吐いた。そして、クラウスは事が起こってしまったことを話した。
「ぼくが、なんとなく歌ってしまったまじないで、夜のフルダたちが来てしまったんだ。昼に来るつもりがなかったのに、まじない歌で罠に引っかかってしまったって言ってた。ぼくがあの時小人を歌で呼んでなければ、夜のぼくが昼に来ることはなかったし、フルダも傷つかずにすんだのに。ぼく、なんだか、気付かないうちにまじない歌ってるみたいで……、それが、ちょっと、怖いなって」
 包帯の巻かれたフルダの首を思い出すと、あの時の悔しさと、後悔も一緒に思い出す。
「そうか。まじない歌か。でもクラウス、それは、専門家がホームにいるじゃないか。そりゃ、起こってしまったことは仕方がないことだが、クラウスが”歌ってしまう”ということが分かったのは一つの収穫だろう? じゃあどうしたらいいかはマダム・ゲルダに聞けばいい」
「うん……。ぼく、なんで歌っちゃうんだろ。誰に聞いたか分からない歌も知ってるし。ぼくって、どこから来たんだろ……、それすら、もう、思い出せないんだ。ぼく、おかしいよ。それに、なんで夜から、人間のぼくが出てきたの?」
 フルダやゲルダから聞く夜の国に、人間がいるだなんて話は一切なかったはずだった。フルダは小人だったし、アイヴィンは妖精だ。昼も夜もどちらもが人間であることに、クラウスは疑問を感じていた。
「まあなあ。でも、あのクラウスが人間だとはまだ決まったわけじゃない。小人でも妖精でもなかった。そして、魔法とやらも使わず、ナイフで俺たちに向かってきた、くらいしか分かってないじゃないか。決めつけるのは早い」
「分かってるよ、分かってるけど」
 脳裏に浮かぶ、自分の知る”本当の夜”の闇と、枯れた大地の色。そして、自然に口から零れ落ちるようにして歌ってしまうまじない。自分の身に起こっていることが理解できなくて、クラウスは膝を抱えた。
「自分のことなのに、自分のことが分からないって、へんだね」
「へんじゃないさ。俺だって、自分が何したいか分からなくなることはある。夜警やってていいのかってな。いつまでも夜警のままでいてはいけないって知っていながら夜警やってるから」
 クラウスの肩をぽんっと叩き、アイヴィンはクラウスに顔を寄せた。
「それはそうと、クラウス。お前はフルダのために泣けるんだなあ」
「どういうこと?」
 きょとんとするクラウスの肩を再度ぽんぽんと叩きながら、アイヴィンは笑った。
「夜のクラウスはえらいなあ。あんなこと言えるんだから。フルダとはどういう関係なんだろうなあ」
「何の話、アイヴィン」
「ははは、先輩は面白く見守ることにするよ」
 頭に巻いていたタオルを取り、アイヴィンは湯から上がった。
 アイヴィンが言いたいことがいまいち分からず、クラウスは首をかしげたが、自分も暑さに耐えきれずにアイヴィンと一緒に湯から上がった。
 銭湯でさっぱりしたおかげで気分は軽くはなったが、それでもクラウスは自分のことが気になって、ホームに帰ってすぐにゲルダに相談に行った。
 部屋に入ると、大量の石と模様の描かれた布が広げられており、まじない師というよりは魔女のような部屋になってしまっていた。
「ああ、クラウスくん、ごめんね、散らかってて。商売道具を整えてたんだ」
「え、商売ですか?」
「そ。いつまでもここに世話になるわけにはいかないだろう? まじないってのは、占いと同じほど売れるんだよ。未来や気持ちを知るための占いと違って、まじないは”事を起こす”ためのものだからね。願いが叶う、ともいうかな。意外と売れるのさ。ティルハーヴェンでやるには、ちょっと工夫がいるけれど。もう場所も決めた。ここは港が大きいから、海沿いにしたんだ。これで外国の客も入るぞ。いやあ、いい買い物をした。準備が整い次第、ここを出て行くつもりだよ」
 また牢獄生活を送るのは嫌だからね、とゲルダは笑った。そのための荷物整理か、とクラウスは納得した。石や布だけではない。様々な形のキャンドルに、宝飾品、小瓶がずらっと部屋に並んでいる。
「で、どうしたんだい? そういえば、クラウスくん、昨日も歌ってたね。恋でもしてるのかと思ってしまったよ」
「恋……?」
「え、してないのかい? なんだ、違ったか。だって、会いたいって歌ってるからさ」
「それは、小人のフルダのことです。ゲルダさん、ぼく、まじないなんて、歌ってるつもりじゃなかったのに、なんでまじないを歌ってしまうんですか? まじない歌って、そういうものなんですか?」
 切羽詰まったような表情をするクラウスに、ゲルダは紅茶を持ってくるようにリビングにいたフルダに声をかけた。
 そして、クラウスに椅子に座るように促す。
「クラウスくんも聞いてるとは思うけど、まじない歌ってのは、誰しもが歌えるわけじゃない。まず声がよく響くこと。これを満たす者は限られている。それから、気持ちを素直に出せることが条件だ。クラウスくんはこのどちらの条件も満たしているから、自然とまじない歌になってしまうんだよ」
「神様に与えられたっていう話は、じゃあ、なんで」
「声は神様が与えてくださるものだから。そういうこと。クラウスくんは人一倍、気持ちが大きいんだろうね。強い気持ちが自然と歌になってしまう。まじない歌でなくとも、歌ってのはそういうものだろう? 嬉しいとき、苦しいとき、悲しいとき、人は歌う。それがまじないになってしまう人っていうのは、いるものなんだよ」
 キッチンで鼻歌を歌いながら料理をしているフルダやローレンの姿を思い出し、クラウスはゲルダの話に納得した。自分の声がよく響くなんて思ってはいなかったが、ゲルダが聞くと、そうなのだろう。
 紅茶を持ってきてくれたフルダを見送り、ゲルダはカップに口をつけた。
「ま、つまり、クラウスくんの特技のようなものだね、まじない歌は。それで悩んでいるのかい?」
「うん……、知らないうちに歌っちゃって、それがへんなことにならないか心配。なんで夜の国の歌も知ってるのか……、ぼく、故郷の記憶もないんです」
 両手の中にカップを入れたまま、胸につっかえているものをゲルダに話す。
「それに、夜のぼくは、小人でも妖精でもなかったんです。ぼくと同じ背丈で、ぼくと同じ顔で、ぼくと同じ声で、ぼくと同じ……人間のようでした」
 紅茶を飲みながら、クラウスの話を最後まで聞くゲルダは、自分の中の知識とクラウスの話を照らし合わせているようだった。クラウスが話し終えても、しばらくゲルダはカップの淵に唇をつけたまま考えていた。
 そうして、ゲルダは瞼を一度伏せ、カップを唇からはなした。
「――クラウスくん」
 カップを机の上に置き、ゲルダはクラウスの手を包んだ。
「驚いてはいけないよ。私の中にある知識を使って考えると、きみは――」
 亜麻色の髪が肩からこぼれ、ゲルダはクラウスの目を見た。
「”取替子”……きみは、夜の住民かもしれない」
 揺らぐクラウスの瞳の中に、ゲルダは見た。
 奥底に、夜の国の空が輝いているような気がした。しかし、その輝きは、まばたきと共に揺らいで、隠れてしまった。
「とりかえこ……? ぼく、夜の住民なの?」
 ゲルダの中にあるクラウスの手が、小さく震えた。
「取替子の話についてはフルダに聞くといい。フルダなら、うまく話せると思う。いいかい、カンテラを手放してはいけないよ。カンテラを手放してしまえば、きみは、夜を思い出してしまうから――」
 夜の国に行ったあと、やたらとだるそうにしていたのは、自分の中に潜む夜を思い出していたせいだったか、とゲルダはようやくわかった。
 部屋からゆっくりと出て行くクラウスの背中を見ながら、ゲルダはある一人のまじない師を思い出したのだった。
 
 
「取替子? ああ、知ってるわ。昼の赤ちゃんと夜の赤ちゃんがゆりかごの中で入れ替わってしまうことでしょ。偶然のこともあれば、意図的に取り替えることもあるって話……どうしたの?」
 突然ね、とフルダがクラウスに言った。その表情が暗くて、フルダはおかしい、と思った。アイヴィンと一緒にお風呂に行って気晴らししてきたはずなのにとフルダは首をかしげた。
「ゲルダさんと話してて何かあったの?」
「あのね、ぼく、取替子で、夜の住民かもって、言われちゃった」
 フルダに話しながら、ああそうか、と思う。クラウスは耳の奥に残る歌を聴いた。まるで、愛しい我が子との別れを歌ったような歌。
 だから、自分は夜の国の歌を知っていたんだ――。耳の奥、胸の奥に残る歌を聴けば聴くほど、クラウスは胸が苦しくなる。
「ぼく、人間じゃなかったら、じゃあ、なんなの? ぼく、なんでここにいるの?」
 ぽろぽろと、また涙がこぼれ落ちる。すべての話を聞いたわけではないが、クラウスの涙の理由はすぐに分かった。不安なのだ。自分のことが分からなくて。
「クラウス、聞いて。取り替えられた子どもは、そのあと、それぞれの世界で生きることになるの。その世界の住民としてよ。だから、あなたが生まれは夜であっても、あなたはティルの住民よ。あなたは、ティルハーヴェンの住民として、ティルハーヴェンの夜警をしてるのよ。ティルはなんでもあるわ。なんでもあるということは、なんでも受け入れるの。だから大丈夫よ。まだ全部が分かったわけじゃないでしょう?」
「うん」
 涙をぬぐってやり、フルダはクラウスの外套に帽子、杖にカンテラと夜警の道具一式を持ってきた。
「行きましょ。もうすぐ夜よ。夜のクラウスと夜の私がたぶん、知ってるわ。なんで一緒にいるのかもね。残念だわ、ティルにはなんでもあるって言いながら、いちばん知りたいことは、ここにはないのね」
 クラウスのカンテラに火をつけ、フルダはクラウスの頭に帽子をかぶせた。
「リュートもきっと昨晩の出来事を知りたがってると思うわ。行きましょ。あなたのカンテラがなきゃ、道で迷子になるから」
「うん」
 カンテラを手放してはいけない。ゲルダの言葉を思い出し、昨晩、手から離してしまった杖を、クラウスは強く握りしめたのだった。

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