2章 アルルと錬金と魔法の大きな船

 人とは言っていない――ということは、これから会おうとしているのは、人じゃない何かということだろうか。
 私はエステル先生に教えてもらった話を思い出した。
 グランベル王国には、かつて、魔法生物がいた。大きなものから、小さきものまで。いた、というのは過去形で、今はすっかり見なくなってしまったということ。
 その魔法生物に今から会おうとしているのかしら。
 私は思い切って、マルクに聞いてみることにした。
「人以外の、魔法の生き物ってことなの?」
「まあ、そうなるな」
 何かを探すかのように岩肌を叩きながら、マルクは軽い調子で答えた。さも当たり前かのように言うものだから、私は驚いた。
「で、でも。昔の話じゃないの?」
「誰がそんなふうに言った?」
「エステル先生。城の学者で、私とお父様の教育を担当しているわ。今はもう――」
「そんなわけないだろ。確かに、山脈の魔力は弱っている。だから白銀の魔法も、使い手も減ったし、新たな魔法の生き物たちも生まれにくくなった。でも、滅んではいない」
 テオ先生も、お母様も、自らの魔法の力が弱いことを嘆いていた。そして、白銀の魔法の使い手は、テオ先生とお母様しかいない。そのテオ先生も魔法はほぼ使えず、占いが精一杯の状態。
 それって、お母様やテオ先生のせいじゃなくて、もともと山脈の魔力が弱っていたからってことなのかしら。
「どうして言い切れるの。なんでマルクはそんなこと知っているの?」
 それは、とても純粋な質問だった。
「もうちょっと、マルクのこと、教えてくれたっていいじゃない。どうしてマルクは城に白銀の魔法を求めてやってきたの? どこで知ったの? テオ先生、言ってたわ。マルク、自分のこと教えようとしないって。でも、一緒に旅してるのだから、ちょっとくらい――」
 そこで、マルクは軽く舌打ちした。
「お前のところの白銀の魔法使いは、人のことを勝手に見るのか」
「でも、私には教えてくれなかった」
「それもめんどくせえな……知ってるってことか」
 左手で前髪をわしゃわしゃとかき乱し、マルクは大きな溜息をついた。
 言おうか、言わまいか、悩んでいるようだった。右手は岩肌をしきりに叩いている。私、聞いたらいけないことを聞いてしまったのかもしれない。慌てて、素直に、ごめんなさいって謝った。
「……別に教えてくれないのなら、いいわ。あなたが魔法についてちょっと物知りってことが分かればいいから。それに、マルクがいないと私、旅できないし。無理に聞かない」
 ここで喧嘩はしたくなかったし、マルクとの今の関係は壊したくなかった。
 知りたいけれど、無理矢理知ろうとしたらいけないことだってあるんだ。マルクには、知られたくない領域があって、私はまだそこに足を踏み入れることができない。
「いつか、教えてくれたらいい。そのいつかは、来なくてもいい」
「ああ、そうしてくれ」
 ほっとした声だった。よっぽど、知られたくないことがあるんだわ。
 ――私にだって、そういうのはあるかもしれない。
 例えば、昨日、マルクのマントの中に入れさせてもらった時、すごくドキドキしてしまったこととか。別に、マルクのことが特別好きってわけじゃないわ。こんな何も分かってない人のことを好きになるほうがおかしいもの。でも、ドキドキした。このよく分からない感情は、自分でも分別できない感情は、まだ誰にも知られたくないかもしれない。
 マルクがフードを取らないのも、きっと、あまり顔を見られたくないから。何か隠したいことがあるからそうしている気がする。マルクがそうしたいと思っているのなら、私はそれを尊重したい。
 あの時、テオ先生がマルクのことを分かっていながら教えようとしなかった理由がなんとなく分かったかも。人を敬うって、きっと、こういうことを言うのだわ。大切なところに触れていいのは、認められた時だけ。
 そのようなことを思いながらマルクの後をついていく。マルクはしきりに岩を叩いていた。
「お前も岩を叩いて歩け」
「え、なんで?」
「隠し扉を見つけないと。あいつら、臆病者でさ。賢いから、賢いだけ、知ってるんだ。この世界が恐ろしいってこと」
 世界が恐ろしい――?
「怖い? そうかしら」
 あんなに綺麗な海を見て、あんなにのどかな平原を走って、いい出会いと別れがあって。私はここまでずっと、きらきらした時間を過ごしてきた。だから、世界が恐ろしいだなんて感情はない。
 もちろん、あの地下であったことは怖かったし、お父様やエステル先生、テオ先生の悲しみも知っていて、綺麗なことばかりじゃないって思うけれど。
「そうだよ。山脈だって悪しきものを産む。いいものと悪いもの、どちらもある。常に牙を向いてくるのは、悪いほうだ」
 それを知っているのは、賢い者たちだけ。
 マルクはぼそりと小さく呟いた。何かを後悔しているような――何も知らなかった自分を呪うかのような、そんな声だった。
「私、勉強を全くしてこなくて、この国のこと何も知らなかったけど、知って良かったって思うことの方が多いわ」
「今はな。そう、今は。そのくらいが丁度いい。けど、これから会う奴らは、そのいい感じに愚かになれるところを越えてしまった。だから、この潮風で枯れた地に、隠れて住んでいる。ほら、探せ。音が変わる所があるはずだ」
 マルクに促され、私はマルクとは反対の岩壁を叩いて歩いた。
 オレゴの谷は、とても静かで、寂しい場所だった。潮風に晒されて枯れた草木がサラサラと砂埃の中で音を立てている。壁の音も、乾いていて、無機質な感じがした。
 二人で黙って岩壁を叩き続けていると、ふと、何か軽いものを叩いたような感覚がした。
 私は気になって、足を止めてもう一度叩く。薄い何かを叩いているような感じ。
 もう少し戻って別の場所を叩いてみる。重たくて、中がぎっしり詰まったようなものを叩いているような感じがして、やっぱり違いを感じた。
「マルク」
 呼ぶと、マルクは私が指し示した場所を叩いて頷いた。
 でも、中への入り方が分からない。どこかに取手やドアノブがあるわけではない。
 そんななか、マルクは岩を複雑なリズムで叩いた。適当に叩いたわけではない。叩き終わると、目の前にぽっかりと黒い穴があいた。地下に続く階段がある。
「……なんで知ってるの?」
「まあ、それも、追々」
 教えてくれない。でも、追々ってことは、いつか教えてくれるってことだろう。
 そんな期待をしながら、私は穴の中を見る。城の地下を思い出して、ぞっと身を震わせた。この下にも、何か怖いものがありそうな気がして、一歩踏み出せなかった。
「大丈夫、この下にはお前より臆病な奴らしかいないから」
 からかうように笑いながら、マルクが先に階段を降りていく。
「な……っ、馬鹿にしないで!」
 私のこの叫びは、地下に響いたかもしれない。下にいるその”臆病な奴ら”を脅かしてしまってなんだか申し訳ないなと思いながら、マルクの後をついていった。
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