4章 土井谷雅紀

 山河書店にできたての本の見本を持って行った。書店に置くのもこちらの仕事に含まれているからである。
 今回は自叙伝だったため、担当の村上に話をすることになる。
 紺野さんの元彼だ。中肉中背の、平凡な顔立ちの男である。だからこそ『山河書店』と印字された深緑のエプロンと黒縁眼鏡が似合っていた。
 彼はワゴンに入っている新刊を並べていた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは土井谷さん。新しい本ですか」
 ワゴンを邪魔にならないところまで押して、村上は俺をバックヤードに案内する。別に長い話をしに来たわけではないのだが、彼は丁寧に対応してくれる。
 個人が自費出版本を書店に並べようとすると、かなり難しいし、手間だ。それをこちらが金をもらって代わりにやっている。
 この山河書店は、大抵の本は置いてくれる。だが、売れるかどうかは、内容次第。
 村上は見本をぱらぱらとめくる。
「売れそうですか」
「太海社の本は、どれもデザインが素晴らしいですよね。でも、自叙伝的なものは、かなりキャッチーじゃないと売れませんからねえ。著名人でなければ売れないこともしばしばあります。こういう本はなかなか……」
「ですよね。まあ、置いてくれるだけでいいので。残ったら回収します」
 これを書いたあの女性は、売れると思って自費出版に踏み切ったのか、それとも本になればいいと思って踏み切ったのか、分からなかった。
 書店に置いてみませんかと言えば、すぐにそうすると決めたし、部数も多めでという話だった。
 本人がその気ならば、こちらは何も言わない。売れないと分かっていても。選択肢を提供しただけで、こうすると決めて金を出したのは作家のほうである。
 印刷所から直で本が届くようにすると連絡をし、オフィスに戻ろうと立ち上がったところで、村上は聞いてきた。
「そういえば、土井谷さん、朱美のはまだ読んでるんですか」
「去年の夏に、一度、新作を読ませてもらいましたよ」
「その時、まだ東京にいるって話、してました?」
 なんだ。知らないのか、村上は。別れたあと、ブロックでもされたのだろうか。紺野さんだったらありえそうな話だ。
「奥沢に住んでいるって話でしたが、それがどうかしましたか」
「奥沢?」
「世田谷の町です」
「世田谷? 仕事辞めたのに、どこにそんな金が……。というか、福山に帰るって話じゃ」
 本当に何も知らないらしい。
 村上の話によると、去年の三月に別れたあと、紺野さんとは連絡がついていないという。夏に一度、新宿で会ったらしいのだが、そこで復縁を試みても失敗。
 黒柳の話と合わせると、紺野さんは、新宿で村上に会ったあとに、たまたま出会った人の一軒家に上がり込んでいるということになる。
 その、たまたま出会った人というのがまだよく分からないのだが、俺が追えるのはここまでだろう。あとは本人に聞かないと分からない。
「まだ作家になることを諦めてなかったんですね、彼女」
「諦めるとかじゃないと思いますよ。書かずにいられない人なんです。アマチュアでも、そういう人、よくいるんですよ」
「そうですか。おれには、理解するのが難しかったです。本を売る人なのにね」
「村上さんが振られたんですか」
「書くことに集中したいからって言って、出ていきました。そもそも好きじゃなかったって」
「紺野さんらしいですね」
「なんで土井谷さんは分かるんですか。おれには理解できません。作家になるためには、一人でいる必要があるんですか」
 村上は未練たっぷりだった。
 どうして物書き業と恋愛を一緒くたにして考えるのか。村上はそう言いたいのだ。
 それらは別のことじゃないかと。
 それ以前に、紺野さんは村上に対して、愛情がなかったというのが答えなのだが、村上はそれは考えていない。
 執筆に集中したいから、は半分本音で、半分口実だろう。
 確かに、紺野さんは男から見たらとても魅力的だと思う。
 まず胸がでかい。黒のブラウスはゆとりのあるものを着ているが、それでも強調される胸はついつい見てしまいそうになる。紺野さんはそれをかなり気にしていて、隠そうとして腕を胸に寄せる癖がある。もちろん胸も寄せられる。その癖がなんともいやらしいのだ。本人は自覚していないらしいが。
 顔もいい。背もそこそこある。細い。少しきつい性格をしているが、基本的にはまっすぐなので分かりやすい。
 村上が未練をずっと抱いているのも分かる。紺野さんを抱いたことがある村上が羨ましいと何度も思った。
 俺だって、もし編集者という立場じゃなかったら、すぐにでも告白なりなんなりしていただろう。村上と別れた今ならなおさらだ。
「別の人と、一緒に住んでいるみたいですよ」
「え」
「一軒家の部屋を貸してもらっているらしいです。誰かは知らないんですけど」
「男か女かもですか」
「どちらにせよ、紺野さんのことだから、村上さんのところには戻らないような気もします。この前読ませてもらった新作が、一人で生きていく強かな女の話だったので。紺野さん本人が、一人で生きていきたいと思っていたのでしょう」
 ショックを受けている顔を見せる村上を見て、少し、自分が優位に立ったような感覚がした。俺はまだ、彼女と繋がりがあるんだぞと。
 また来ます、とだけ言って、店を出る。
 どうせ村上は、紺野さんに利用されていたのだ。好きでもない人と付き合うというのは、そういうことだ。世間体のために彼氏がいたほうが便利だったからとか、そういう理由なのだろう。
 そういうことができてしまうのも、彼女らしいというか。
 ここまで彼女のことを理解していて、自分から連絡が取れないのが悔しい。
 
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