2章 越智真由

 名前なんだったっけ。同期のはずなのに、名前を覚えていなかった。帽子に縫い付けられている名札を見る。ああ、そうだ。浅葱智哉。浅葱君。
 その浅葱君が、突然、髪を切った。
 切るだけじゃなくて、明るく染めていた。
 理由は分からないけれど、彼の中で何かがあったんだと思う。失恋? いや、それはないか。オタク臭かったし。恋でもしたのだろうか。それとも、恋したくなったのだろうか。
 彼が髪を切ったから、わたしも髪を切ろうと思った。

 ◆

 ベースの余韻がなくなり、スタジオに静寂が訪れた。
 ドラムスティックが落ち、からんからんと鳴る。ごめんごめん、と軽く言って、スティックを拾い上げる高戸。彼のその軽さとは真逆の、重苦しい空気が充満していた。
「おちまゆ」
 ぽん、と肩を叩かれる。ベースの宮香だった。
「調子悪い?」
「いや、喉の調子はいつもと変わらないけど」
「なんか、歌い方、変だったよ」
 他のメンバーも、表情を曇らせながら頷いた。
 そうかな。喉を手でおさえ、あ、あ、と声を出してみる。変わった様子はどこにもない。
 というか、変になるはずがない。自分で作った曲なんだから。自分の曲は、自分がいちばん理解し、うまく歌えるはずだと自負している。それなのに、調子が悪いと思われるのはどういうことだろう。
「わたしは気持ちよく歌えたんだけど」
「そうかな。この前のほうが良かった気がする」
「そんなことないでしょ」
「ううん、変だった」
 わたしはこのバンドメンバーのボーカル、作詞作曲担当だった。そして、このバンドを動かすリーダーでもあった。
 彼らとは、社会人になって出会った。このバンドを組んでからちょうど一年が経とうとしている。ライブに出る回数は少ないものの、細々と活動をしてきた。
 もともと一人で歌っていたわたしだったのだが、少し寂しくなって、誰かと音楽がしたくなって、ネットで探すようになった。それで、まずは高戸と出会った。その次に出会ったのが宮香だった。初期メンバーということだけあって、宮香はわたしによく意見する。
「まあ、今日はもう時間だからさ。次の人も外で待ってるし、片付けよ」
 はいはい、とスティックを鳴らして、高戸はわたしたちを促す。
 社会人メンバーということで、集まれる回数は少ない。今日は次のライブのためになんとか集まったのだが、後味の悪い最後となってしまった。次にいつ集まれるかどうかは分からない。こんな状態で、本当にライブに出るのだろうか。
 不安を抱えたまま、わたしたちはスタジオを後にする。
 土曜の夜。賑わう目黒駅で解散したあと、高戸だけがわたしのところに残る。
「どっか食べに行く?」
「どっちでもいい」
「じゃ、行こ」
 高戸はわたしの手を取って、居酒屋の多い通りを歩きはじめた。
 入ったのは雑居ビルにある古い居酒屋だった。タバコのにおいが充満している。
 お酒は喉に悪いから飲まない。高戸はわたしをよそに、たっぷりと酒を煽る。ドラムを叩いていると興奮し、酒がすすむらしいのだ。ビールに日本酒に焼酎に、強いものばかり。悪酔いする飲み方しかしない。
 ストレスからか、あまりお腹が空いていなかった。よく飲むなあと呆れながら、高戸の隣でちびちびと唐揚げを食べた。
 なんでこの人と付き合ってたんだっけ、と思う瞬間だった。べろべろに酔ってしまった彼を担ぐようにして電車に乗り込み、世田谷まで帰る。
 なんでこの人と付き合ったんだろう。
 告白のようなものはあったと思う。
 最初は楽しかった。高戸は今よりもうちょっとしっかりしていたと思う。よくこの部屋に泊まりにも来た。この部屋から見える多摩川が好きだった。
 多摩川を見ていると、水面のきらめきのひとつひとつから、新しい曲が生まれそうな気がしていた。
 でも、いつからか、わたしは彼の世話ばかりするようになっていた。
 彼の住んでいるボロいアパートに上がって、ベッドに横にさせる。投げ捨ててやろうかと思ったけれど、暴力だと喚かれるのも嫌だったので、優しく。
 高戸を置いて、わたしは自分のアパートに戻ろうとしたけれど、手を掴まれる。そのままベッドに引き込まれそうになるが、両足でふんばって抗った。
「おちまゆ、なんで帰るの」
「酒臭いし。したくないから」
「やだよ」
「こっちだって、やだよ。帰る」
 手を振りほどいてリビングに戻る。テーブルの上には、空になった缶ビールと総菜のゴミがあった。臭いから、ゴミ箱にぶち込んだ。そのゴミ箱もゴミでいっぱいだった。ハエが今にも集りそうなほどの悪臭が漂ってくる。
 なんでわたしがこいつの世話をしないといけないんだ。こんな時間があったら、新しい曲を作りたい。
苛々しながら部屋から出る。ああ、この鍵も、多摩川に投げ捨てたい。
 終電で等々力まで戻り、学生が多いアパートに帰った。隣からげらげらと笑い声が聞こえてきて、壁を思いっきり蹴った。
 うわ、こっわ、とまた笑い声。もう一回、壁を蹴った。静かにしてほしい。引っ越したい。
 収入には困っていない。わたしは大田区にある工場で部品加工をしているが、給料はよかった。でも音楽をしていると支出が多くて、いいアパートを借りることができない。本当は、セキュリティも万全で、静かなアパートが良かったけど、音楽のために我慢した。
 バンドのために、自分の好みと少し違う、バンドの雰囲気に合う曲もたくさん作ってきた。
 音楽でも、我慢している。
 スケジュールが合わなくて苛々することもいっぱいあった。でも、わたしはメンバーを束ねるリーダーだから、たくさん我慢した。
 わたしだって、こういう時、お酒がほしい。でも、喉が大事だから飲めない。
 もっといいストレス発散はないのだろうか。
 高戸と別れたい。でも雰囲気が悪くなるからできない。バンドメンバーと付き合うとこういうことになるなんて、かつてのわたしは知らなかった。
 結局、ライブ当日まで、わたしたちは集まることができなかった。本番、ライブハウスで顔を合わせたわたしたちからは、諦めの空気が滲みだしていた。
 そんな中で、わたしの作った音楽がお披露目された。重々しい空気をステージまで持ち込むのはさすがにダメだと思って、無理に明るく振舞った。何もかもがちぐはぐだった。
 わたしは、このために音楽を作ってたんだっけ。そう思いながら、自分の歌を自分で歌った。聞いている側がどう思うかは分からないが、いい演奏にはならなかった。
 この曲が演奏されるのは、これきりだろう。最初で最後のお披露目となった。
「いったん、休もう」
 終わったあと、ライブハウスの外で宮香が提案した。メンバーたちはすぐに頷き、賛成する。
「そうだね。いったん」
 わたしも同意した。
 彼らがライブハウスを後にしたあと、最後に残った高戸に言った。
「別れよ。もう、限界」
「え、何。なんか、我慢してたの」
「してたよ。ぜんぶ」
「あ、そ」
 わかった。高戸は短く答えて、わたしの前から消えた。なんだ。引き留めてくれないのか。期待はしてなかったけど。
 清々した。
 そのあと、電車の中でSNSを使って、活動休止ではなく、解散の提案をした。メンバーは全員それに賛成し、あっけなく解散となった。
 なんだ、みんな、やめたかったのか。なら、どうして正直にそれを言ってくれなかったんだろう。みんな、我慢していたのか。わたしたちの我慢は、なんだったんだろう。
 この一年、何をやってたんだろうな。スマホを閉じ、まったく興味のないフレグランスの広告をぼんやりと眺めた。
 翌日、わたしは、我慢の限界がきて、昼からひとりで酒を飲んだ。
 ビールは嫌いだったから、缶チューハイをたくさん買ってきた。でも、久しぶりだったからか、度数の低いチューハイでもすぐに酔いが回った。
 世界が回る。気持ちが悪い。トイレでひとしきり吐いたあと、喉がヒリヒリした。でも、それが気持ちよかった。
 喉に悪いことをするのが、とても気持ち良かった。ボーカルとしてあるまじき感想である。
 でも、それがやめられなくなった。今まで我慢してきた反動だったのかもしれない。
 わたしは自分の喉を潰すような曲を書き始めた。
 

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