4章 土井谷雅紀
ここ最近、紺野さんがよく話題にあがっていたので、彼女から連絡が来た時はかなり驚いた。噂をすればなんとやら、である。
『土井谷雅紀様。新しいものが書けました。公募に送る前に、少しだけでもいいので、読んでいただけませんか。紺野朱美』
いつもと違う依頼内容だった。
こういうのは、もちろん、断ったほうがいい。なぜなら、自費出版とは関係ないからである。賞とかの話は専門外だ。
だが、会えるのなら――営業も一緒にできるのなら、という思いのほうが強く働いた。
下心が入っている。それは気付いていた。あわよくば、紺野さんともう少しいい関係になりたいという下心。それと同時に、自費出版に踏み込んでくれないかという期待。
どっちがしたいのか、俺は。紺野さんと恋愛がしたいのか。それとも営業がしたいのか。
俺はよく分からなくなっていた。
おそらく、どっちもしたかったのだろう。
俺なら村上と違ってうまくできるかもしれない。そんな自惚れ。
『分かりました。場所はいつものところでいいですね。お時間はいかがしましょうか』
『私はいつでも構いません。土井谷さんの都合のいい日時で』
いつでも構わないということは、彼女はまだ働いていないのか。
『スケジュールが確定でき次第、連絡を送りますので、お待ちください』
メールでの堅苦しいやり取り。紺野さんの連絡先はこれしか知らない。
紺野さんは分かっているはずだ。俺が自費出版会社の人間だってこと。俺に読ませるということは営業されるということ。分かっていて、なぜ俺に連絡を寄越してきたのだろう。彼女はこれまで何度も営業を断り続けてきたし、賞を一つでもいいからとりたいという気持ちも強い。自費出版にはまだ傾いていないはずだ。
俺が無茶な営業をしないのは、紺野さんに嫌われて、営業のチャンスを失うことを恐れているからだ。別に、紺野さんに優しくしてきたわけではない。紺野さんだってそれは理解しているはずなのに。
スケジュール帳を見ながら考えてみるが、公募に送る前の原稿を読んでほしいと言っている理由が分からない。
下心が働きそうになる。俺に会いたいからとかそんな理由で、紺野さんが連絡を寄越すはずがない。
紺野さんに空いている日を伝えて、スマホを持ったまま椅子の背もたれに全体重を預けた。
「ひっくり返りますよ」
向かいのデスクの女性に声をかけられる。俺の後輩の営業ちゃんだった。この春に開催した賞で得た作家の連絡先に、何回も何回も電話をかけても一件も仕事を取れていない子だった。
「なんなんですか。営業実績ナンバーワンの男でも悩みはあるって言いたいんですか」
「別にそういうわけじゃない」
「じゃあなんなんですか。大きな溜息をつかれると、苛々します。こっちが溜息つきたいです」
「君はテンプレ営業文を喋るのをやめたほうがいい」
「いちいち作品読んで、電話かけろってことですか。そんなの、やってられません。長編ばかりなのに。コスパ悪すぎです」
もう辞めてやる。こんなところ。そんな声が聞こえてきそうだった。
その数日後、彼女は辞めた。誰も引き止めなかった。
一体何なのだろう、この仕事は。作家の夢を砕いて、金を得る。無駄な営業ばかりに時間を費やす。本ができたとしても、売れるかどうかは分からない。
やる気をなくすのも分かる。俺だって、営業が下手だったら、すぐに辞めていただろう。
紺野さんへの営業を成功させたら、分かるのだろうか。普通の出版社ではなく、自費出版社で働いている意味が。
黒猫へ行く日は、随分と雨が降っていた。昼なのにあたりは薄暗い。そろそろ七月だ。梅雨が明けてもいい頃なのに、明ける気配がなかった。
黒柳は別の客と談笑していた。目が合うと、ごゆっくり、とだけ言ってくる。
窓際のボックス席に入って、紺野さんを待った。注文をしていないのに、黒柳が勝手にコーヒーを寄越してきた。もちろん、何かは頼むつもりなのだが、黒柳はいつもこの店で一番高いコーヒーを寄越してくる。長時間居座るのだから、当たり前だろうという顔をする。まあ仕方ない。それで助けられている部分はあるし、俺はケチじゃない。
今年の紺野さんも、いつもの黒のブラウスにジーンズ。
髪が少しだけしっとりとしていた。湿気を含んでも乱れないのが、さすがだなと思う。
少しだけ、本当に少しだけだが、顔がふっくらとしているような気もする。それでも美人と言えるほどに細いのだが。前回会った時が痩せすぎていたのだろうか。
「すみません。バスが遅れてしまって」
「いいですよ。雨ですから」
どうぞ、と声をかけると、紺野さんは座って原稿を取り出した。
今回は短いものだからということで、データは送られていなかった。今から初めて読むことになる。
「珍しいですね。公募前に読んでほしいって依頼」
「他に頼れる人がいなくて。分かっています、自費出版の土井谷さんに頼むのは違うって。分かっているんですけど……」
「大丈夫です。営業はしませんから。まあ、いつかは、一冊だけでもいいから、紺野さんの本、作ってみたいんですけどね」
白い彼女の頬が、うっすらと染まった気がする。
彼女は褒められることに慣れていない。賞には落ちて、持ち込みでも散々に言われ続けている彼女は、誰にも褒められていない。だから、少しでも優しくすると、すぐに照れる。
新作を読みながら、自分の言葉を反芻した。
本当に、俺は紺野さんの本を心から作りたいと思っているのだろうか。
ただの攻略対象となっているのではないのか。紺野さんというバリアの固い作家に自費出版を決断させたら、俺の営業技術がまた一つ高くなって、太海社で働いている理由も分かる。だから、攻略に躍起になっているだけではないのか。
彼女の小説は拙い。この短編だって、面白味がない。
彼女が言いたいことは理解できる。だが、構成上の問題が多すぎるし、登場人物の魅力も全然足りていない。
手直しするには、時間と手間がかかる。営業するには、もう少しまともなものを書く作家にしたほうがいいのは明らかだ。それでも彼女にこだわっているのは、俺のプライドのせいなのだろうか。
緊張でいっぱいの彼女の顔を見る。次に、胸元を見る。
分からなくなってくる。一体どうして俺はここに座っているのか。
ただ、彼女に会いたかっただけなのか。俺にしか見せない、この強張った表情と、褒められて照れる表情を見たくて、クソ高いコーヒーとワインに金を払っているのか。
何をしているんだ、ここで、俺は。
「土井谷さん」
はっとする。
「難解でしたか。それとも、もう、日本語にすらなっていませんか、私の書くものは」
「いや、すみません。いつもはゆっくりと考えて、いろいろとお伝えしているので。すぐに言葉にできなくてごめんなさい」
もう一度、原稿に目を落とす。
短編だから、読むのには時間がかからない。女性と付き合うことができない若いオタクの話だった。人間に対して恐怖心のある主人公が、数人の女と関わったのちに、恋愛が全てではないことに気付く話だった。
紺野さんにしては珍しく、男が主人公の作品だった。
「紺野さんらしくて、でも、いつもと違うから新鮮でした」
いつもだったら、これで紺野さんは顔の緊張を緩ませるのだが、今日は何かが違った。
言ってはならないことを言ったような、そんな空気を感じる。
「土井谷さんはいつも言いますけど、その、私らしいって、何ですか」
「一直線なんですよ。これ、と決めたものに対して」
「……土井谷さんは、何か、勘違いされています。別に私は、一直線ではありません。作品も、そんなつもりで書いていません。まあ、つまり、伝わっていないってことですね。ありがとうございます。もう少しなんとかします」
「待ってください。作家によっては癖もありますから」
原稿を俺から取ろうとする紺野さんの右手を握った。紺野さんは咄嗟に手を引こうとする。
「……失礼」
「いえ」
さっと手を引いたあと、左手で右手首を握った。
「紺野さんの書くものは、ひたむきさが癖として出ているのかもしれません。あなたはご自身に厳しいですし、そういうところが表れているんだと思っているんです。悪いところではなく、いいところですよ」
「だとしても、今の私が書きたいのは、そういうことじゃないんです。これまでの私はそうだったかもしれませんが、今の私は、違うんです」
何か、彼女の中で生き方が変わったのだろう。それが書ききれなくて、困っているのだ。
「何かあったんですか?」
「特に何もないです。書きたいことが、変わったってだけです」
「そうですか」
紺野さんは俺から原稿を奪い、鞄の中に突っ込んだ。財布からコーヒー代と、俺へのチップを出す。
「良かったら、また一週間後に、原稿を見せていただけませんか」
「何回も言いますが、自費出版する気持ちはありません。お金もないですし」
「大丈夫ですよ。営業はしません。紺野さんの成長が見たいんです」
紺野さんは少しだけ考えて、それから分かりましたとだけ言って帰って行った。
全く自分でも呆れる。いつから俺は嘘を綺麗につけるようになったのだろう。
『土井谷雅紀様。新しいものが書けました。公募に送る前に、少しだけでもいいので、読んでいただけませんか。紺野朱美』
いつもと違う依頼内容だった。
こういうのは、もちろん、断ったほうがいい。なぜなら、自費出版とは関係ないからである。賞とかの話は専門外だ。
だが、会えるのなら――営業も一緒にできるのなら、という思いのほうが強く働いた。
下心が入っている。それは気付いていた。あわよくば、紺野さんともう少しいい関係になりたいという下心。それと同時に、自費出版に踏み込んでくれないかという期待。
どっちがしたいのか、俺は。紺野さんと恋愛がしたいのか。それとも営業がしたいのか。
俺はよく分からなくなっていた。
おそらく、どっちもしたかったのだろう。
俺なら村上と違ってうまくできるかもしれない。そんな自惚れ。
『分かりました。場所はいつものところでいいですね。お時間はいかがしましょうか』
『私はいつでも構いません。土井谷さんの都合のいい日時で』
いつでも構わないということは、彼女はまだ働いていないのか。
『スケジュールが確定でき次第、連絡を送りますので、お待ちください』
メールでの堅苦しいやり取り。紺野さんの連絡先はこれしか知らない。
紺野さんは分かっているはずだ。俺が自費出版会社の人間だってこと。俺に読ませるということは営業されるということ。分かっていて、なぜ俺に連絡を寄越してきたのだろう。彼女はこれまで何度も営業を断り続けてきたし、賞を一つでもいいからとりたいという気持ちも強い。自費出版にはまだ傾いていないはずだ。
俺が無茶な営業をしないのは、紺野さんに嫌われて、営業のチャンスを失うことを恐れているからだ。別に、紺野さんに優しくしてきたわけではない。紺野さんだってそれは理解しているはずなのに。
スケジュール帳を見ながら考えてみるが、公募に送る前の原稿を読んでほしいと言っている理由が分からない。
下心が働きそうになる。俺に会いたいからとかそんな理由で、紺野さんが連絡を寄越すはずがない。
紺野さんに空いている日を伝えて、スマホを持ったまま椅子の背もたれに全体重を預けた。
「ひっくり返りますよ」
向かいのデスクの女性に声をかけられる。俺の後輩の営業ちゃんだった。この春に開催した賞で得た作家の連絡先に、何回も何回も電話をかけても一件も仕事を取れていない子だった。
「なんなんですか。営業実績ナンバーワンの男でも悩みはあるって言いたいんですか」
「別にそういうわけじゃない」
「じゃあなんなんですか。大きな溜息をつかれると、苛々します。こっちが溜息つきたいです」
「君はテンプレ営業文を喋るのをやめたほうがいい」
「いちいち作品読んで、電話かけろってことですか。そんなの、やってられません。長編ばかりなのに。コスパ悪すぎです」
もう辞めてやる。こんなところ。そんな声が聞こえてきそうだった。
その数日後、彼女は辞めた。誰も引き止めなかった。
一体何なのだろう、この仕事は。作家の夢を砕いて、金を得る。無駄な営業ばかりに時間を費やす。本ができたとしても、売れるかどうかは分からない。
やる気をなくすのも分かる。俺だって、営業が下手だったら、すぐに辞めていただろう。
紺野さんへの営業を成功させたら、分かるのだろうか。普通の出版社ではなく、自費出版社で働いている意味が。
黒猫へ行く日は、随分と雨が降っていた。昼なのにあたりは薄暗い。そろそろ七月だ。梅雨が明けてもいい頃なのに、明ける気配がなかった。
黒柳は別の客と談笑していた。目が合うと、ごゆっくり、とだけ言ってくる。
窓際のボックス席に入って、紺野さんを待った。注文をしていないのに、黒柳が勝手にコーヒーを寄越してきた。もちろん、何かは頼むつもりなのだが、黒柳はいつもこの店で一番高いコーヒーを寄越してくる。長時間居座るのだから、当たり前だろうという顔をする。まあ仕方ない。それで助けられている部分はあるし、俺はケチじゃない。
今年の紺野さんも、いつもの黒のブラウスにジーンズ。
髪が少しだけしっとりとしていた。湿気を含んでも乱れないのが、さすがだなと思う。
少しだけ、本当に少しだけだが、顔がふっくらとしているような気もする。それでも美人と言えるほどに細いのだが。前回会った時が痩せすぎていたのだろうか。
「すみません。バスが遅れてしまって」
「いいですよ。雨ですから」
どうぞ、と声をかけると、紺野さんは座って原稿を取り出した。
今回は短いものだからということで、データは送られていなかった。今から初めて読むことになる。
「珍しいですね。公募前に読んでほしいって依頼」
「他に頼れる人がいなくて。分かっています、自費出版の土井谷さんに頼むのは違うって。分かっているんですけど……」
「大丈夫です。営業はしませんから。まあ、いつかは、一冊だけでもいいから、紺野さんの本、作ってみたいんですけどね」
白い彼女の頬が、うっすらと染まった気がする。
彼女は褒められることに慣れていない。賞には落ちて、持ち込みでも散々に言われ続けている彼女は、誰にも褒められていない。だから、少しでも優しくすると、すぐに照れる。
新作を読みながら、自分の言葉を反芻した。
本当に、俺は紺野さんの本を心から作りたいと思っているのだろうか。
ただの攻略対象となっているのではないのか。紺野さんというバリアの固い作家に自費出版を決断させたら、俺の営業技術がまた一つ高くなって、太海社で働いている理由も分かる。だから、攻略に躍起になっているだけではないのか。
彼女の小説は拙い。この短編だって、面白味がない。
彼女が言いたいことは理解できる。だが、構成上の問題が多すぎるし、登場人物の魅力も全然足りていない。
手直しするには、時間と手間がかかる。営業するには、もう少しまともなものを書く作家にしたほうがいいのは明らかだ。それでも彼女にこだわっているのは、俺のプライドのせいなのだろうか。
緊張でいっぱいの彼女の顔を見る。次に、胸元を見る。
分からなくなってくる。一体どうして俺はここに座っているのか。
ただ、彼女に会いたかっただけなのか。俺にしか見せない、この強張った表情と、褒められて照れる表情を見たくて、クソ高いコーヒーとワインに金を払っているのか。
何をしているんだ、ここで、俺は。
「土井谷さん」
はっとする。
「難解でしたか。それとも、もう、日本語にすらなっていませんか、私の書くものは」
「いや、すみません。いつもはゆっくりと考えて、いろいろとお伝えしているので。すぐに言葉にできなくてごめんなさい」
もう一度、原稿に目を落とす。
短編だから、読むのには時間がかからない。女性と付き合うことができない若いオタクの話だった。人間に対して恐怖心のある主人公が、数人の女と関わったのちに、恋愛が全てではないことに気付く話だった。
紺野さんにしては珍しく、男が主人公の作品だった。
「紺野さんらしくて、でも、いつもと違うから新鮮でした」
いつもだったら、これで紺野さんは顔の緊張を緩ませるのだが、今日は何かが違った。
言ってはならないことを言ったような、そんな空気を感じる。
「土井谷さんはいつも言いますけど、その、私らしいって、何ですか」
「一直線なんですよ。これ、と決めたものに対して」
「……土井谷さんは、何か、勘違いされています。別に私は、一直線ではありません。作品も、そんなつもりで書いていません。まあ、つまり、伝わっていないってことですね。ありがとうございます。もう少しなんとかします」
「待ってください。作家によっては癖もありますから」
原稿を俺から取ろうとする紺野さんの右手を握った。紺野さんは咄嗟に手を引こうとする。
「……失礼」
「いえ」
さっと手を引いたあと、左手で右手首を握った。
「紺野さんの書くものは、ひたむきさが癖として出ているのかもしれません。あなたはご自身に厳しいですし、そういうところが表れているんだと思っているんです。悪いところではなく、いいところですよ」
「だとしても、今の私が書きたいのは、そういうことじゃないんです。これまでの私はそうだったかもしれませんが、今の私は、違うんです」
何か、彼女の中で生き方が変わったのだろう。それが書ききれなくて、困っているのだ。
「何かあったんですか?」
「特に何もないです。書きたいことが、変わったってだけです」
「そうですか」
紺野さんは俺から原稿を奪い、鞄の中に突っ込んだ。財布からコーヒー代と、俺へのチップを出す。
「良かったら、また一週間後に、原稿を見せていただけませんか」
「何回も言いますが、自費出版する気持ちはありません。お金もないですし」
「大丈夫ですよ。営業はしません。紺野さんの成長が見たいんです」
紺野さんは少しだけ考えて、それから分かりましたとだけ言って帰って行った。
全く自分でも呆れる。いつから俺は嘘を綺麗につけるようになったのだろう。