2章 越智真由
背中まである長い髪をひとつにまとめ、ぎゅっと帽子に入る。
音楽とはまったく関係ない、小さな工場。名を明泰製作所という。正確さが要される部品を作る鉄加工所だった。
朝礼の時、めずらしく社長のスピーチがあった。スピーチというより、社長の呟きといったほうがいいかもしれない。
「ついに、長きにわたる試行錯誤を経て完成したロケットが宇宙に旅立ちました。この一大プロジェクトに関われたことを、心から嬉しく思っています。今後も、明泰はその名の通り、未来のために、培った技術を生かして部品制作に励んでいきましょう……」
ふさふさの白髪がかわいい社長だった。数年前から、宇宙ビジネスに手を出すようになった。
もともと明泰製作所には手先が器用な者ばかりが集まっていて、高度な技術も培ってきていた。それが活かせて、儲けることができるのは宇宙しかないと社長はわたしたちに語ったのがはじまりだった。
宇宙のことなんか、どうでもいい。興味なんかない。
というか、わたしは、なんで音楽と関係ない場所で働いているのだろう。
ここに来る前は、都内にある高専に通っていた。でも、なんで高専になんか通っていたのだろう。
ああ、手を動かすのが好きだったからだ。それに、普通でいるのが嫌いだったからだ。でも、それは何か大きな間違いだったんじゃないかと思っている。
音楽を本格的にやりたいと思ったのが遅かった。もっと早くに音楽がやりたいと思っていれば、大学に行くという選択をしていただろうに。
朝礼で並んだとき、いつも隣にいるのは、唯一の同期である男。一度も喋ったことがない。名前も忘れてしまった。なんだったっけ。帽子に名札が縫われていたはずだけど、今は見えなかった。
たぶん、オタクなんだと思う。今は帽子を被っていて分からないけれど、彼はいつも、何の手入れもしていないぼさぼさの頭でいる。垢抜けないところが、なんとなく、オタクっぽさを臭わせていた。
彼は、この職場がとても似合っていると思う。ずっと同じことをするのが得意そうだ。そういうオタク気質の人が来るべきところだ、ここは。
朝礼のあと、今日の作業についての説明を聞いて、作業台の前に座る。
毎日、毎日、やることは同じ。
全神経を集中させて、一ナノセンチメートルの狂いもないように部品を作っていく。すぐに集中が途切れてしまい、何度もコーヒーを飲みに休憩室に戻った。
わたしが作業台と休憩室を往復しているあいだ、オタク君はわたしの倍の数をこなしていた。
みじめだ。
わたしだって、高専での成績はよかったし、手先は器用なほうだった。でも、集中が続かない。
悔しかったから、休憩室に行くのを我慢して、午前中の作業を進めた。
昼休憩の時間になって、休憩室の冷蔵庫からコンビニ弁当を出した。
机につこうとしたとき、わたしはぎょっとした。
先に座って弁当を開いていたオタク君の髪が、さっぱりしている。今まで何の手入れもしていなかったぼさぼさの黒髪がなくなっていた。
明るい茶髪になっていて、随分と短くなっていた。長いまま残されているもみあげが印象的だった。
反応を気にしているのか、オタク君は周りをちらちらと見ていた。反応してほしいのか、してほしくないのか、どっちなのか分からない。
名前、なんだったっけ。
机に置かれていた帽子を見て、やっと思い出した。ああ、そうだ。浅葱智哉。浅葱君。
わたしも暑苦しい帽子をとって、隣に座った。
「おつかれ」
声をかけると、浅葱君はびくっと肩を震わせた。
「あ、ええっと。越智さん。お疲れ様です」
頭を少し下げてくれたものの、視線が合わない。
意外なことに、彼はわたしの名前を覚えていた。まあ、同期はわたししかいないし、覚えていてもおかしくはないか。バンドのメンバーはわたしのことを越智真由とフルネームで呼んでいた。だから、年の近い人に越智さんと呼ばれるのは、久しぶりだった。
というか、浅葱君、わたしと同い年だよね。どちらも高専を出てすぐにここに入ったんだから。
「どしたの、それ」
頭を指差す。浅葱君は、やっぱり、という顔をした。
「暑くて鬱陶しかったから、なんとなく、切ってみただけです」
「さすがにそれは嘘でしょ。そこまで変えてそれはない」
なんだろう。失恋? いや、それはないか。彼女いそうにないし、片思いもしていなさそう。いや、片思いするようになったんだろうか。新しい恋をしてみたくなったとか。
「……だから、切るの、嫌だったんですよ……」
浅葱君は、文句のようなものをぼそぼそと呟きはじめた。
「え、何、誰かに言われて切ったの。親にでも言われたの」
「親はうちにはいません」
「え。ああ、そう」
会話がぎこちない。
浅葱君の弁当は、手作りのものだった。綺麗な焼き目のついた塩鮭が見える。浅葱君って、今まで手作りの弁当を持ってきていたっけ。
「親はいないんだったら、他に誰かいるの」
「同居人はいますけど、赤の他人ですよ。一軒家に一人で住んでて、部屋が空いてるから、貸してるだけです」
「そうなんだ。あ、じゃあ、その弁当、朝ごはんの残りとか」
「そうなりますね」
「同居人が作ったの? それとも浅葱君?」
「同居人は家事いっさいしないんで、僕です」
「浅葱君て、部屋も貸してて、ご飯も提供してんの? すごいね。副業?」
「そういうわけではないです。てか、なんなんですか。何か用事ですか」
「いや、だって。髪型変わったなあって思ったから」
「僕のことをあれこれ聞く理由にはなりませんよね」
いやまあ、そうだけど。
「最近、付き合ってた人と別れたから、話し相手が欲しかっただけだよ」
「ええ~、越智真由ちゃん、彼氏いたの?」
後ろから、中年おじさんが話しかけてくる。
無理矢理に笑顔をはりつけて「やめてください~」と愛想をふりまいた。クソだ。ここにはそういうおじさんとおばさんしかいない。
その間に、浅葱君は弁当箱と椅子を横にずらして、わたしから距離を取った。
それにむっとしたわたしは、おじさんにしっしと手を払ったあと、浅葱君に寄った。
「なんで逃げるのよ」
「逃げてはいませんけど」
「浅葱君って、彼女募集中なの? 髪型変えるってことは、そういうこと?」
「半分はそうです。半分は違います」
なんだそれ。まあでも、彼が気持ち半分、彼女を欲しがっているということは分かった。
「越智さんは、なんで彼氏と別れたんですか」
わたしが鬱陶しいほど質問をしたせいか、浅葱君からカウンターの質問がきた。
「だって、酒癖が悪い世話の焼ける男だったもん」
「でも、好きだったんですよね」
「最初はね。でも、そうじゃなくなっちゃった」
「……いまいち、よく分かりません。好きだったものが、好きじゃなくなるのが」
もそもそと塩鮭を咀嚼している浅葱君。
オタク君は、こう見えて一途なんだろうな。きっと。
「嫌な部分が、たくさん見えちゃうことがあるからさ」
盲目になるのだ、最初は。でも、そのうち、いろんなことが見えてきてしまう。
高戸が酒癖の悪い男だと知ったのも、付き合ったあとのことだった。
彼は、わたしにその姿を隠していたのだ。でも、付き合い始めて、わたしのことを信頼しきってしまったのか、醜態をさらすようになった。もし彼がわたしを思って酒を我慢してくれていたら、わたしは彼と付き合ったままだったのかもしれないけれど、彼は我慢をやめた。
バンドだってそうだ。最初は楽しかったけれど、次第に嫌なところとか、悪いところとか、汚いところが見えてくる。
みんな、最後は冷めきってたんだ。でも、現状維持がいいと思い込んで、それぞれ我慢していた。我慢しきれなくなって、結局、バラバラになってしまった。
わたしの歌の調子が悪くなっていたのも、我慢のせいだ。
浅葱君は、きっとこういう経験をしたことがないから、分からないんだ。
わたしには、よく分かる。
好きなことに盲目のままでいるのは、実は、とても難しいことなのだ。
「そうですか」
「そうなんだよ」
帰りに、浅葱君のバカでかい黒のリュックを見た。アニメのマスコットキャラクターのようなものがぶら下がっている。全身がピンクの女の子だった。
彼だって、ないことはないと思う。アニメとか、ゲームとか、コンテンツが終われば新しいコンテンツに引っ越すじゃないか。今、リュックにぶらさがっているそれだって、数か月したら変わるのではないのか。
昔好きだったものを忘れて、新しいものに飛びついているのではないのか。
わたしだって分からない。どうして一途でいられるのかが。
音楽とはまったく関係ない、小さな工場。名を明泰製作所という。正確さが要される部品を作る鉄加工所だった。
朝礼の時、めずらしく社長のスピーチがあった。スピーチというより、社長の呟きといったほうがいいかもしれない。
「ついに、長きにわたる試行錯誤を経て完成したロケットが宇宙に旅立ちました。この一大プロジェクトに関われたことを、心から嬉しく思っています。今後も、明泰はその名の通り、未来のために、培った技術を生かして部品制作に励んでいきましょう……」
ふさふさの白髪がかわいい社長だった。数年前から、宇宙ビジネスに手を出すようになった。
もともと明泰製作所には手先が器用な者ばかりが集まっていて、高度な技術も培ってきていた。それが活かせて、儲けることができるのは宇宙しかないと社長はわたしたちに語ったのがはじまりだった。
宇宙のことなんか、どうでもいい。興味なんかない。
というか、わたしは、なんで音楽と関係ない場所で働いているのだろう。
ここに来る前は、都内にある高専に通っていた。でも、なんで高専になんか通っていたのだろう。
ああ、手を動かすのが好きだったからだ。それに、普通でいるのが嫌いだったからだ。でも、それは何か大きな間違いだったんじゃないかと思っている。
音楽を本格的にやりたいと思ったのが遅かった。もっと早くに音楽がやりたいと思っていれば、大学に行くという選択をしていただろうに。
朝礼で並んだとき、いつも隣にいるのは、唯一の同期である男。一度も喋ったことがない。名前も忘れてしまった。なんだったっけ。帽子に名札が縫われていたはずだけど、今は見えなかった。
たぶん、オタクなんだと思う。今は帽子を被っていて分からないけれど、彼はいつも、何の手入れもしていないぼさぼさの頭でいる。垢抜けないところが、なんとなく、オタクっぽさを臭わせていた。
彼は、この職場がとても似合っていると思う。ずっと同じことをするのが得意そうだ。そういうオタク気質の人が来るべきところだ、ここは。
朝礼のあと、今日の作業についての説明を聞いて、作業台の前に座る。
毎日、毎日、やることは同じ。
全神経を集中させて、一ナノセンチメートルの狂いもないように部品を作っていく。すぐに集中が途切れてしまい、何度もコーヒーを飲みに休憩室に戻った。
わたしが作業台と休憩室を往復しているあいだ、オタク君はわたしの倍の数をこなしていた。
みじめだ。
わたしだって、高専での成績はよかったし、手先は器用なほうだった。でも、集中が続かない。
悔しかったから、休憩室に行くのを我慢して、午前中の作業を進めた。
昼休憩の時間になって、休憩室の冷蔵庫からコンビニ弁当を出した。
机につこうとしたとき、わたしはぎょっとした。
先に座って弁当を開いていたオタク君の髪が、さっぱりしている。今まで何の手入れもしていなかったぼさぼさの黒髪がなくなっていた。
明るい茶髪になっていて、随分と短くなっていた。長いまま残されているもみあげが印象的だった。
反応を気にしているのか、オタク君は周りをちらちらと見ていた。反応してほしいのか、してほしくないのか、どっちなのか分からない。
名前、なんだったっけ。
机に置かれていた帽子を見て、やっと思い出した。ああ、そうだ。浅葱智哉。浅葱君。
わたしも暑苦しい帽子をとって、隣に座った。
「おつかれ」
声をかけると、浅葱君はびくっと肩を震わせた。
「あ、ええっと。越智さん。お疲れ様です」
頭を少し下げてくれたものの、視線が合わない。
意外なことに、彼はわたしの名前を覚えていた。まあ、同期はわたししかいないし、覚えていてもおかしくはないか。バンドのメンバーはわたしのことを越智真由とフルネームで呼んでいた。だから、年の近い人に越智さんと呼ばれるのは、久しぶりだった。
というか、浅葱君、わたしと同い年だよね。どちらも高専を出てすぐにここに入ったんだから。
「どしたの、それ」
頭を指差す。浅葱君は、やっぱり、という顔をした。
「暑くて鬱陶しかったから、なんとなく、切ってみただけです」
「さすがにそれは嘘でしょ。そこまで変えてそれはない」
なんだろう。失恋? いや、それはないか。彼女いそうにないし、片思いもしていなさそう。いや、片思いするようになったんだろうか。新しい恋をしてみたくなったとか。
「……だから、切るの、嫌だったんですよ……」
浅葱君は、文句のようなものをぼそぼそと呟きはじめた。
「え、何、誰かに言われて切ったの。親にでも言われたの」
「親はうちにはいません」
「え。ああ、そう」
会話がぎこちない。
浅葱君の弁当は、手作りのものだった。綺麗な焼き目のついた塩鮭が見える。浅葱君って、今まで手作りの弁当を持ってきていたっけ。
「親はいないんだったら、他に誰かいるの」
「同居人はいますけど、赤の他人ですよ。一軒家に一人で住んでて、部屋が空いてるから、貸してるだけです」
「そうなんだ。あ、じゃあ、その弁当、朝ごはんの残りとか」
「そうなりますね」
「同居人が作ったの? それとも浅葱君?」
「同居人は家事いっさいしないんで、僕です」
「浅葱君て、部屋も貸してて、ご飯も提供してんの? すごいね。副業?」
「そういうわけではないです。てか、なんなんですか。何か用事ですか」
「いや、だって。髪型変わったなあって思ったから」
「僕のことをあれこれ聞く理由にはなりませんよね」
いやまあ、そうだけど。
「最近、付き合ってた人と別れたから、話し相手が欲しかっただけだよ」
「ええ~、越智真由ちゃん、彼氏いたの?」
後ろから、中年おじさんが話しかけてくる。
無理矢理に笑顔をはりつけて「やめてください~」と愛想をふりまいた。クソだ。ここにはそういうおじさんとおばさんしかいない。
その間に、浅葱君は弁当箱と椅子を横にずらして、わたしから距離を取った。
それにむっとしたわたしは、おじさんにしっしと手を払ったあと、浅葱君に寄った。
「なんで逃げるのよ」
「逃げてはいませんけど」
「浅葱君って、彼女募集中なの? 髪型変えるってことは、そういうこと?」
「半分はそうです。半分は違います」
なんだそれ。まあでも、彼が気持ち半分、彼女を欲しがっているということは分かった。
「越智さんは、なんで彼氏と別れたんですか」
わたしが鬱陶しいほど質問をしたせいか、浅葱君からカウンターの質問がきた。
「だって、酒癖が悪い世話の焼ける男だったもん」
「でも、好きだったんですよね」
「最初はね。でも、そうじゃなくなっちゃった」
「……いまいち、よく分かりません。好きだったものが、好きじゃなくなるのが」
もそもそと塩鮭を咀嚼している浅葱君。
オタク君は、こう見えて一途なんだろうな。きっと。
「嫌な部分が、たくさん見えちゃうことがあるからさ」
盲目になるのだ、最初は。でも、そのうち、いろんなことが見えてきてしまう。
高戸が酒癖の悪い男だと知ったのも、付き合ったあとのことだった。
彼は、わたしにその姿を隠していたのだ。でも、付き合い始めて、わたしのことを信頼しきってしまったのか、醜態をさらすようになった。もし彼がわたしを思って酒を我慢してくれていたら、わたしは彼と付き合ったままだったのかもしれないけれど、彼は我慢をやめた。
バンドだってそうだ。最初は楽しかったけれど、次第に嫌なところとか、悪いところとか、汚いところが見えてくる。
みんな、最後は冷めきってたんだ。でも、現状維持がいいと思い込んで、それぞれ我慢していた。我慢しきれなくなって、結局、バラバラになってしまった。
わたしの歌の調子が悪くなっていたのも、我慢のせいだ。
浅葱君は、きっとこういう経験をしたことがないから、分からないんだ。
わたしには、よく分かる。
好きなことに盲目のままでいるのは、実は、とても難しいことなのだ。
「そうですか」
「そうなんだよ」
帰りに、浅葱君のバカでかい黒のリュックを見た。アニメのマスコットキャラクターのようなものがぶら下がっている。全身がピンクの女の子だった。
彼だって、ないことはないと思う。アニメとか、ゲームとか、コンテンツが終われば新しいコンテンツに引っ越すじゃないか。今、リュックにぶらさがっているそれだって、数か月したら変わるのではないのか。
昔好きだったものを忘れて、新しいものに飛びついているのではないのか。
わたしだって分からない。どうして一途でいられるのかが。