4章 土井谷雅紀

 大学を出てから、すぐに太海社で働き始めた。
 本当は、自費出版ではなく、普通の出版社か新聞社で働きたかった。そこを中心に就活を進めていたし、小さな出版社から内定もいくつかもらっていた。
 それでも、なぜか俺は太海社を選んだ。
 あの時、どうして内定を蹴ったのか、何を思って蹴ったのか覚えていない。
 作家の夢を砕いてまで、編集がしたかったのだろうか、俺は。
 営業と編集を同時にしていたから、分からなくなってしまったのだろうか。
 何がしたくて、俺はこの仕事を選んだのだろう。
 電車に揺られながら、同人誌即売会に向かった。
 駅から出ると、潮の香りがした。海沿いまで来るのは久しぶりだった。
 流通センターで行われているそれは、数多くの同人作家と一般参加者で賑わっていた。
 自分の力で本を作り、自分の力で頒布している作家が集まっている。ここは俺が知る出版の世界とは違った。
 入口で渡されたパンフレットをもらい、桜里汐里のいるスペースを確認する。いくつかの島に分かれていて、彼女はライトノベルの島にいた。
 机の上に本を積み上げている。かなり厚い本だった。誰かに頼んだのか、自分で描いたのか分からないが、ラノベらしいイラストが表紙に印刷されている。すぐに女性向けであることが分かった。
 紺野さんとは正反対の人だなと思った。明るい髪に、女性らしいふんわりとした服。ペンネームのように、まるで春のような女性だと思った。書くものも、紺野さんとは正反対だ。彼女が紺野さんの友人だというのが信じられない。
 彼女のスペースの前で足を止める人はごくわずかで、スマホを弄ってじっとしていた。
「あの、すみません」
 声をかけると、桜里はぎょっとした。それもそうだろう。俺はスーツだ。浮いている。
「えっと」
「太海社の土井谷です。紺野さん……朱野あおさんから話を聞いていませんか」
「ああ。なんか、優しい編集者さんだとは聞いています。でも、自費出版社ですよね」
「そうですね」
「じゃあ、いいです」
 即、断られた。まあ、こうなるのはよく分かっている。彼女は自分で本を作って、自分で頒布するところまでやっているのだ。俺の力がなくても、自分で出版してしまっている。
 自費出版社の力なんか、不要なのだ。
「何かお困りでしたら、どうぞいつでも、連絡をください」
「……分かりました」
 渋々、名刺を受け取った桜里は、またスマホの画面に戻った。退屈そうだった。
 せっかく会場に来たので、他の作家にも挨拶と名刺を渡したが、どこも桜里と似たような反応をする。
 普通の出版社にスカウトされたほうがいい。そう言いたげな目で睨まれた。
 一冊も同人誌を買わずして会場を出る。
 帰りに黒猫に寄って、桜里の反応は悪かったことを黒柳に言うと、彼はいたずらをする猫のような表情をした。
「分かりませんよ。同人活動も、いろいろありますから」
「なんなんですか、いろいろって」
「いろいろですよ」
 高いワインを注文する。
 黒柳はグラスにどす黒い赤ワインを注ぎながら、歌うように言った。
「彼女、まったく本が売れないみたいで、たびたび紺野さんに愚痴を言っているのです。机の上にあった本に、新刊と書かれていましたか?」
「いや……、それは見ていなかった」
「一年ほど前に印刷したものだと思います。在庫が多くて、新しいものが刷れないって嘆いていました。思い切って、多く刷ってしまったようです」
「だったら、余計に自費出版なんてしないでしょう」
「どうでしょうかね」
 ふふ、と笑って、黒柳も飲み始めた。
 その翌日、オフィスのパソコンでメールを確認すると、初めてのアドレスからのメールがあった。
 桜里だった。
 自費出版を考えているので、詳しく話を聞かせてほしい、とのことだった。
 その気になった理由が分からない。自分で本を作れて、イベントに持っていくだけのことができるのに。何が彼女に自費出版の動機となったのだろう。
 いつものように、場所を黒猫に指定した。
 俺が黒猫に入店すると、黒柳がこちらにウインクしてきた。
 桜里は約束時間にぴったりに黒猫にやってきて、黒柳に案内されてボックス席にやってくる。
 自費出版の流れや、かかる費用を説明する。桜里はメモをしながら真剣に聞いていた。
 そのメモで、他の自費出版社と比べるのかもしれない。太海社のアピールはしておこうと思った。
「うちは、書店への営業にも力を入れているので、費用はややかかりますが、売れる機会を増やすことはできます」
「なるほど……」
「例えば都内にある山河書店なんですが、ここはうちの本だと必ず置いてくれるようになっています。独自のルートがありますから、それだけチャンスはありますよ」
 しばらく考えたあと、桜里はすぐに、頭を下げた。
 覚悟が決まっている人ほど、決断が早い。
 一応と思って鞄の中に入れておいた契約書を出しながら、俺は聞いた。
「あの、なぜご自身で本を作っているにも関わらず、うちで出版しようって思ったんですか」
「自分の力では、作品を広めることができなかったからです」
 本名を書き込みながら、桜里はゆっくりと自費出版を決めた理由を話す。
「本を作っても、全然、売れませんでした。宣伝をしても、全然でした。ウェブに無料で出しているものも、全然、ダメなんです。私の夢は、私が書いたのを、誰かに読んでもらうことなんです」
 夢。夢と言ったか、今。
 俺は作家の夢を砕いてきた男なのに、桜里は、俺が、夢を叶える人だと思っているのか。
「お金がかかりますよ。分かっていて、契約していますよね」
「分かっています。お金で叶えられるんなら、叶えてみたい」
 ペンを置いた桜里は、記入した契約書を俺に渡す。
 勝負を挑むような顔だった。
「それと、もう一つ理由があって。あおさんだって、土井谷さんが、夢を叶えてくれる人だと思っていました。何があったのかは知っています」
 心臓が跳ねる。
「いつ、お聞きに?」
「土井谷さんと会った翌日です。あなたに裏切られたって、泣きながら電話してきたんです」
「だったら、やめたほうがいいのでは」
「やめません。私、昨日、あおさんに言ってきました。私が確かめてやるって。そのままにしていたら、あおさんが可哀想だから」
「でも」
「あおさんも最初は反対しました。でも、私、怒ってるんで。私に対して、土井谷さんがちゃんと仕事をしてくれたら、あおさんは少し安心すると言っていました。他に騙されて、泣く作家が出てほしくないとあおさんは思っているんです。だから、私の夢を叶えてくれませんか。私のためにも、あおさんのためにも。その他の作家のためにも」
 つまり、この契約書は、果たし状だった。
 これで紺野さんに償え、と桜里は言っているのだ。
 契約書を受け取って、俺は頷いた。
「分かりました。では、原稿、お待ちしております」
「よろしくお願いします」
 桜里が店を出たあと、黒柳が追加のコーヒーを持ってきた。
「できると思いますか」
「何がですか」
「作家の夢を砕いてきた俺が、作家の夢を叶えてあげること、できると思いますか」
「そんなの知りませんよ。ま、一生懸命やってみたらどうですか」
 そのあと、山河書店に電話をして、村上を呼び出した。
 この前、持って行った自叙伝が売れたかどうか聞きたかったのだ。
『二冊くらい出てますね。筆者と同じように、高齢の方が買われていきました』
「そうですか」
『ゼロで返却する本が多い中、太海社の本は少しだけでも出るのが凄いですね。お仕事、頑張ってください』
 オフィスに戻って、作家にも売れたことを伝えることにした。
 すると、すぐに連絡が返ってくる。
『夢が叶いました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします』
 俺は、そのメールを何度も見て、最後はメール自体をブックマークした。

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