5章 浅葱智哉
紺野さんが帰ると決めた一週間後の昼。東京駅まで送りに行った。
見送りなんていらないよ、と言われたけれど、無理矢理、東京駅まで着いて行った。
東京駅なんかあまり来ない。僕より、紺野さんのほうが歩き慣れていた。大きなスーツケースをゴロゴロと転がして、さっさと歩いていく。その背中を見て、さすが紺野さんだなと感心した。
切符はもう買っていて、あとは新幹線の改札を通るだけ。
「まだ理由を聞いてない」
僕が言うと、紺野さんは驚いた顔をした。
「珍しいね。智が理由を聞いてくるの」
「聞いたっていいじゃん」
「智はもう大丈夫だよ。じゅうぶん、いい男になったと思う」
「どこをどう見てそう思ったの」
「越智さんとリリアさんに告られた実績が二つあったらじゅうぶんでしょ。覚えてないの。条件は、私が智をいい男にする、だったでしょ。彼女ができるまでではなかったはず。智が女性から告られてる時点で、契約は終了していたはずなの。ちょっと長居しすぎた」
「彼女ができるまでに変更できない?」
「もう、私は不要でしょ。智はもう大丈夫。それに、私はいないほうがいい」
その意味が分からないまま、紺野さんは改札を通って行ってしまった。
両親と違って、紺野さんは日本にはいる。でも、僕にとっての西日本、広島は、異世界と同じようなものだった。東京の外を、僕は何も分かっていない。
同じ日本なのに、紺野さんはずっと遠くの知らない国に行ってしまったようだった。
一人で奥沢まで帰る。ただいまと言っても返事が来ないから、黙って家に上がった。
家は静かだ。また、紺野さんが来る前の家に戻る。
二階に上がると、紺野さんのにおいがした――ような気がする。両親の気配じゃなくて、紺野さんの気配が残っていた。この一年で染みついた、紺野さんの生活が残っていた。
本棚にはいくつか辞典が入っていた。お金がないと言っていたから、僕が買ってあげたやつだ。国語辞典だけじゃなくて、類語辞典とか、ことわざ辞典とか、種類が色々ある。紺野さんの誕生日に贈った広辞苑もそのまま残されていた。あれだけ欲しい欲しいと言っていたのに、ここに残して帰ってしまった。
化粧台の椅子は出たまま。使ったあと、元に戻さないのが紺野さんスタイルだった。
両親が使っていたものは使いたくないからと新しくしたシーツとかけ布団。これも洗濯せずそのままだった。
クローゼットの中には、紺野さんが着回している黒のブラウスが吊り下げられていた。これはただ単にスーツケースに入れるのを忘れていたんだと思う。
私は胸が大きいから、これしか似合わない。これが好きで着ているわけじゃない。
もちろんおしゃれが面倒くさいという理由もあるけれど、男の人にじろじろ見られるのが怖いからこれを着ているのだと。
そんな記憶がこの服に染みついていて、ついでに紺野さんを抱きしめた時の感覚がよみがえって、なんだか恥ずかしくなるから、クローゼットをぱたんと閉じた。
これらすべて、すぐに捨てればよかったけれど、捨てられなかった。
いつだって、この部屋を使う人は、この家から出て行ってしまう。
両親も、紺野さんも。
部屋の中に染みついた生活が逃げないように、ドアをきちんと閉めて、自分の部屋に戻った。
紺野さんの部屋の真下。紺野さんが歩けば足音がしていた。
パソコンをつけると、ちょうどリリちゃんと越智さんが雑談配信をしていたから、それをぼんやりと見た。
そろそろ、どこかでライブしたいよね、みたいなことを喋っていたと思う。それしか耳に入ってこなかった。
最後に、スパチャで何かを打ち込んだ。なんか『励ましてくれ』みたいなことを打ち込んだと思う。
『ありゃ、ねぎさんどうしたのかな』
『ねぎさん、元気出して』
当たり障りのないことを言って、配信終了。
パソコンを閉じれば、また静寂が戻ってくる。
両親がいたときは、何かしら音があった。紺野さんがいたときも、何かしら音があった。
僕はそれを聞いて生活するのが好きだった。
好きで、一人で、こんな大きな家に住んでるんじゃない。
ずっと一人のままだったら、こんな家、とっとと売りに出して、一人暮らしにじゅうぶんなアパートに引っ越したいと思ったこともある。
でも、それはできなかった。
僕は、誰かと、この家にいるのが好きだった。
両親が出ていくとき、僕は何も言えなかった。両親は北欧の家具が好きで、北欧で生活することを憧れとしていたから、反対ができなかった。
僕が明泰で働くことが決まって、一人でも生きていけるようになったから、両親は安心して日本から飛び立った。
一緒にいてよ、なんて、言えなかった。子供っぽくて恥ずかしかったというのもある。
紺野さんにも、言えなかった。
もし一緒にいてって言っていたら、紺野さんはどうしただろう。
そういう関係になるなら無理だよって言われるのだろうか。土井谷さんみたいに。
がらんどうの家の中、じめじめする敷きっぱなしの布団に入って、考えるのをやめた。こんなところで一人でうじうじして、何やってるんだろうと思ったところで、意識が途切れた。
見送りなんていらないよ、と言われたけれど、無理矢理、東京駅まで着いて行った。
東京駅なんかあまり来ない。僕より、紺野さんのほうが歩き慣れていた。大きなスーツケースをゴロゴロと転がして、さっさと歩いていく。その背中を見て、さすが紺野さんだなと感心した。
切符はもう買っていて、あとは新幹線の改札を通るだけ。
「まだ理由を聞いてない」
僕が言うと、紺野さんは驚いた顔をした。
「珍しいね。智が理由を聞いてくるの」
「聞いたっていいじゃん」
「智はもう大丈夫だよ。じゅうぶん、いい男になったと思う」
「どこをどう見てそう思ったの」
「越智さんとリリアさんに告られた実績が二つあったらじゅうぶんでしょ。覚えてないの。条件は、私が智をいい男にする、だったでしょ。彼女ができるまでではなかったはず。智が女性から告られてる時点で、契約は終了していたはずなの。ちょっと長居しすぎた」
「彼女ができるまでに変更できない?」
「もう、私は不要でしょ。智はもう大丈夫。それに、私はいないほうがいい」
その意味が分からないまま、紺野さんは改札を通って行ってしまった。
両親と違って、紺野さんは日本にはいる。でも、僕にとっての西日本、広島は、異世界と同じようなものだった。東京の外を、僕は何も分かっていない。
同じ日本なのに、紺野さんはずっと遠くの知らない国に行ってしまったようだった。
一人で奥沢まで帰る。ただいまと言っても返事が来ないから、黙って家に上がった。
家は静かだ。また、紺野さんが来る前の家に戻る。
二階に上がると、紺野さんのにおいがした――ような気がする。両親の気配じゃなくて、紺野さんの気配が残っていた。この一年で染みついた、紺野さんの生活が残っていた。
本棚にはいくつか辞典が入っていた。お金がないと言っていたから、僕が買ってあげたやつだ。国語辞典だけじゃなくて、類語辞典とか、ことわざ辞典とか、種類が色々ある。紺野さんの誕生日に贈った広辞苑もそのまま残されていた。あれだけ欲しい欲しいと言っていたのに、ここに残して帰ってしまった。
化粧台の椅子は出たまま。使ったあと、元に戻さないのが紺野さんスタイルだった。
両親が使っていたものは使いたくないからと新しくしたシーツとかけ布団。これも洗濯せずそのままだった。
クローゼットの中には、紺野さんが着回している黒のブラウスが吊り下げられていた。これはただ単にスーツケースに入れるのを忘れていたんだと思う。
私は胸が大きいから、これしか似合わない。これが好きで着ているわけじゃない。
もちろんおしゃれが面倒くさいという理由もあるけれど、男の人にじろじろ見られるのが怖いからこれを着ているのだと。
そんな記憶がこの服に染みついていて、ついでに紺野さんを抱きしめた時の感覚がよみがえって、なんだか恥ずかしくなるから、クローゼットをぱたんと閉じた。
これらすべて、すぐに捨てればよかったけれど、捨てられなかった。
いつだって、この部屋を使う人は、この家から出て行ってしまう。
両親も、紺野さんも。
部屋の中に染みついた生活が逃げないように、ドアをきちんと閉めて、自分の部屋に戻った。
紺野さんの部屋の真下。紺野さんが歩けば足音がしていた。
パソコンをつけると、ちょうどリリちゃんと越智さんが雑談配信をしていたから、それをぼんやりと見た。
そろそろ、どこかでライブしたいよね、みたいなことを喋っていたと思う。それしか耳に入ってこなかった。
最後に、スパチャで何かを打ち込んだ。なんか『励ましてくれ』みたいなことを打ち込んだと思う。
『ありゃ、ねぎさんどうしたのかな』
『ねぎさん、元気出して』
当たり障りのないことを言って、配信終了。
パソコンを閉じれば、また静寂が戻ってくる。
両親がいたときは、何かしら音があった。紺野さんがいたときも、何かしら音があった。
僕はそれを聞いて生活するのが好きだった。
好きで、一人で、こんな大きな家に住んでるんじゃない。
ずっと一人のままだったら、こんな家、とっとと売りに出して、一人暮らしにじゅうぶんなアパートに引っ越したいと思ったこともある。
でも、それはできなかった。
僕は、誰かと、この家にいるのが好きだった。
両親が出ていくとき、僕は何も言えなかった。両親は北欧の家具が好きで、北欧で生活することを憧れとしていたから、反対ができなかった。
僕が明泰で働くことが決まって、一人でも生きていけるようになったから、両親は安心して日本から飛び立った。
一緒にいてよ、なんて、言えなかった。子供っぽくて恥ずかしかったというのもある。
紺野さんにも、言えなかった。
もし一緒にいてって言っていたら、紺野さんはどうしただろう。
そういう関係になるなら無理だよって言われるのだろうか。土井谷さんみたいに。
がらんどうの家の中、じめじめする敷きっぱなしの布団に入って、考えるのをやめた。こんなところで一人でうじうじして、何やってるんだろうと思ったところで、意識が途切れた。