明日もどこかで誰かが

 久しぶりに実家に帰省して、畳の部屋に寝転んだ。畳がひんやりとしていて気持ちがいい。仰向けになって深呼吸をすると、畳の香りに癒やされる。
 家の中で最も涼しい場所――なのだが、ここ最近の猛暑でクーラーが必要になっていた。クーラーの隣には、七五三の時に撮った俺の写真が三枚ほど額縁に入れられて飾られている。その隣には母の七五三の写真。まるで校長室に飾られている歴代校長の写真みたいだ。
 ふと、なんだか寂しさを感じた。その七五三の写真の隣に、他にも何か飾っていた記憶があるのだが。
 あまりこの部屋に来なかったから、記憶違いだろうか。というか、なぜこの部屋に来なかったのだろう。トイレと風呂の目の前にある部屋だから、何度も見ているはずなのに。どういうわけかあまりこの部屋の記憶がない。
 俺がこの家から出たのは大学進学後。それから一年しか経っていない。だから全くこの家の記憶がないということはありえない。この部屋だけ記憶がぼんやりしている。畳で、薄暗くて、たまにここで昼寝をしたということくらいしかはっきりしない。
「お昼」
 母さんがキッチンから俺を呼ぶ。のそりと起き上がりキッチンに行くと、すでに母さんはそうめんを啜っていた。汁にねぎ、大葉、ごま、わさび、天かすを入れて食べるのがうちの食べ方。そうめんなんか久しぶりに食べる。
「なあ、あの部屋さ、写真の隣になんか飾ってなかったっけ」
「なんかって何、なんかあったっけ」
「あったよ、なんか」
 ずずっと麺を啜ったあと、ああ、と何か思い出したかのように声を上げた。
「あれか、お面」
「お面?」
「神楽のお面よ。狐と大黒様と鬼のお面が飾ってあった。なんでそのチョイスだったのかは分からないけど」
 幼い頃のことだ。秋に神社に行って、深夜まで神楽を見ていた記憶がうっすらとある。この地域は神楽が盛んだった。俺は深夜まで起きてられなかったから、クライマックスは見たことがない。途中に餅投げがあるが、それだけが楽しみだった。
「大黒様は分かるけど、狐と鬼が分からん」
「そりゃ、あんた、鬼が出る時は怖いって言って毛布の中に潜ってたし。鬼っていっても、あれも神様だけど。狐はそもそも時間の都合で演目から外されてたし。あ、そういえば、夜にトイレ行くとき、狐と鬼が怖いって言って、なかなか一人でトイレ行けなかったの覚えてる?」
「あっ……」
 顔から火が出るかと思った。
 そうだ、俺があの部屋にあったお面を覚えていないのは、怖かったからだ。母さんが言う通り、小さい頃からあのお面が怖かった。にんまりと口を歪ませている狐に、目が爛々と光っている鬼、建御名方命。廊下の電気を点けると狐が白くぼんやりと闇に浮かぶし、鬼の目もこちらをじろりと見る。それが怖くて、何度も父さんや母さんを起こしてトイレに行っていた。
 一人で行けるようになっても、そこに怖いものがあるという意識は変わらず、目を逸らしていた。そこには何もない、怖いものは何もないと言い聞かせて、それが癖になって、そして忘れて、記憶から抜け落ちたのだ。
 畳の部屋に行っても、クーラーの隣は絶対見なかった。七五三の袴姿の俺を見るのも恥ずかしかったし、余計に目を向けたくなかったのだ。
「そのお面、なんで消えたの」
「もうじいちゃんとばあちゃんいないし、片付けようと思って片付けた。それがどうしたの」
「なんでも」
 怖くて、目を背けていたけれど、なくなったらなくなったで寂しい。とは母さんには言えなかった。
 それからお盆になって、じいちゃんとばあちゃんの墓参りをした。
 その時、母さんが二人の話をした。まだ腰が悪くなる前、二人は神楽を舞っていたということを知る。俺が幼い頃見に行っていた、あの神楽。じいちゃんとばあちゃんが舞っていたのだ。
 俺が毛布の中に隠れていることも、早々に寝ていたことも、二人は知っていた。俺がいること自体が嬉しかったらしい。
 秋祭りの季節、もう一度、帰省した。その、じいちゃんとばあちゃんが舞っていた神楽をちゃんと見たくなったし、あの狐と鬼は相変わらず怖いのかどうか試したかったからだ。一人で行った。
 今年の夏の酷暑も忘れるくらい寒い秋の夜。神社の境内では火が焚かれていた。お社の中に入ると、年寄りたちが並んで畳の上に座っていた。皆、毛布やブランケットを持ってきている。
 なんとなく覚えている。この雰囲気。もちろん俺もひざ掛けを持ってきている。壁際にひっそりと座った。
 残念ながら狐が出る部分はカットされていたが、鬼が出るシーンは見ることができた。はじめてちゃんと見た。俺は神話には詳しくない。鬼が神様であることくらいしか分からない。荒れ狂う様子から鬼と言われているが、彼も立派な神様である。神と神が激しい戦いを繰り広げていることだけが分かる。刀と刀がぶつかりあい、男神たちは勇ましい声を上げながら戦う。彼らの戦いを盛り上げる太鼓の音が腹に響く。
 激しい戦いの末、敗北した鬼は悔しさを滲ませ、唸り声を上げていた。悔しいという感情を持っていることに驚く。
 目を爛々と輝かせて、俺を睨みつけていた鬼にもそういった感情がある。それが分かっただけで、恐怖感はすっと消えていった。
 帰ったあと、狐の舞を動画で見た。狐はあやかしだった。
 人々を欺き、殺していく狐。あの鬼の神様とは雰囲気が違って、こちらは動画を最後まで見ることができなかった。
 狐は克服できなかった。あのにんまりと笑う、白い狐。どうしても、恐ろしいと感じてしまう。
 いつまで経っても怖いと思うものが、俺にもあった。
 畳の部屋から消えてくれて良かったのかもしれない。
 そういえば祖母は何を演じたのだろう。やはり、この畳の部屋に狐を飾っていたから、あの妖狐だったのだろうか。仏壇にある祖母の写真を見た瞬間、ぞっと鳥肌が立った。
3/6ページ
スキ