1章 紺野朱美

 浅葱智哉、二十二歳。高専卒で、既に働いている社会人である。
 職場は大田区にある小さな工場で部品加工の仕事をしている。ここまでは世田谷に来る途中に聞き出した。
 最初、彼は冗談ですよね、という反応をした。
 本気ではなかったのだろう。教えてくれというのは。八つ当たりしてくる私にキレ気味にそんなことを言ったのだ。本当に教えてほしいだなんて一ミリも思ってなかったはずだ。
 私だって、こうなるとは思っていなかった。変なことを口走った。だが、彼も何を思ったのか、少し考えた後に、私に頭を下げた。
 よろしくお願いしますと。
 想定外のことが起こったが、私はどうやらまだ諦めないでいいらしい。
 歩いている最中、彼は私の荷物は持ってくれなかった。いい男にすると約束したはいいが、教えることは山ほどありそうだ。その間、いくつかの公募に作品を送ることができるだろう。
 新宿から山手線で目黒まで行き、そこから目黒線に乗り換える。三十分ほど電車に揺られ彼の住まう奥沢までやってくる。
 駅から出ると、噴水が出迎えてくれた。
 目の前に伸びる商店街を少し歩き、一本中の通りに入る。途端に周辺は閑静な住宅地となった。
 塀から覗く緑が輝いている。庭を持った、大きくて立派な家が立ち並んでいた。ここは高級住宅地であることが伝わってくる。
 浅葱家も例外ではなかった。
 鉄扉をくぐると、立派な庭が目に入る。タチアオイだ。色とりどりの花が迎えてくれた。
「庭の世話、してるんだ」
「地区が緑化を推奨してて……」
 確かに、周りの家にもたくさんの緑が見えていた。地域ぐるみで行っていることとはいえ、これだけの花の世話をしているというのはすごい。
 家は祖父母の代からのものらしい。中には立派な木材の家具があった。ほとんどが洋風のものである。広い庭は祖父母の趣味、家具は両親の趣味だという。両親は北欧に移住したというが、理由がその家具だった。
 L字型の家で、庭はリビングからも見えた。リビングと庭の間には縁側もある。こだわりの入った家というのが第一印象だった。
 二階の元両親の部屋を使っていいと言われたので、荷物を運ばせてもらう。
 大きすぎるベッドと、小さなテーブル、椅子、空っぽの本棚が残されてあった。執筆はここですればいいだろう。
 広いバルコニーにも椅子と机があった。夏は暑すぎて使えないだろうが、春や秋はここで過ごすと気持ちが良さそうだ。
 荷物を片づけていると、夕方になっていた。一階に降りると、庭から水をまく音が聞こえてきた。
 縁側に出て、様子を眺める。
「ねえ、ほんとうにいいの?」
「紺野さんが住まわせてって言ったんじゃないですか。一人で住むには広すぎるから、どうぞ使ってください」
 葵の葉に水が当たって、ざあっと音が鳴る。
「ご飯とか、家事はどうしよう」
「よくするんで、全部任せてもらっていいです。食事代のこととかも気にしないでいいです。紺野さんは、好きなだけ書いていてください」
「あ、うん」
 好きなだけ書いていてください、か。
 のこのこと初めて会った人の家に来てしまったが、こうなるのだったら誠のところに戻ったほうが良かったのだろうか。
 誠も、うちで書いていればいいじゃん、と言ってくれてはいた。
 だが、浅葱君の少しそっけないところが、楽だと思えた。
 女を家に上げることに動揺しているわけでもない。おそらく、私は彼の好みの対象外なのだろう。彼との年齢もかなり離れている。七歳も年上なのだ。候補にも入らない。
「いつからマッチングアプリ使ってるの」
「半年くらい前からだったと思います」
「なんで彼女がほしいの」
「……なんで? さあ、なんでだろう……理由っているのかな……。でも、いたらいいなって思います」
 水やりが終わったあと、彼は駅の近くにあるスーパーに買い出しに行くというので、私も着いて行く。日用品が欲しかった。
 彼がレジに並ぶ時、カゴの中にビールを何本か入れた。
 その日はカレーだった。ごろごろの具が入った、中辛のカレー。人が作ったものを久しぶりに食べた。
 誰かと食べるのも久しぶりだった。
 だらりと伸びた長い、ぼさぼさの髪が目に入る。
「次の休み、美容院くらい行ってきなさいよね。やっぱりキモイから。モテたいんなら、まずは見た目からなんとかしよ」
 と言ってみたものの、浅葱君の反応はよろしくなかった。
 入浴を済ませたあと、きっと外は気持ちがいいと思ったから、縁側でビールの缶を開けた。気を利かせてくれたのか、浅葱君は黙って蚊取り線香を焚いてくれた。彼はその後、キッチンの向かいにある自室にこもってしまった。耳をすませると、アニメの女の子のような声が聞こえてくる。オタ活に励んでいるようだ。
 蚊取り線香のこの香りは久しぶりだった。一軒家らしい香りがする。
 酔いが回ってくると、胸が中が空っぽになる。
 ほんとうに、一体、何やってるんだろ、私。
 星の少ない東京の夜空を見ながら、何度もそう思った。
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