2章 アルルと錬金と魔法の大きな船

 ハルゲナ海は穏やかな海らしい。大陸に抱かれているから、波が低いのだとマルクは馬を走らせながら教えてくれた。
 背が高くて、葉が広い木が生えている。王都では見られない木だった。夜を告げようとしているのか、海鳥が静かに鳴いていた。
 日はすっかり沈み、海も群青よりも深く、暗い青に染まっている。大陸と同じ形の月が空に浮かんでいた。辺りに街でもあるのかと思っていたけれど、周辺に光はなかった。人もいない。
 左手に広がる海に沿って、西に向かって進んでいく。ティレルは何一つ文句を言わず足を動かしていた。本当にとてもいい子。
 この辺りに目的地があると思っていたのだけれど、到着はまだみたい。
「どこに向かっているの? そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
 振り返って、マルクの顔を見る。ずっと遠くを見据えているような目を見て、ちょっとだけ怖くなってしまった。何を考えているのか分からないんだもの。自分のこと何も教えてくれないし。
「教えたとしても、アルルは分からないだろ」
 ……こんないじわるなことを言ってくるし。まあ、もっともなのだけれど。
 お金がないから、夜通し走り続けることになるのだろうか。
 潮風に晒されていると少し冷えてきた。ショールは肩にかけているけれど、それでも寒い。くしゅんと小さなくしゃみをしてしまう。
 すると、ティレルの足が止まって、上から何かを被せられた。
「え、わっ、何!?」
 ぽすんと顔を出し、振り返ると、マルクの顔がすぐ近くにあって、私は驚いてしまった。
「落ちるぞ」
 ぐっと抱きしめられる。私、マルクのマントの中にいた。寒そうにしていたから、被せてくれたようだった。
 あたたかい……けれど、恥ずかしさで体が火照っているだけかもしれない。
 もう、分からない、この人が。いじわるな時と、優しい時がある。この前だって、小さな怪我なのに大げさに包帯を巻いてくれたし。
 なぜ白銀の魔法を必要としているのかも分からないけれど、一番分からないのは、この人の人間性なのかもしれない。
 でも、こういう優しいところがあるから、完全に怪しいヤツとは思えない。テオ先生だって「私を待っている人がいる」と言っていたのだ。それはマルクのことだってすぐに思ったのだ。
 マルクのマントの中で、温かさを感じていると、ちょっとうとうととしてきた。
 そんな私に、話しかけてくる。
「まだケツは大丈夫か」
「けっ……、げ、下品なこと言わないでくれる!?」
「大丈夫そうだな」
 からっと笑って、ティレルを走らせる。マルクのマントの中はどんなに冷たい風が吹こうが暖かかった。
「このまま国境に向かって進む。もう少し頑張ってくれ」
 私に言ったのか、ティレルに言ったのか。分からなかったけれど、なんとなく目的地を告げてくれた。
 国境。王都からだいぶ離れてしまった。そんな国の端に”この世でいちばん賢い者たち”がいるとは私には思えなかった。能力が優れた人はお父様がお城に招くことがよくあったからだ。
 眠かったら寝てていいと言われたけれど、マルクに支えられながら眠るのもなんだか恥ずかしかったから、頑張って耐えた。
 途中、木の下で野宿している大人の男女の旅人がいたので、私たちもそこで休むことになった。焚き火をしていて、二人はお茶を飲んでいた。
 マルクのマントから出て、ティレルから降りて、二人に挨拶をする。一緒に休ませてほしいとマルクがお願いをすると、快く受け入れてくれた。
 ショールを肩にかけたままだったから、女の人が私の髪色に気付いて「あら?」と首をかしげる。さり気なくショールを頭にかけて髪を隠す。
 王女であることが煩わしい。城の外に出ても、私には王女という身分がつきまとう。なんとなく、いつか自分はこの国の女王となって、国を引っ張っていかなくちゃいけないのは分かっているけれど、今だけは、普通の女の子でいたかった。
 ゆらめく火を見ていると、男の人が枯れ木を火の中に入れた。
「錬金術は使わないの?」
 私が聞くと、男の人は、頷いた。喋ってくれなかった。寡黙な人なのかもしれない。
「使わないの。不便を楽しみたくて旅をしているのよ、私たち」
 代わりに女の人が教えてくれた。
 あえて錬金術を使わない人なんて、初めて見たかもしれない。錬金術大国とも言われるこのグランベル王国に、そんな人がいたなんて。
 もし私が王女だと知られていたら、きっと、「錬金術を使わない」なんて言わなかっただろう。
 確かに旅は不便だった。徒歩は疲れるし、快適な旅をしようと思うとお金がいるし。でも、それもまるまるひっくるめて楽しみたいっていう気持ちは素敵だと思う。
「失礼ですが、あなた方は夫婦ですか?」
 マルクが尋ねると、女の人はすぐに頷いた。二人の関係が分かってすぐ、マルクは邪魔をしてしまったと謝った。でも、女の人も、男の人も、首を横に振った。
「旅は道連れ世は情け。気にしないで。私たちもそうやって旅をしてきたから。いい出会いに乾杯」
 木製のカップを渡され、中にとぽとぽとお茶が注がれる。香ばしさの中に、ふんわりと優しい花の香りがした。おいしいハーブティーだった。
 ティレルはもう横になって眠っていたし、男の人も火を見ながらもうとうととしていた。
 気持ちが安らいで、私はそのまま眠ってしまう。
 マルクの体に寄りかかっていたみたいで、朝、起きてすぐにのけぞってしまった。
 朝食も用意してもらった。保存用の硬いパンをポタージュに浸して食べる。こんな食べ方、城では絶対にさせてもらえない。幼い頃、焼き立ての柔らかいパンをスープに浸して食べたことがあったけれど、はしたないと怒られてしまって、それからやってない。お母様は笑って許してくれたけれど、エステル先生もお父様も許してくれなかった。王女はそんなことしないって。
 夫婦は私のこと、もしかしたら王女って分かっていたのかもしれない。でも、二人とも、私を特別扱いしなかった。旅する友達。そのように接してくれて、嬉しかった。
 これからも、きっと、こういう出会いをしていくのだろう。していきたい。私、本当にこの世界のこと、何も知らない。勉強をしていたら、ある程度は詳しくなっているかもしれないけれど、本の中にはないものだってあるはず。
「出会えて良かった。いい旅を」
 夫婦はそう言って、私たちとは真逆の東に向かって進んでいった。
 夫婦と別れて、また私たちはティレルと一緒に海沿いを走って西へ向かっていく。
 風景は次第に、緑から茶褐色へと変わっていった。木々は枯れ、茶色の草がぽつぽつと生えているような場所だった。
 ごつごつとした岩に囲まれている場所。むき出しの茶褐色の岩肌に潮風がぶつかっている。
 乾燥していて、砂埃が立っていた。
 マルクは私をティレルから降ろし、ここから歩きだと告げた。ティレルの体を二、三度ほど撫でて「おかえり」と囁くと、頷いて来た道をゆっくりと戻っていった。その背中に、私もありがとうと声をかけておいた。
 ここまでずっと私たちを運んでくれたティレルともお別れ。今日は二つのお別れをした。なんだか寂しい。これからも出会いと別れを繰り返していくんだろう。
 お別れが済んで、マルクは「さて」と腰に手を当てた。
「オレゴの谷」
「谷?」
「おいおい、そんなことも知らないのかよ。山と山の間にあるくぼんだ所のことを言うんだよ。ここはオレゴの谷。”この世でいちばん賢い者たち”が住んでいる。でも、賢いから、神経質で臆病で、隠れるのも得意でさ。これからその種族たちを見つけなければならない」
 私はもう一度、谷を見る。
 風が静かに吹き抜けるだけで、誰かが住んでいるなんて思えない。
「本当にこんなところに人が住んでるの?」
「人?」
 え、何。マルクの反応に私は違和感を覚える。
 マルクは私をからかうように笑った。
「人とは言ってないけど?」
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