明日もどこかで誰かが

 もう名前は忘れてしまったけれど、小学生の頃、いっとき親しかった子がいる。
 教室に上がれなくなった時があって、その時に保健室で仲良くしていた子だった。あの子は私より一つ上の六年生の子で、ちょっと不思議な空気を纏ってはいたけれど、とても優しかった。
 担任の先生から朝一にもらった課題をさっさと保健室で済ませて、あとは自由に過ごしていた。図書室で本を読むのも自由だったし、外に遊びに行くのも自由だった。保健室の先生が、そういう方針だった。担任の先生的には早く教室に上がってきてほしかったのだろうが、その生活が気に入って、私は半年くらい保健室で過ごしていた。
 保健室に通い始めて一ヶ月くらい経った頃の話だ。
 私たちは体育館の裏側で遊んでいた。遊ぶというより、雑談をしていた、のほうが正しいかもしれない。雑草をぶちぶちと抜きながら適当に喋っていた。他愛のない話だ。親のここが嫌だとか、昨日食べた夕食のあれがまずかったとか、そういう話。
 ふと、目の前にあるプールを見ると、水面に何かが浮いていた。秋だったから、落ち葉だろうと私は思った。それを言うと、あの子は首を横に振った。
「違うよ、あれ、おばけ」
「えっ」
 高学年にもなって、おばけというものを信じているんだ、とその時は思った。
「あれは水面からおばけが手を出してるの。誰もプールに行かないから、のんびりしてるんだよ」
「ふうん……」
 あの子の纏っている不思議な雰囲気のせいか、私はすぐ、その話を信じた。
 それから、あの子は、何かを見つけるたびに、おばけだと言った。あれはおばけだと。遠くにあるものを指さしながら、どんなおばけなのか教えてくれた。
 遠くの山の中にあった一本だけ枯れている木は悪魔の木だったし、不思議な雲はどれも天使のいたずらだった。
 きっとあの子は、想像力と語彙力が豊かで、そういう話を作るのが得意だったのだろう――と今なら思うが、当時の私は、それを面白く思っていたし、わりと信じていた。そういうお年頃だった。きっとあの子もだ。そういう話を語るのが好きなお年頃だったのだ。だって、読んでいた本が、ほとんど怪談系のものだったから。
 あの子は春、小学校を卒業した。受験をした話は本人から直接聞いたわけではないが、私立の中学校に通っていたそうだ。私が中学校に上がった時、あの子はいなかったから。
 話し相手を失った私は、あの子がくれたたくさんの話を持って教室に上がった。両親も、担任の先生も、たいそう喜んだ。
 つまらない時間、あの子がくれた話を思い出しながら、ずっと窓の外を見ていた。中学校に上がってから、次第に生きることで精一杯になってきて、あの子の話をすっかり忘れてしまった。

 今になってそれを思い出したのは、あの子の姿を見かけたからだ。田舎町にある唯一のカフェにあの子はいた。何も変わっていなかった。あの不思議な雰囲気も。
 なんだか懐かしくなってしまい、席を移動してあの子に声をかけた。
 お久しぶり、だけでは分かってもらえなかったから、保健室で一緒だった、と言うと、ようやく思い出してくれた。あの子の記憶の中にちゃんと私が残っていて嬉しい。
 他愛のない話をした。最近何をしているのか、とか、あれからどうしていたのか、とか。
「ね、あの時さ。たくさんおばけの話したでしょ」
「ああ、うん。そうね」
「あれって結局、作り話だったの?」
 もう今なら許されるだろうと思って話を切り出した。
「あの話、けっこう面白くて、好きだったな」
「作り話っちゃ作り話だけど、私にとってはほんとのことだったりする」
「えっ」
 コーヒーカップを両手で包んだその子は、少しだけ悲しそうな目をした。
「霊感はないよ、もちろんね。もうそんな話、信じる年齢でもなくなった。でも、私はほら。想像力があるでしょ。だから、なんでもないものが、それに見えちゃうわけ。一瞬だけね。ちゃんと考えれば、分かる。でもその一瞬が、すごく怖い。あなたに語っていたのは、面白いものだけ。でも、私に見えるもののほとんどは、怖いものが多い」
「なるほどね……」
 私たちはそれからすぐ別れた。次、いつ会えるかは分からない。
 あの子の言う事は、いつもどこか納得ができる。私は想像力はあの子より乏しいのかもしれないけれど、共感力はあった。
 あの子の言う事は全部、信じてしまうし、分かってしまう。
 正直なところ、全部、嘘だったと言ってほしかった。
 店から出ると、アスファルトの上が熱で揺らいでいた。その揺らぎの向こうから何かが飛び出してきそうで、私は恐る恐る歩いて帰った。
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