1章 紺野朱美

 何やってるんだろう、こんなところで。
 新幹線の切符はインターネットで買える。さっきも、予約状況の確認だけはした。自由席も指定席も問題なく買える。のぞみもひかりもこだまも全部がらがらだ。
 それなのに、駅近くにあるチェーン店のカフェに入って、カウンター席でだらだらとサンドイッチを齧って、アイスコーヒーを啜っていた。
 コインロッカーから引っ張り出してきたスーツケースには二日分ほどの荷物しか入っていない。
 帰らなければ。そう自分と約束したではないか。もうダメだったんだから諦めるべきだ。
 私の評価はもうこれ以上変わらない。読みにくい、何を言いたいのか分からない、面白くない。この三点に尽きる。何年もやってこれなのだから、努力で覆ることはないだろう。
 それなのに、身体が動かない。コンビニにハゲの名刺を捨てた時、原稿は捨てることができなかった。何度もスマホを見ては消した。その間にサンドイッチはなくなり、コーヒーも残り半分となる。
 大きな溜息をついて、机に肘をつき、顔を覆った。
「朱美?」
 肩を叩かれる。
 聞いた覚えのある声だった。私を心配そうに覗く誠がいた。珍しくスーツを着ている。片手にはトレーがあった。
「ま、誠……、どうして」
「いや、たまたま。本店でする出版イベントの準備でこっちまで来てたから。朱美こそどうして」
 右隣に座られ、私はぎょっとする。
「帰ろうと、思って……、福山に」
「ああ、ダメだったんだ」
 付き合ってた頃に、何度も見た反応だった。誠のその反応には、もう諦めなよ、みたいな、そんな空気が含まれている。
「帰るって、今から?」
「そう」
「戻っておいでよ」
 サンドイッチを食べながら、なんでもないように言う。あれだけ話をしたのに、またよりを戻そうと言ってくる誠に、私はうんざりした。
「それはないでしょ」
「おれのなかでは、ありになってるよ。今日ここで会えたのも、何かの縁だと思うしさ」
「何それ、気持ち悪い」
「また会いたいって思ってたよ。ブロックされてるかもしれないんだけど、何度も連絡してる」
 ブロックしたのではない。連絡用のSNSアカウントを消したのだ。もうリアルの人間関係はほとんど切れている。
 人恋しいとか、そういうのは一切なかった。ひとりでも、寂しくはなかった。書いていれば、気が紛れるから。
「何度も言うけど、誠のところには戻らない。他にいい人、見つけなよ。こんなろくでもない女なんか、やめときなさいよ」
「土井谷さんも残念がると思うよ。朱美の本、作りたいってよく言ってたから。自費出版を無理にすすめたら嫌われるから、強く言えないんだってさ」
 山河書店にときたま営業に来る、自費出版会社、太海社の人だ。土井谷雅紀、三十五歳。営業と編集の両刀の仕事人である。
 これまで何度か原稿を見てもらっている。唯一、的確なアドバイスをしてくれる人だった。
 誠のなかでは、賞は諦めて、土井谷さんに出版の手伝いをしてもらったらいいじゃん、ということになっている。
 確かに、土井谷さんが担当する本は、どれもいいものだ。アマチュアの本とは思えないものがたくさんある。山河書店にも入荷していて、売れ行きはよかった。私はそれを土井谷マジックと呼んでいる。
 でも、それでは、ダメなのだ。それでは私が満足しない。私は、私の力で、出版社の人に選ばれて、本にしたかった。
 ……まだ諦めきれてないのだろうか、私は。
 黙ってしまった私をよそに、誠は黙々と食事を続けた。完食し、コーヒーも飲み切ったあと、時計を見て立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。ほんとに、いつでも戻ってきていいから」
「いい加減にして、それはないから!」
 大きな声が出た。左隣の青年が、びくりと身体を震わせる。
 誠は肩をすくめて、トレーを持って去っていった。あっさりした反応だった。もうこれで諦めがついたのだろう。そうであってほしい。
 彼がいなくなって、ほっとする。
「すみません、大きな声を出して。驚かせました」
 一応、謝っておこうと思って、青年に声をかける。
「や……大変ですね……」
 顔を下に向けたまま、ぼそぼそと喋る人だった。大学生だろうか。
 手入れをしていなさそうな髪が首にまとわりついている。チェック柄のシャツに、ジーンズ。足元には大きなリュックがあった。
 テーブルの上に置いてあるスマホの画面が目に入ってくる。マッチングアプリだろうか。女の写真が表示されていた。可愛い系の女だった。
 それを見ては、何度も溜息をついている。振られてしまったのだろうか。
 隣でよりを戻すか戻さないかの話をして、少し申し訳ない気持ちになる。私は振った側の女だったから。
 彼の大きな溜息が嫌でも耳に入ってくる。無視しようにも、限界がくる。
「ちょっと。静かにしてくれませんか」
 キツイ言い方になってしまう。
 青年はまたびくっと身体を震わせ、こちらを見た。
 長い前髪から覗くやや大きな目。顔も何の手入れもしていないから、幼く見える。垢抜けない男だ。
 服装込みで、オタクっぽい、が第一印象だった。
「す、みません……」
「何があったのか知らないけど」
 オタク君が申し訳なさそうな顔をしているので、なんとなく話を続けてしまった。オタク君も会話が続くと思っていなかったのか、少し驚いた顔をしている。
「会う、約束をしていたんですけど」
「逃げられたんだ」
「たぶん、そうです」
 どんよりとした空気が隣から漂ってくる。
 ストローでコーヒーを吸い上げる。氷が溶けて薄くなっていて美味しくない。結露がぼたぼたとジーンズに落ちて、染みを作った。
「あなたも、さっき……かなり、落ち込んでませんでしたか。男の人が来る前……」
「まあ、そうね。落ち込んでたのかも。出版社にダメ出し食らってきたから」
「え。作家さんなんですか? 何を書くんですか? ラノベならよく読むんですけど。ウェブに出してたりするんですか?」
 うわ、と思った。この、急に距離が近くなる感じ。そうか、やっぱりこの子はオタク君なのか。
「私はラノベは書かないし、ネットにも出さないよ。文芸のほう」
「そうですか。でも、すごいですね。持ち込みに行くの。うわ、そういう人、はじめて実際に見た……すご……。同人とかやらないんですか?」
「同人なんてやらない。それにすごくないよ、何回も何回もダメ出し食らってるんだから」
 なんだこの人。初対面でも結構喋る。興味のある分野についてはべらべらと語るというオタクの特性は知っている。つまり、この青年は典型的なオタクだということだろうか。それに飲まれて、つい自分のことを喋ってしまう私もなんなんだ。
「私のことはいい。それよりさ、君、その身なりでデートに行こうとしてたの?」
「やっぱりダメでしたか」
「当たり前じゃない。なんだか見た目も喋り方もオタク臭いし。オタクだとしても、もう少し見た目はマシにしなさいよ。そのぼさぼさの髪の毛はマジでどうにかしたほうがいい。服装も、典型的なオタクじゃん。チェック柄とかさ。そりゃ、逃げられるわ。ここが東京で、個性が認められる土地だとしても、それはないわ。かなり引く」
 この時、私はオタク君に八つ当たりをしていた。自分があのハゲ編集者に雑なダメ出しをされたから。
 初対面のオタク君をけちょんけちょんにしたって、何にもならないのに。
 何やってるんだろう、こんなところで。女に逃げられたばかりの傷心中のオタク君をいじめて。
「――じゃあ、教えてくださいよ」
「は?」
「どうやったらマシになるか、教えてくださいよ。そこまで言うんなら」
 大きな声が出る。そんな声、出せるんだ。怒らせてしまったかもしれない。
「君は……時間がかかる……。君、どこに住んでるの」
「世田谷の、奥沢です。一軒家に一人で住んでます。親は北欧に移住したので、いません」
 この時、何を思ったのか、私は淡い期待を抱いた。
 まだ、諦めるには早いんじゃないかと。まだ、東京にしがみついていいのではないかと。
「じゃあ、こうしよう。私が君をいい男に仕立ててあげるから、その間、私を君の家に住まわせてほしい」
 気が付いたら、とんでもないことを口にしていた。

3/7ページ
スキ