あの時から私は待ってと言いたかった

「高野さん、ちゃんと飲んでる?」
 ビールのグラスを持って隣に座ったのは、高野の教育担当の柳原だった。ほろ酔いで染まっている頬が近寄せられる。栗色のウェーブのかかった髪から、いい香りがしてくる。
 大人だ、と思った。飲み会でこうやって、慣れたように席を移動し、話しかけてくるところも。社会の仕組みの全てを知っているかのような先輩だった。
 新卒採用で東京にある大手の医療系精密機械メーカーに就職した高野は、まだ堅苦しいスーツに身を包んでいた。髪も黒染めしてからは染めておらず、うなじで真面目に一本に結っている。この姿でいると部署の先輩方に若いだのぴかぴかだのと褒めそやされるが、本当は早くこんな堅苦しいスーツなど脱ぎ捨てたかった。趣味でもない。
 学生の頃は明るい色に髪を染め、おしゃれだって楽しんでいた。柳原みたいにもう少しゆったりとして、垢抜けたようなファッションをしたかったが、それももう少しの辛抱だろう。縮こまって酒を飲む飲み会も、これから先減ってくるはずだ。今日は高野のいる部署の歓迎会だった。
「あ、はい、飲んでます」
「それはよかった。どう、仕事、楽しいかな」
「あ、はい。柳原さんが丁寧に教えてくれるので」
 愛想笑いをして、ビールを口に含む。学生の頃は友人と羽目を外して何杯も飲んできた酒なのに、今日はあまり進まない。もう少し飲みやすいものが良かった。サワーを注文する。
「それはよかった。高野さん、技術部希望って聞いてたからさ。まさか事業部になるとは思ってなかったでしょ」
 ビールが気管に入って噎せた。柳原が慌てて背中を擦ってくる。もうそんな話が部署内に回っていたのかと知って、恐ろしいなと思った。
 確かに面接の時はそう言った。高野は学生の頃は工学を学んできたし、これからも工学に携わりたいと思って、その旨をはっきりと伝えていたのだ。採用が決まった時も、自分の学んできたものが認められたからだと勘違いしていた。蓋を開けてみればそれとは関係ない事業部で肩を落とした。
「ごめんごめん、でも、他のいいところだってあったはずなのに」
 もっともだ。他にもいくつか評判のいい会社の内定をもらっていた。だが、この会社以外の場所に落ち着くことは、ありえなかった。本命はここだった。そう当たり障りのない返事をすると、柳原がぐっと身を寄せてくる。
「そんなにここが良かったの? 工学出身とは聞いてるけど」
 届いたサワーを受け取って、はじける泡を見つめた。
 柳原の問いに、高野の意識は、酸味と苦味のする高校時代に遡った。
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