3章

 やっとの思いでホームに帰ってきたクラウスとフルダは、女を早々と空いていた部屋のベッドに寝かせた。長らく使ってないので埃っぽかったが、そこは我慢をしてもらった。
 女の口に水を含ませると、女はゆっくりと水を喉に流し込んだ。長らく何も口にしていなかったのだろうか。水は飲みこんだが、まだぐったりとしていて、起き上がれる様子ではなかった。
 部屋の明かりを消して、フルダとクラウスは部屋から静かに出た。
「お水が飲めたなら、そのうち目を覚ますわ。しばらく、様子を見てましょ。さて、団長になんて言おうかしら……」
「うーん、行き倒れてたから休ませてるって言う?」
「そうね。それがいいかも。まさか、牢から連れてきただなんて言えないし。まったく、アイヴィンったら。隠し通路なんて知らなかったわ」
 壁にかけていた自分のエプロンを取り、女に食べさせる料理の準備にとりかかったフルダに、クラウスは恐る恐る尋ねた。
「ねえ、あのお屋敷、フルダ知ってたの?」
「ああ、あれ、アイヴィンの家よ。すごいでしょ。あんなお屋敷に住んでて。なんで隠し通路があるのかは知らないけど。アイヴィン、私には何も教えてくれないの。家のこととか。幼馴染なのに。おかしいでしょ。だから、何がしたいのか、何をしているのか、私には分からないわ。クラウスは知ってるの?」
「ううん。ぼくもアイヴィンのこと、あまり分からない。優しい先輩ってことだけ」
 クラウスの返事を聞いたフルダは、何も言わずに炉に火をつけ、鍋をかけた。どうやら、体に優しいスープを作るらしい。野菜をいつもより小さく刻んでいく。いくつか、香草をちぎって、湯の中に入れた。
 アイヴィンが昼に何をやっているのか、フルダでさえ知らないという事実に、クラウスは正直、驚いた。
 アイヴィンは確か「フルダが心配で、夜警になってしまった」と言っていたはずだ。「なってしまった」ということは他にしたいことでもあったのだろうか。警吏と身分が違うはずなのに同等に話ができること、警吏長のサインが入った通行証明書を入手できること、牢の鍵束を持っていたこと、隠し通路を知っていること――謎に思うことが多かった。でも、なぜなのか、クラウスは聞く勇気はなかった。フルダでさえ知らないのに。
「あ、そうだ、フルダの家って、アイヴィンの家の隣だったって聞いたよ」
「ええ、そうよ。あの屋敷の隣。だから、みすぼらしく見えたわ。パパが金物を加工する職人で、どちらかといえばお金はあるほうだったけれど、アイヴィンの家に比べたら……。なぜ、私の家が襲われたのか、今でも分からないの」
「その襲った人って」
「捕まってないわ。逃げたの。家を燃やして。ローレン団長が慕ってた前団長を火の中に残して。団長が私を見つけた時はもういなかったって言うわ。私はずっと怖くて泣いててよく覚えてない。だから、何も残ってないの。本当に、何も」
 背中が悲しそうに語るので、クラウスはそれ以上聞くのをやめた。
 ぐつぐつとスープが煮える音が響く。
 何もない。その言葉が、クラウスの中に静かに沈んでいった。
(なんで、フルダとぼくは、ちょっと、似てるんだろう……。何もかもなくして、失わないために夜警をしてるぼくと)
 似てる、と思ったことが、不思議だった。
 少し寂しそうにしているフルダの背中を見ていると、静かにマーオが寄ってきて、フルダの足にすり寄った。
 何も言えず、スープの煮立つ音を聞きながら朝を待っていると、はやくに帰ってきて階段を上がる足音が聞こえてきた。
「だれかしら。まだ夜は明けてないのに」
 リビングの暖炉は火が消えており、明かりもなく暗かったことを思い出してフルダがキッチンから出て行く。クラウスも燭台を持ってフルダを追った。
「やあ、フルダ。クラウス。うまくいったかい」
 クラウスたちを出迎えたのは、どういうわけか陽気なアイヴィンだった。
「あなた、お酒飲んだわね?」
「君たちがちゃんと警吏に見つからないように、警吏を掴まえてたのさ。いや、うまくいってよかった。フルダが来てくれて助かったよ」
 よっぽど酔っているのか、礼替わりでフルダの前髪に軽くキスをしたアイヴィンに、フルダは勢いよく頬をはたいた。
「馬鹿! 私たちの気も知らないで!」
 アイヴィンに怒鳴りつけて、そしてそのまま、フルダは自分の部屋にこもってしまった。
「怒らせてしまったか。ああ、気持ち悪い。オーウェンのやつ、潰すのに量がかかった。水がほしい」
「うん、待ってて」
 そこまでして、あの女を牢から出したのはなぜなのか。フルダを怒らせてまで。それだけは、聞かないといけない気がする。クラウスは心に決めて、一杯の水を持ってリビングに戻った。
「ねえ、なんであの人を助けたの?」
「何って、夜の国について知ってる、唯一の人だからだよ。ティルはまじないを禁止している。だからまじない師はいない。あの人だけだ、まじないに通じているのは。浮浪の者としてティルに来て、捕まってしまったあの人だけだ」
 違う、聞きたい答えはそれじゃない、という顔をするクラウスを見て、水を飲みほしたアイヴィンは外套を脱ぎながら話をした。
「フルダの家を燃やしたのは、小人だからだよ。クラウス。君が夢で見た、小人。君の話で確信した。夜の国は本当にあって、フルダの家が小人に壊された。俺は見たんだ。小人を。フルダにそっくりな小人をな。この目で見たんだ。クラウスが信じてもらえない、夢だと言うように、俺も夢だと思った。でも、見たんだ」
 フルダの家が燃えているのを見て、愉快に笑っている少女。鮮明に覚えている。アイヴィンは少し、興奮しているのだろうか。うっすらと、笑みを浮かべていた。
「夜警の角笛に叩き起こされた俺は、炎が燃え移る危険があったからすぐに裏路地に逃げたんだ。そうしたら、いたんだ、そこに。ああ、六歳の少年が寝ぼけて夢を見たって思われてもいい。でも、俺は見たんだ。フルダの顔でフルダを笑う女の子をな。夜の国なんて、小人なんて、おとぎ話だ。フルダはそう言う。みんなそう言う。けど、俺は、この目を信じたし、今も信じてる」
「フルダに似た、女の子……、うん、ぼくも見た。あの女の子はフルダだったよ。図書館の本を焼いたのは。夢だって思ったけど、アイヴィンの話を聞いたら、やっぱり夢じゃなかったんだって、思えてきた」
 もしそうだとしたら、クラウスが感じたことに説明がついた。
 逃げ足が速く、何度も同じ道を使って森に逃げる放火犯。もし、アイヴィンが言うようにフルダの家を燃やした犯人がその子であるならば、図書館の件で三件目だ。逃げ足が速いはずである。
 ホームを燃やした時に聴いた女の笑い声も、東の門の前で見た少女と同じものである可能性が高くなった。もしあの子が門番を眠らせてティルに侵入したのであれば、あの門番が記憶違いを起こしているのも不思議ではなかった。
「俺は、フルダを笑うあいつが、今でも許せない。なぜ、フルダだけが、悲しい思いをしなければならないんだ。フルダの好きなものをすべて燃やすあいつが、許せないんだ。ああ、俺がすることじゃないのは分かる。俺はただのフルダの幼馴染。賢いフルダなら自分で解決できるはず。でも、見てしまったからには許せないんだよ。夜警になったのは、あいつを捕まえるためだけさ。これが終わったら、本当にしたいことが、別に山ほどあるんだ……」
 本当にしたいことが、別にある。そう言って、アイヴィンは机に伏せって眠ってしまった。
 マーオがアイヴィンの手から落ちた外套を咥え、クラウスに渡してきた。それをアイヴィンの肩にかけてやる。
「アイヴィン……」
 フルダが心配で夜警になってしまった。その言葉の裏を、クラウスは初めて知った。フルダは、それを知っているのだろうか。いや、知らないだろう。何も知らないと言っていたのだから。
 何年も、誰にも信じてもらえない話を信じて、アイヴィンは夜警として犯人を一人で追っていた。今になって、ようやく、その尻尾をつかめれそうなところまできている。だから、アイヴィンは少し興奮していたのだ。
 クラウスも、話を聞いて少しだけ胸がざわついている。
 これは、フルダに言うべきなのだろうか。それとも、もう少し、隠しておいたほうがいいのだろうか。悩んだ末に、クラウスはフルダの部屋のドアを叩き、静かに開けた。すると、ドアの前にはフルダが座っていた。
「私に教えようか教えまいか、悩んでたでしょ、今」
「うん」
「聞いたわ、全部。ドア越しに。私の心配なんて、しなくていいのに」
 クラウスを部屋に入れて、ドアを閉めた。
「私、アイヴィンが他にしたいことがあるっていうのは、薄々感じてたわ。剣が上手なら、お金がたっぷりもらえる市長お抱えの護衛団にでも入ったほうがましよ。夜警でいる必要がないの。この人。なんでもできるから。でも夜警をしてるの。なぜかしらって思ってたけれど……私のためだったのね」
「あまり、嬉しそうな顔してないよ」
「だって、私のためにアイヴィンの大切な時間を使わせてるのよ? 私のせいだわ……、全部、私のせい。ホームが燃えたのも、図書館が燃えたのも、全部……、アイヴィンの話が正しければ。あなたの話が正しければ。私がここにいなければ、こんなことにはならなかったのよ!」
 また、フルダの瞳から、大粒の涙が流れるのを、クラウスは見てしまった。
「違うよ。それは違うよ。フルダのせいじゃない。フルダを狙ってるやつが悪いんだ。ぼく、約束したよ、捕まえるって。アイヴィンもフルダに、きっと、笑ってほしくて、今は夜警をしてるんだ。フルダ、泣かないで。ぼく、フルダが泣いてると、苦しい」
 しゃっくりを上げるフルダの手を、クラウスはたまらなくなって握りしめた。すると、フルダも、クラウスの手を握り返し、声なく頷いた。
 眼鏡を取って、しきりに涙を涙を拭うが、しばらくそれは止まることはなかった。
 アイヴィンは、犯人が許せないと言ったが、それはクラウスも同じだった。なぜフルダがこんなに泣かなければならないのだろう。ここまでして、フルダを苦しめる理由が、クラウスには分からなかった。だから、余計に、許せなかった。
「ぼく、最初は自分のために夜警してたけど……、でも、今は、それだけじゃないよ。角笛は吹けないけど、でも、みんなのためにティルを守りたいし、フルダのことも守りたいって、思った。アイヴィンもそう思ってる。心配させたくないってフルダは言うけど、今は心配させてよ」
「ええ、ありがとう、クラウス……、アイヴィンも……。私、何度も思ったわ。あの時、パパとママと一緒に天国に行けばよかったって。私だけ生きている必要がないって。ホームが燃えた時も、パパとママの元に行けたらって、少し思ったの。でも、怖いの。怖くて、やっぱり、生きたいって思ったの。何があっても、もう泣かない。私、あなたとアイヴィンを信じるわ。もう泣かないから、あなたたちと一緒に捕まえたい」
「うん」
 最後の涙を拭って、フルダは眼鏡を再びかけた。
「やっぱり朝は好き。生きた心地がするから」
 腫れた目に少しだけ残る涙が、朝日に輝いていた。
(あ、フルダ、笑うと、綺麗だな……)
 眼鏡の奥で朝を迎えれたことに嬉しそうに微笑むフルダを見て、クラウスは、アイヴィンが本当にしたいことを後回しにしてもフルダのために夜警になった理由が少しだけ分かった気がした。

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