1章 紺野朱美
「ああ、何やってるんだろ、私……」
最近ずっと考えていることが、ついに口から出てしまった。
ホースを伸ばし、蛇口をひねっていた浅葱君が、首をかしげる。
「……なんでさ、地区が推奨してるとはいえ、ずっと世話できるの? めんどくさくない?」
夕方、仕事から帰ってきた浅葱君は、すぐに庭の花の水やりをした。
原稿をゴミ箱に捨てて一週間ほどが経った。腑抜けた生活を送っていた。書きたいものがなくて、ひねり出しても何も出てこなくて、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて、みたいなだらしない時間の使い方をしていた。
その間に、葵は実をつけはじめていた。華々しく花を咲かせていた葵たちは終わりに近づいているが、プランターには他にも様々な花が咲いている。
浅葱君は夕方になると、絶対に水やりをする。仕事から帰ってきて疲れているだろうに、絶対に欠かさなかった。
そんな彼を、私はぼんやりと縁側から眺めていた。
「めんどくさいとは思ったことないですね」
ここに来てから、彼と全然目線が合わない。私に背中を向けたまま浅葱君は話す。今日もオタク臭いチェック柄のシャツにジーンズ。というか毎日それ。まあ私も毎日黒のブラウスだから人のこと言えないのだが。
「なんで……なんでか……なんでだろう。これに理由って、いりますか?」
「私は気になる」
「うーん……」
水やりを終え、ホースを巻きながら浅葱君は考えていた。
「リリちゃんってほどじゃないけど、たぶん、好きなんだと思います。世話するのが」
「リリちゃんって何」
「あ、僕が今いちばん推してるバーチャルアイドルです、動画配信してて、すっごく可愛くて、歌がうまくて、スパチャも読んでくれて……」
「ああ、はいそれは分かった。んで、庭は趣味なの?」
「趣味ではないですけど……なんだろう。生活ですかね。それがどうかしましたか」
「気になっただけ」
頬杖をつき、庭を眺める。
好きだけど趣味ではない。生活。よく分からない。
「何やってるんだろ、とか、無駄じゃんとか、やめようって思わないの」
「なんでやめるってなるんですか? 好きだったら、やめるってことにならないと思うんですけど」
「だって、何にもならないじゃん。好きだけど、頑張っても、何にもならないじゃん。庭だって、外からあまり見えないじゃん」
「それじゃあ、ダメなんですか」
「それじゃあ……ダメなのよ、私は。何にもならないものばかり書いて、何やってるんだろうって。だから作家になりたいって思った」
浅葱君はサンダルを脱いで家に上がり、リビングにあるサイドボードの中から何かを出してきた。
私が前にゴミ箱にぶちこんだ茶封筒だった。
浅葱君は、それを私に突き出してくる。
「な、なによ」
「なんで捨てるんですか。僕はこれ、好きでした」
「は、はあ? てか、なんでゴミ袋から出してんのよ。汚いでしょうが」
「袋の中は大丈夫ですよ。紺野さんがどんなの書いてるのか、ちょっと知りたかったし。全部読んだんですけど、好きじゃなきゃ、書けない内容なんじゃないですか、これ。だって、主人公は、ずっと好きなことをしていますよね。後半はそのことで少し後悔していますけど。紺野さんが、そうなんじゃないんですか」
少し汚れている茶封筒を受け取る。
中から原稿を出す。プリントアウトした、私のへたくそな文章が目に入る。
読むのが恥ずかしい。ダメ出しされたものを読み返したくない。
愛着なんてない……と思う。主人公への思い入れも……たぶん、ない。
でも。
誠と別れて、アパートで一人でいるとき、私の側にずっといたのは、このどうしようもない物語だった。
ここに書いてあるのは、ぜんぶ、私の理想だ。
ぼたぼたと紙に雫が落ちて、インクが滲む。一枚めくって、また一枚めくる。仕事を辞めてまでして書いた、私の理想だった。
「……そうね。好きだから、何かにして、あげたかった……でも、ダメだった」
浅葱君は、隣にしゃがんだ。
「書くのは好き。ほんとは……たぶん、愛着もある。でも、誰かに否定されて、何にもならないのは、ずっとつらい」
「その気持ち、僕には全部は分かりませんけど、でも、紺野さんは好きだから、書いてるんですよね。それって、無駄なことなんですか? 作家になれなくても、好きなんだったら、書いてたらいいんじゃないですか。少なくとも、僕はそれ、好きでしたし」
「何にも、ならないのに」
「それはやめる理由にはならないと思います。続けていたら、いつかは何かにはなるんじゃないでしょうか」
顔をぐしゃぐしゃにした私に、蒸したタオルを渡してくれた。それからしばらく、いろいろと悔しくて、浅葱君の隣でどうしようもないほど泣いた。こんな女のことなんかほっとけばいいのに、浅葱君はずっと隣にいた。
長らく泣いていると、なぜ泣いているのかも分からなくなって、恥ずかしくなって浅葱君をグーで殴った。
「あ、あのね、そういうことがすらすら言えるんだったら、マジで美容院行きなさいよね。見た目がマジで残念すぎるよ。私がオタクのあんたをいい男にするのが、ここで書く条件なんだから」
「ああ……、そうですね……、そうでした」
「そうですね、じゃないのよ。明日行きなさいよ。ほんとに。あんたに彼女ができないと、私がここにいる意味がないのよ」
「紺野さんって、自分がすることの価値とか、理由とか、意味とか、そういうの欲しがるタイプなんですね」
「うるっさい」
求めすぎなのだろうか。価値を。意味を。理由を。
好きだから。理由はそれだけでいいじゃないか。浅葱君が言いたいのは、そういうことだった。
最近ずっと考えていることが、ついに口から出てしまった。
ホースを伸ばし、蛇口をひねっていた浅葱君が、首をかしげる。
「……なんでさ、地区が推奨してるとはいえ、ずっと世話できるの? めんどくさくない?」
夕方、仕事から帰ってきた浅葱君は、すぐに庭の花の水やりをした。
原稿をゴミ箱に捨てて一週間ほどが経った。腑抜けた生活を送っていた。書きたいものがなくて、ひねり出しても何も出てこなくて、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて、みたいなだらしない時間の使い方をしていた。
その間に、葵は実をつけはじめていた。華々しく花を咲かせていた葵たちは終わりに近づいているが、プランターには他にも様々な花が咲いている。
浅葱君は夕方になると、絶対に水やりをする。仕事から帰ってきて疲れているだろうに、絶対に欠かさなかった。
そんな彼を、私はぼんやりと縁側から眺めていた。
「めんどくさいとは思ったことないですね」
ここに来てから、彼と全然目線が合わない。私に背中を向けたまま浅葱君は話す。今日もオタク臭いチェック柄のシャツにジーンズ。というか毎日それ。まあ私も毎日黒のブラウスだから人のこと言えないのだが。
「なんで……なんでか……なんでだろう。これに理由って、いりますか?」
「私は気になる」
「うーん……」
水やりを終え、ホースを巻きながら浅葱君は考えていた。
「リリちゃんってほどじゃないけど、たぶん、好きなんだと思います。世話するのが」
「リリちゃんって何」
「あ、僕が今いちばん推してるバーチャルアイドルです、動画配信してて、すっごく可愛くて、歌がうまくて、スパチャも読んでくれて……」
「ああ、はいそれは分かった。んで、庭は趣味なの?」
「趣味ではないですけど……なんだろう。生活ですかね。それがどうかしましたか」
「気になっただけ」
頬杖をつき、庭を眺める。
好きだけど趣味ではない。生活。よく分からない。
「何やってるんだろ、とか、無駄じゃんとか、やめようって思わないの」
「なんでやめるってなるんですか? 好きだったら、やめるってことにならないと思うんですけど」
「だって、何にもならないじゃん。好きだけど、頑張っても、何にもならないじゃん。庭だって、外からあまり見えないじゃん」
「それじゃあ、ダメなんですか」
「それじゃあ……ダメなのよ、私は。何にもならないものばかり書いて、何やってるんだろうって。だから作家になりたいって思った」
浅葱君はサンダルを脱いで家に上がり、リビングにあるサイドボードの中から何かを出してきた。
私が前にゴミ箱にぶちこんだ茶封筒だった。
浅葱君は、それを私に突き出してくる。
「な、なによ」
「なんで捨てるんですか。僕はこれ、好きでした」
「は、はあ? てか、なんでゴミ袋から出してんのよ。汚いでしょうが」
「袋の中は大丈夫ですよ。紺野さんがどんなの書いてるのか、ちょっと知りたかったし。全部読んだんですけど、好きじゃなきゃ、書けない内容なんじゃないですか、これ。だって、主人公は、ずっと好きなことをしていますよね。後半はそのことで少し後悔していますけど。紺野さんが、そうなんじゃないんですか」
少し汚れている茶封筒を受け取る。
中から原稿を出す。プリントアウトした、私のへたくそな文章が目に入る。
読むのが恥ずかしい。ダメ出しされたものを読み返したくない。
愛着なんてない……と思う。主人公への思い入れも……たぶん、ない。
でも。
誠と別れて、アパートで一人でいるとき、私の側にずっといたのは、このどうしようもない物語だった。
ここに書いてあるのは、ぜんぶ、私の理想だ。
ぼたぼたと紙に雫が落ちて、インクが滲む。一枚めくって、また一枚めくる。仕事を辞めてまでして書いた、私の理想だった。
「……そうね。好きだから、何かにして、あげたかった……でも、ダメだった」
浅葱君は、隣にしゃがんだ。
「書くのは好き。ほんとは……たぶん、愛着もある。でも、誰かに否定されて、何にもならないのは、ずっとつらい」
「その気持ち、僕には全部は分かりませんけど、でも、紺野さんは好きだから、書いてるんですよね。それって、無駄なことなんですか? 作家になれなくても、好きなんだったら、書いてたらいいんじゃないですか。少なくとも、僕はそれ、好きでしたし」
「何にも、ならないのに」
「それはやめる理由にはならないと思います。続けていたら、いつかは何かにはなるんじゃないでしょうか」
顔をぐしゃぐしゃにした私に、蒸したタオルを渡してくれた。それからしばらく、いろいろと悔しくて、浅葱君の隣でどうしようもないほど泣いた。こんな女のことなんかほっとけばいいのに、浅葱君はずっと隣にいた。
長らく泣いていると、なぜ泣いているのかも分からなくなって、恥ずかしくなって浅葱君をグーで殴った。
「あ、あのね、そういうことがすらすら言えるんだったら、マジで美容院行きなさいよね。見た目がマジで残念すぎるよ。私がオタクのあんたをいい男にするのが、ここで書く条件なんだから」
「ああ……、そうですね……、そうでした」
「そうですね、じゃないのよ。明日行きなさいよ。ほんとに。あんたに彼女ができないと、私がここにいる意味がないのよ」
「紺野さんって、自分がすることの価値とか、理由とか、意味とか、そういうの欲しがるタイプなんですね」
「うるっさい」
求めすぎなのだろうか。価値を。意味を。理由を。
好きだから。理由はそれだけでいいじゃないか。浅葱君が言いたいのは、そういうことだった。