南十字星を目指して

「遥ちゃん、この日の夜、空いてる?」
 天文サークルの先輩である松山が、カレンダーをめくりあげ、ある日を指し示す。八月十日。ペルセウス座流星群が見頃を迎えている頃なのは知っている。
「観測会ですよね。空いてます。今年もするんですね」
「うん。まあ、このサークルの伝統みたいなもんだし、これをしないとサークルの存在意義もないしね」
 ウェーブのかかった亜麻色の髪をかきあげ、松山は溜息をついた。遥の一つ上で、大学三年生。四年生はいていないようなもので、実質サークルの長を務めている。松山、遥の他にあと五名が所属しているが、名簿に名前があるだけで、実質二人だけの活動になっている。
 大学に入学後、すぐにこのサークルにやってきた時も、部屋には松山しかいなかった。それからずっと二人で活動している。何らかの天体ショーがあれば、二人で望遠鏡を担いで見に行き、写真を撮るという地味な活動だった。今まで行った中で一番遠かったのは北海道である。国内で行けるところなら行こうというのが松山だった。
 ペルセウス座流星群観測会は花形といってもいい。附属小学校に招待状を送り、子供たちと共に流星を見るというだけの観測会ではあるのだが、外部の人間と共に活動するのはこれしかない。
 遥はこのサークルの観測会で星に目覚めた。だから思い入れがある。何があっても観測会には参加するつもりでいた。
 場所はこの大学の広場。何かあった時に責任が取れないので、屋上での観測はやらなくなった。
 前までは大学の先生と共同で企画していた行事だったはずなのだが、遥が高校生のうちにサークルの単独行事となってしまったようだ。続いているのならそれでいいとも思う。
 窓を開けた松山は溜息をついた。
 土砂降りの雨だ。七月に入って、降水量が増えている。じめじめの空気が部屋に入ってきた。一気に室温が上がったような気がして、身体を曲げて扇風機のスイッチを入れた。三つ編みが揺れる。
「七夕、今年も晴れないだろうなあ」
「催涙雨ともいいますし、晴れる確率のほうが実際低いですよ。50%切ってるはずです」
「そうだけどさ。ロマンを感じたいじゃん。というか遥ちゃん、ほんとそういう星の話に詳しいよね」
「ネタは多ければ多いほどいいです。観測会で話すことがなかったらつまらないので」
「確かに。私は写真にしか興味がないからなあ。遥ちゃんがいてくれて本当に助かる。教育学部じゃないのが不思議なくらい」
 あはは、と乾いた笑いが出る。
 確かに、子供と関わるのは苦手ではないと自分も思っている。だがそれは、観測会に来る子供たちが自分たちと同じく星が好きであるから成り立っているもので、そうじゃない子供に対しては何を話せばいいか分からない。
 一応、教職課程は取っているが、教員になるつもりは一ミリもなかった。
 松山はパソコンを立ち上げ、去年の観測会のチラシのデータを開いた。去年もお盆前に観測会を行っている。毎年同じ型を使っているから、デザインには大きな変更がない。変わるのは日付くらいだ。
 遥も、まったく似たようなチラシを中学生の頃に見た。
『今年はすごい! 皆既月食とペルセウス座流星群の夢の共演!』と仰々しく書かれたチラシである。その言葉はもちろん削除されているが、中央の流星のイラストは相変わらず変わっていなかった。
「先輩、成島誠司って人、知っていますか?」
「知らないけど、誰?」
「このサークルにいた人なんですけど。私が中学三年の時に、大学二年生だったらしいです。先輩ならギリ知ってるかなって思って」
「さあ、わかんないな。OBもめったに顔出さないし」
 彼女の言う通り、OBは全く顔を出さない。遥がこのサークルに入った理由は星の観測だけではなく、誠司がOBとして顔を出すのではないかという期待もあったからだ。だが、誠司どころか、他のOBも一度も見たことがない。
 松山なら名前だけなら知っているかと思って聞いてみたが、期待外れだった。
 代々受け継がれている名簿を遡ると、確かに誠司の名前はあった。工学部で学んでいたというところまでは分かったのだが、その後の進路については何も分からない。工学部にいたということは、星そのものではなく、光学の研究をしていたのだろうというところまでは考えることができた。
 それを知らなかった遥は、てっきり、理学部だと思って、理学部に進んだ。ずっと物理の勉強をしている。
 一度、工学部に進んだ附属出身の友人にも尋ねてみたのだが、誠司の存在は誰も知らなかった。
 知っていそうな人物は松山で最後だったが、五年も差があれば知らないのは当然のことだ。周辺の人物に尋ねるのはもう諦めた。
 あの時、天文サークルと共に観測会にいたおじさん先生は、一体どこの学部だったのだろう。理学部だと思っていたが、理学部の教員陣の中にあのおじさん先生はいなかった。
 誠司と同じ大学に進んだのに、まったく誠司のことを掴むことができない。五年の差は、思った以上に大きかった。
「できたっと。支援課に行ってそのままバイトに行くんだけど。遥ちゃんはどうする?」
 印刷機が動き始める。壁にかかっている時計を見ると、時刻は七時を迎えようとしていた。
「私も帰ります」
「じゃ、ここで解散。お疲れ様」
 松山を見送り、遥は傘をさしてキャンパス内を歩く。大粒の雨が傘を打ち付ける。足はすぐに濡れた。スカートにサンダルという格好をしていて良かったと思う。
 理学部と人文、教育、工学部は一本の太い道路で隔てられている。門から出て横断歩道を渡れば、すぐ食堂に行くことができる。もうこの時間だし、一人で食べて帰ろうかなと思って食堂に向かった。
 すると、食堂の入口から遥に向かって手を振る人物に気付く。
「遥じゃん! めっちゃ久しぶり!」
「花澄!」
 傘を畳んで、小走りで階段を上がった。
 花澄と会うのは三年ぶりだ。それぞれ、進む高校が別だった。遥はそのまま附属の高校に上がったが、花澄は別の私立に通っていた。SNSで連絡はたまにしていたのだが、会うことは一度もなかった。
「どうして」
「どうしても何も、この大学に戻ってきただけだよ。高校でしたいことはできたしさ」
 腕を動かす。その動作は、トロンボーンを表現していた。
 甲子園で応援がしたい、というのが理由だった。それは遥も知っている。強い野球部があるところを選んでいて、一度は甲子園での応援ができたというのも知っている。
「同じ大学なの、教えてくれてもよかったのに」
「いつか会えるって思ってたし、びっくりさせようと思ってたんだよ。ごめんごめん」
「びっくりはしたよ」
 せっかくなので、一緒に食堂で食べることになった。花澄もサークルが終わったばかりなのだという。
「結局、花澄はどの学部にいるの」
「人文。高校も英語枠で入ったし、ずっと英語やってる。遥は理学でしょ。そのくらい分かるよ」
「あれ? 言ったっけ」
「新聞で見たよ、写真コンテスト。木上遥って名前、ばっちり見た」
 高校時代、一度だけコンテストに星の写真を送った。天文台と新聞社が開催した星のコンテストである。父親にカメラを借りて、海まで行って撮ったものだ。
 タイトルは『北十字から見えない南十字を追って』だった。南の方角にカメラを向け、水平線の下にある十字を撮るような形でシャッターを切った。それも八月で、天の川は南にあった。海に注ぎ込むような形の天の川が評価され、新聞社賞が与えられた。
「すっかりハマってるんだなあって思った」
「その通りです……はい……」
「てか、まだ三つ編みなんだね」
「私のトレードマークだから。誠司さんが気付いてくれるかなって」
「それもまだ諦めてなかったんだ」
「うん」
「一途だねえ」
 花澄には、誠司のことは中学時代の頃から話している。彼氏を作らないのかという話になった時に、面倒くさくて、会いたい人がいるのだと教えたのだ。
 一方的な片思いではあるが、諦めるつもりはなかった。
「だって、ほんとに、かっこよかったし。優しかったし」
「知ってる知ってる。手がかりは?」
「ない」
「難しいね」
 その通り、難しいのだ。なんせ、五年も差があるから。この差が四年、三年くらいなら、まだ追いかけることができたかもしれないが、五年にもなると大きな差になってくる。
 どうにかして彼の進んだ先を知りたいのだが、知っている人は誰もいない。
 記憶の中の誠司も、徐々に美化されているような気がしている。思い出補正というものだ。だが、あの時のときめきは、確かなものだ。それだけは自信がある。
 花澄と他愛のない話をしていると、静かな曲が流れ始めた。そろそろ閉店の時間だ。
 食器を返却して、帰ろうというときに、花澄は食堂の入口で足を止めた。
 ポスターやチラシが置かれてあるスペースに、七夕の笹が置いてある。ボックスの中には短冊とペンがあった。ぶら下がっている短冊は多く、様々な学生が思い思いに願い事を書いていた。
 就活がうまくいきますように、単位が足りますように、落単しませんように。そういう学生ならではの願い事に加えて、彼女、彼氏がほしい、合コン行きたいといった恋愛に関することもある。
 七夕の願い事は、上達を願うものがいいとされているのだが、そういったことは忘れられているようだ。
「遥、書こうよ」
「書くことないよ」
「誠司さんのことでいいじゃん。匿名でさ」
 ペンと短冊を渡される。本当に久しぶりに七夕の短冊を書く。幼稚園の頃に書いたのが最後の記憶だ。
『会いたい人に会えますように』と、かなりぼかして書いた。一方、花澄は『海外に行きたい』と書いている。そっちのほうが叶うのは早そうだ。
 笹にぶら下げ、そこで花澄と別れた。
 結局、この年の七夕も雨だった。警報級の雨で、七夕の雰囲気を楽しむような空気ではなかった。近年になってよく聞くようになった線状降水帯という言葉がテレビから聞こえてきた。どうやらその範囲にいるらしい。外からひどい雨の音が聞こえてくる。
 七夕とはそういうものだ。晴れる確率は五割以下。数年前に発生した大規模な豪雨災害も七夕の日だった。
 もし、天の神様が願い事を把握しているのなら、自分の願い事は後回しでもいいから、被害が出ないことを願った。
 織姫と彦星は、地球上で発生している災害のことなど知りもしないのだろう。自分たちの年に一度の逢瀬を楽しんでいるに違いない。

 観測会は例年、十人ほどが参加してくれる。集合時間は決めておらず、解散時間も自由。ちらほらと保護者と一緒に星を見に来て、満足した人から帰るというゆるい観測会だ。松山と遥だけでも対応ができた。
 一人だけ、星座に興味を持つ子供がいた。小学四年生の女の子だった。プラネタリウムにもよく行っていて、星座の話を聞いているのだと話していた。だが、自分一人では、実際の空で星を結ぶことができない。理科の教科書にカシオペヤ座の観察があることを知り、星座の見つけ方を教えてほしいと頼まれる。手には星座早見盤があった。
 八月のカシオペヤ座は低い位置にある。北側にある大学の建物が邪魔をしていて見えなかった。
 カシオペヤ座は分かりやすいW字だから、方角さえ間違えなければ分かるから心配しないでいいことを伝え、代わりに夏の大三角を結ぶ。
 毎年、必ず一回はこうやって夏の大三角を結ぶ。
 誠司に教えてもらったのと同じ順番で。
「あの一番強く光って見えているのがこと座のベガ。それから天の川……ここだと天の川は見えないんだけど、川の反対にあるのはわし座のアルタイル。織姫と彦星で有名な星だよ」
「はくちょう座は?」
「あっち。ほら。もう一つ明るい星があるでしょ」
 あったあった、と嬉しそうに声を上げる少女を見ていると、過去の自分を見ているような感覚に陥った。
 そこまで感情を出していたわけではないが、彼女が抱いている感動と、自分がかつて抱いた感動は、似たようなものではないだろうか。
 今まで見えていなかったもの、見つけられなかったものが見えた時の喜びは、とてつもなく大きなものだ。
「天の川って明るいと見えないの?」
「うん。実は天の川は暗い星が集まってできているから、電気の光に負けてしまうんだよ。明かりの少ないところに行くと、はっきり見えるようになるんだけど」
「そうなんだ。明日からキャンプに行くから、その時見てみる」
「ぜひ。他にも、日本では見ることができない星座があるんだよ。南十字星っていって……」
 どうしてその話を少女にしたのかは分からない。聞かれてもいないことをべらべらと喋っていて、恥ずかしくなってきた。幸いにも少女は興味深そうに聞いてくれたのだが。
 見に行きたいかと聞かれた。遥は、そうだね、とはにかんだ。見に行きたいという気持ちは中学生の頃からずっとある。誠司に教えてもらった星を、いつか見たいと思っていた。
 流れ星に願ったら叶うかもね、と少女は言う。今日はペルセウス座流星群でたくさん流れるから、願い放題だよと。
 ちらほらと流れる流星を見るたび、誠司はどこにいるのだろうと思う。この時の遥はまだその迷信を軽く信じることができた。頭上を流れる星に、いつか、もう一度会えますようにと願う。
 その少女を最後にして、観測会はお開きになった。
 望遠鏡の片付けをしていると、松山が肩を軽く叩いてくる。
「お疲れ様。やっぱり、遥ちゃん、話するの上手いね。私じゃ教えられないわ」
 どう星を綺麗に撮るかを常に考えている松山は、写真の知識はあるのだが星に関する知識は乏しい。今日もしきりにシャッターを切っていた。観測というより、撮影をしに来ていたのだろう。
「南十字星は知ってるよ。写真、見たことある。めっちゃ綺麗だよね。いいなー、行きたい、ハワイ。英語はできないけど。やっぱり日本人の星マニアなら憧れるよね。写真マニアも憧れるわ」
「ハワイの観光地は日本語がある程度通じるとは聞きますけどね」
「あ、そうなの? じゃあ行っちゃおうかな」
「サークルでですか?」
「うーん。さすがに国外はどうだろ」
 あ、と思った。
 松山には付き合っている彼氏がいる。どうせ行くのなら、遥より彼氏と行ったほうが楽しいに決まっている。なんせハワイはリゾート地だ。
 言葉を濁したのは、彼氏と行きたいという気持ちがあるからだろう。さすがに、ぜひサークルで、とは言えなかった。
「もし行くなら、感想聞かせてください」
 望遠鏡をしまったバッグを肩に提げ、遥は一人でサークルの部屋に戻った。
2/6ページ
スキ