あの時から私は待ってと言いたかった

「医療技術はこれからどんどん上がっていくし、やりがいがあるって思ったんです」
 柳原には、そう答えた。面接で語ったものと同じ内容である。
 結局、追いつくことはできなかった。希望していた技術部には入れなかった。青森は技術部にいると知っていたから、技術部を希望していたのだが。
 本当は、待って、と言いたかった。
 せめて、青森の数歩後ろまで行きたかった。
 学生の頃は何をしていたのかと聞かれ、返答に困った。柳原はかなりプライベートに足を突っ込んでくるタイプで、それは苦手だった。
 高野も結局、トランペットはやめた。サークルには入らず、友人と適当に遊び、あとは青森を追いかけるための勉強をしていた。これでは面白い話にはならない。
 サワーの苦味を感じながら、高野はうっすらと笑みを浮かべた。自嘲である。
「どうしようもない、長い片思いしてました」
「高野さんってそういうキャラなの? 意外。二次会で話聞かせてよ」
 一次会が終わり、ほぼ強制の二次会に行くことになった。中には一次会で抜ける人もいたが、それはベテランの先輩が多く、新人は流されるまま二次会に行った。高野も柳原に捕まって抜けることはできなかった。
 二次会の会場は、一次会に近いおしゃれなバーだった。静かに話がしたいと言われ、柳原と二人席に座った。
 酒が入り、自分のつまらない片思い話を柳原にしてしまった。
 この会社に入ったことは後悔していないし、柳原に話したことも後悔はしていない。柳原は最初から最後まで、茶化さずに聞いてくれた。思ったよりも、ずっといい先輩だった。こんなにいい先輩は、他のどの会社、どの部署にもいないだろうと思うくらいだった。
 不純な動機で気分を悪くさせるかと思ったが、柳原は最後まで聞いたところで、こう呟いた。
「わかる……、一緒になりたいって、思うよね」
 結露したグラスを持ち上げ、一口飲んだ。柳原が頼んでいたのはブルームーンだった。高野も合わせて同じものを頼んでいた。
 大人すぎる味がした。花の香りが鼻に抜けていく。この花がスミレであることを柳原に教えてもらって初めて知った。
 溜息をついた柳原も、自分に似たような恋をしたのだろうか。その柳原の遠くを見つめる視線は、どこか青森に似ていると思った。
 自分も、遠い過去の記憶を、カクテルの青の奥に見た。恋に盲目だった、青々しい自分が、溺れていた。ここにきて、ようやく目が覚めたような気がする。
「青森さんかあ」
「知ってますか」
「ううん。技術部って、全然縁がないんだあ。あ、でも、今日、技術部も歓迎会を別の場所でやってるって聞いた」
 もしかしたら駅で逢えるかもね、と柳原は言いながら腕時計を見た。
 あっ、と声が出る。
「高野さんの乗る電車、そろそろ終電じゃない?」
 言われて、自分も時計を見る。
 いつの間にか、人数が減っている。終電の時間が近づいていることに気がついて、先に店を出たのだろう。
 柳原はもう少し飲んで帰りたいというので、一人で店を出ることになった。走らないともう間に合わない。だが、カクテルの度数が高く、酔っていて、走れなかった。
 地下に入り、改札を抜け、ホームに着いたところで、電車は発車してしまった。終電を逃してしまい、呆然とする。
 何にも追いつかない。追いつけない。それが自分の今までの人生だった。
 どっと疲れが出て、ホームのベンチに腰を下ろした。自分と同じように終電を逃し、次の居場所へ向かいはじめる人がいた。
 溜息をつき、背もたれに身を預け、瞼を閉じた。
 誰かが横に座った。僅かにビールのにおいがした。もう電車は来ないのに、誰だろう。そう思って、視線を横に移す。
 長い前髪、どこか遠くを見つめている目、涼しい顔――青森だった。
「あ、」
 驚きで、それ以外の声が出てこなかった。
 青森は高野を見て、にこ、と笑んだ。涼しい顔をしているが、酒が入っていて、その笑みはどこか柔らかかった。
 大学で遠くから見ていた青森は、また少し、大人になっていた。柳原と同じように、社会の全てを知っているかのような男になっていた。井の中の蛙のままでいたい、と言っていた青森ではない。
「高野さん、元気?」
「あ、えと……、元気です」
 どうしてここにいるのかと聞けばいいのに、聞けなかった。
 ここにきて怖気づいている自分がいた。だが、自分が何を思っているのかは、青森は悟っているようだった。
「ちょっとだけ、待ってみようかなって、思ったんだよ」
「何をですか」
「高野さん」
 事業部が技術部とは別のところで会を開いていることを、青森も聞いていた。二次会で落ち合おうかなんていう話も出ていたという。技術部は男性が多い。女性を求めてそういう話をすることがよくあるらしい。結局、事業部も技術部もそれぞれで終わらせてしまったが。
 今まで待ってくれなかった青森から待っていたと言われ、顔がかっとなった。
「気持ち悪いですよね。ずっと追いかけてたなんて」
「高野さんなら、いつか追いつくって思ってた。部署が違ったのは残念だったけど」
 実力不足だ、いつも。トランペットの技術も、工学の技術も。青森のほうがずっと優れている。一生追いつけない。スペックが違う。青森なら簡単にできてしまうことは、自分にはできないのだから。努力しても、追いつけないものは、あるのだ。
 それが分かっただけ、自分も大人になり、視野が広がったのかもしれない。
「もう青森さんを追いかける元気まで、ないかもしれません」
 諦めようと思った。鞄を抱きしめ、立ち上がろうとした時だった。
 青森が高野の右腕を握った。
「だから、ここで待ってたんだってば」
 トランペットのバルブをしきりにぱすぱすと押さえていた細い指が、高野の腕を強く握りしめていた。
「終電逃して良かったんですか」
「待つって、そういうことじゃないの?」
 青森の視線は、どこか果てしなく遠いところではなく、高野にあった。
「待つ余裕が、僕にもできたんだ。待ってたよ、高野さん」
 あの切ない恋を歌っていた青森は、一体誰に恋をしていたのだろう。
 またあの時みたいに、また盲目になって、この人を追いかけてもいいのか。
 腕を握りしめられたまま、高野は顔を歪めて言った。
「待ってって、ずっと、言いたかったです――」
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