5章 浅葱智哉
六月、梅雨に入って、紺野さんは出かけることが増えた。
週に一回は、三軒茶屋に行っているようだった。黒猫だと執筆が捗るんだ、とだけ教えてもらった。
僕は仕事で忙しかったし、紺野さんの創作活動のことも深くは聞いていなかったから、紺野さんがその時、どんな状態だったのかも知らなかった。
家に帰って、晩御飯を作って、紺野さんを呼んで、二人で静かに食べて、それぞれお風呂に入って、それぞれの部屋に戻って寝る。そんな六月だった。
紺野さんにとっての事件が起こったのは、七月の中旬だった。
紺野さんは、珍しく遅い時間に三軒茶屋に行った。夕飯もいらないとのことだったから、久しぶりに自分はカップラーメンで済ませた。紺野さんがうちに来てから、こういったものを食べる頻度が減っていた。
リリちゃんと越智さんの配信が終わって、寝ようと布団に入った時だった。スマホが震えた。
『迎え来て』
短いメッセージだった。
時計を見る。かなり遅い時間だった。そういえばまだ、紺野さんは帰ってきていない。
迎えって言われても、どこか分からなかったから、すぐに聞き返した。
『三軒茶屋駅』
世田谷は東西に走る路線は何本かあるけれど、南北に走る路線は少ない。三軒茶屋と奥沢も鉄道で結ばれていない。だから、鉄道で行くと大回りになる。バスはまだ出ている時間だった。
理由は分からないけれど、とにかく行くことにした。
家を出て、奥沢六丁目のバス停まで走って、ギリギリに乗る。人は少なかった。
次第に雨が激しくなる。もしかして、ずぶ濡れになったから傘を持ってこいと言いたかったんじゃないだろうか、などと思っていた。
三軒茶屋に着いて、バス停から少し離れたところにある駅に向かった。
紺野さんは、駅の入り口でしゃがんでいた。
べしゃべしゃになっていた。前髪からぽたぽたと雫が落ちていて、ブラウスは肌にくっついていた。
「紺野さん」
声をかけると、ゆっくりと顔を上げて、それからまた項垂れた。
「風邪引くから、帰ろう」
リュックの中に入れていたタオルを渡す。紺野さんはようやく立ち上がって、コンビニで身体を拭いた。
タクシーで奥沢まで帰ることにした。
紺野さんは家に帰ったらすぐにお風呂に入って、縁側に座った。近くに置いてあるビールは六本だった。
僕は何も言わずに、キッチンから様子を見守ることにした。
何かはあったんだろう。でも、直接聞く勇気はなかった。
三本くらい飲んだあとになって、紺野さんは大声で泣き始めた。
これまで何度か彼女が泣いているところを見たことはあるけれど、声を上げて泣いているのは初めて見た。
過呼吸になるんじゃないかと心配するくらいだった。
水を持って、紺野さんの隣に行く。何と言っていいか分からなかったから、黙って差し出して、背中を撫でてやった。
徐々に静かになって、紺野さんは持っているビールの缶を落とした。中にまだ残っていて、縁側の下を濡らしていく。
「布団で寝ようよ」
返事がなく、そのまま倒れるようにして眠った。
地面に落ちた缶を拾って、紺野さんを抱き上げた。貧弱すぎて、リビングのソファに運ぶのが精いっぱいだった。
タオルで顔を拭いてやって、押し入れにしまいこんでいたタオルケットをかけてやる。
まさか、男の人に何かされたとか――。
そう思ったけれど、本人は寝てしまったから、聞けなかった。
三軒茶屋で何が起こっていたのかは、翌日の夜になって分かった。
縁側で、またビールを飲みながら、友達と電話をしていた。たぶん、同人をしている友達。名前は知らないけれど、そういう友達がいるのは知っている。
「土井谷さんに裏切られた」
「うん、そう……。告白してきて……。そんなのもう、無理じゃない……。うん……」
じゃあね、と電話を切ったあと、紺野さんは三本目に手をかけた。そこで僕は縁側に向かった。
「飲みすぎ」
手を握ると、紺野さんは、余計に泣いた。
「飲まないと、しんどい。飲ませて」
「身体に悪いから」
「智は私の親じゃない」
「そうだけど」
「彼氏でもない」
「そうだけど。昨日からの荒れ具合は、見てて心配になる」
紺野さんは唇を噛んで、それから僕に倒れてきた。僕の足の上に乗って、顔を首に埋める。涙で襟が濡れた。
こうなったとき、抱きしめ返すのが常識だからね、と言われたような気がしたから、紺野さんの背中に腕を回した。
紺野さんはまた、思いっきり泣いた。子供みたいに泣いた。僕のシャツを握りしめて、苦しそうに呼吸をしていた。
「悔しい。私は、作家じゃなくて、女として見られてた。悔しい」
そういうことか。
この時になって、ようやく紺野さんが泣いている理由が分かった。
信じていた編集者に裏切られたとは、そういうことだったのか。
侮辱を受けてきたのだ。
僕が引退宣言をしたリリちゃんに激しい怒りを抱いたように、紺野さんは、土井谷さんに怒りとやるせなさと悔しさを抱いていた。
でも、僕ができることといえば、紺野さんを抱きしめてやるくらいだった。紺野さんの気持ちの全部を理解してあげて、気の利いたことが言えるような自分じゃなかった。きっと、それができるのは、さっき電話していた友達だと思う。僕は一緒にいることしかできない。
紺野さんは今日もここで寝落ちをする。僕は彼女をソファに運んでやる。
しばらく、紺野さんの顔を見た。
人の顔をまじまじと見るのは、滅多にしない。目を合わせることも難しい。紺野さんには、何回もちゃんと人の目を見て話しなさいと言われたけれど、いつまでもできなかった。昔から、家族以外の人が怖かった。
この時、紺野さんの顔を久しぶりにちゃんと見た。
泣き疲れて寝ている紺野さんは、申し訳ないけれど、綺麗だなと思った。
リリちゃんが好き、という感情とはまた違った何かがあることに気が付いた。
でも、それを紺野さんに言うことができなかったし、僕は自分の気持ちを理解するのが苦手で、その時の感情を言葉にすることもできなかった。
週に一回は、三軒茶屋に行っているようだった。黒猫だと執筆が捗るんだ、とだけ教えてもらった。
僕は仕事で忙しかったし、紺野さんの創作活動のことも深くは聞いていなかったから、紺野さんがその時、どんな状態だったのかも知らなかった。
家に帰って、晩御飯を作って、紺野さんを呼んで、二人で静かに食べて、それぞれお風呂に入って、それぞれの部屋に戻って寝る。そんな六月だった。
紺野さんにとっての事件が起こったのは、七月の中旬だった。
紺野さんは、珍しく遅い時間に三軒茶屋に行った。夕飯もいらないとのことだったから、久しぶりに自分はカップラーメンで済ませた。紺野さんがうちに来てから、こういったものを食べる頻度が減っていた。
リリちゃんと越智さんの配信が終わって、寝ようと布団に入った時だった。スマホが震えた。
『迎え来て』
短いメッセージだった。
時計を見る。かなり遅い時間だった。そういえばまだ、紺野さんは帰ってきていない。
迎えって言われても、どこか分からなかったから、すぐに聞き返した。
『三軒茶屋駅』
世田谷は東西に走る路線は何本かあるけれど、南北に走る路線は少ない。三軒茶屋と奥沢も鉄道で結ばれていない。だから、鉄道で行くと大回りになる。バスはまだ出ている時間だった。
理由は分からないけれど、とにかく行くことにした。
家を出て、奥沢六丁目のバス停まで走って、ギリギリに乗る。人は少なかった。
次第に雨が激しくなる。もしかして、ずぶ濡れになったから傘を持ってこいと言いたかったんじゃないだろうか、などと思っていた。
三軒茶屋に着いて、バス停から少し離れたところにある駅に向かった。
紺野さんは、駅の入り口でしゃがんでいた。
べしゃべしゃになっていた。前髪からぽたぽたと雫が落ちていて、ブラウスは肌にくっついていた。
「紺野さん」
声をかけると、ゆっくりと顔を上げて、それからまた項垂れた。
「風邪引くから、帰ろう」
リュックの中に入れていたタオルを渡す。紺野さんはようやく立ち上がって、コンビニで身体を拭いた。
タクシーで奥沢まで帰ることにした。
紺野さんは家に帰ったらすぐにお風呂に入って、縁側に座った。近くに置いてあるビールは六本だった。
僕は何も言わずに、キッチンから様子を見守ることにした。
何かはあったんだろう。でも、直接聞く勇気はなかった。
三本くらい飲んだあとになって、紺野さんは大声で泣き始めた。
これまで何度か彼女が泣いているところを見たことはあるけれど、声を上げて泣いているのは初めて見た。
過呼吸になるんじゃないかと心配するくらいだった。
水を持って、紺野さんの隣に行く。何と言っていいか分からなかったから、黙って差し出して、背中を撫でてやった。
徐々に静かになって、紺野さんは持っているビールの缶を落とした。中にまだ残っていて、縁側の下を濡らしていく。
「布団で寝ようよ」
返事がなく、そのまま倒れるようにして眠った。
地面に落ちた缶を拾って、紺野さんを抱き上げた。貧弱すぎて、リビングのソファに運ぶのが精いっぱいだった。
タオルで顔を拭いてやって、押し入れにしまいこんでいたタオルケットをかけてやる。
まさか、男の人に何かされたとか――。
そう思ったけれど、本人は寝てしまったから、聞けなかった。
三軒茶屋で何が起こっていたのかは、翌日の夜になって分かった。
縁側で、またビールを飲みながら、友達と電話をしていた。たぶん、同人をしている友達。名前は知らないけれど、そういう友達がいるのは知っている。
「土井谷さんに裏切られた」
「うん、そう……。告白してきて……。そんなのもう、無理じゃない……。うん……」
じゃあね、と電話を切ったあと、紺野さんは三本目に手をかけた。そこで僕は縁側に向かった。
「飲みすぎ」
手を握ると、紺野さんは、余計に泣いた。
「飲まないと、しんどい。飲ませて」
「身体に悪いから」
「智は私の親じゃない」
「そうだけど」
「彼氏でもない」
「そうだけど。昨日からの荒れ具合は、見てて心配になる」
紺野さんは唇を噛んで、それから僕に倒れてきた。僕の足の上に乗って、顔を首に埋める。涙で襟が濡れた。
こうなったとき、抱きしめ返すのが常識だからね、と言われたような気がしたから、紺野さんの背中に腕を回した。
紺野さんはまた、思いっきり泣いた。子供みたいに泣いた。僕のシャツを握りしめて、苦しそうに呼吸をしていた。
「悔しい。私は、作家じゃなくて、女として見られてた。悔しい」
そういうことか。
この時になって、ようやく紺野さんが泣いている理由が分かった。
信じていた編集者に裏切られたとは、そういうことだったのか。
侮辱を受けてきたのだ。
僕が引退宣言をしたリリちゃんに激しい怒りを抱いたように、紺野さんは、土井谷さんに怒りとやるせなさと悔しさを抱いていた。
でも、僕ができることといえば、紺野さんを抱きしめてやるくらいだった。紺野さんの気持ちの全部を理解してあげて、気の利いたことが言えるような自分じゃなかった。きっと、それができるのは、さっき電話していた友達だと思う。僕は一緒にいることしかできない。
紺野さんは今日もここで寝落ちをする。僕は彼女をソファに運んでやる。
しばらく、紺野さんの顔を見た。
人の顔をまじまじと見るのは、滅多にしない。目を合わせることも難しい。紺野さんには、何回もちゃんと人の目を見て話しなさいと言われたけれど、いつまでもできなかった。昔から、家族以外の人が怖かった。
この時、紺野さんの顔を久しぶりにちゃんと見た。
泣き疲れて寝ている紺野さんは、申し訳ないけれど、綺麗だなと思った。
リリちゃんが好き、という感情とはまた違った何かがあることに気が付いた。
でも、それを紺野さんに言うことができなかったし、僕は自分の気持ちを理解するのが苦手で、その時の感情を言葉にすることもできなかった。