4章 土井谷雅紀
「結局、土井谷さんは、私の作品を利用していたってことですか」
紺野さんは、泣きそうな顔をして、俺に聞いてきた。
「違う、そういうわけでは」
「もういいです。もう関わらないでください。作品にも、私にも。土井谷さんが、そういう編集者だと見抜けなかった私が馬鹿でした」
冷たく言い放たれた。
俺は紺野さんに、何をしてほしかったのだろう。
紺野さんに、どうなってほしくて、この仕事をしていたのだろう。
なぜ、作家の夢を壊してまで、この仕事をしているのだろう。
分からなくなったから、俺は、別の作家に答えを求めた。
◆
校正チームが真っ赤にした原稿用紙をテーブルの上に置いた。
「では、これを締切までに直してくださいね。データはメールで送信してくださったらいいので」
頭を何回も下げ、分かりました、という高齢の女性。白髪が多く、頬もたるんでいるが、顔はやる気に満ち溢れている。
「担当が土井谷さんで良かったです。またよろしくお願いします」
そう言って、彼女はカフェ黒猫を後にした。梅雨。薄暗い外は土砂降りだった。原稿がべちゃべちゃにならなければいいのだが。
彼女は自身の人生を本にしたいと、太海社に連絡を寄越してきた。営業をせずとも、自分から本にすることを望んでやってきた良客だった。今回の修正で、原稿は完成するはずだ。もう少しで本になる。
本当はデータで送り返せば済む話ではあるのだが、こうやって顔を合わせて打ち合わせをするのがいいのだ。
もしかしたら、この一冊で終わらず、次もあるかもしれない。作家をその気にさせるのが、俺の仕事である。
今日の仕事はこれで最後だった。コーヒーを追加注文する。
「順調そうで何よりです」
店主の黒柳が笑顔を貼り付けて、コーヒーを持ってくる。本当に何を考えているか分からない男だ。
コーヒーはうまいのだが、影でこっそり毒を入れていそうな人物だった。甘いマスクもあり、女性には人気が高いらしいが、俺はそうは思わない。
「黒柳さんが彼女に太海社を薦めてくれたからですよ」
「それは土井谷さんがうちをご贔屓にしてくださっているからです」
あはは、と俺たちは笑う。
別に協力関係にあるわけではないが、気が付いたらそうなっていた。
彼が薦めてくれたから、うちを選んでくれる客もいる。
自費出版は悪く思われがちだ。ぼったくりとも言われる。まあ、俺も、そう思うことは何度もあるのだが、マイナスなイメージを世間に植え付けているのはたいていは下手くそな営業マンのせいだ。下手くそな営業マンが作家の自尊心を傷つけるのが悪い。ぼったくりをするのであれば、もっと上手に営業すべきだ。
本当は賞に選ばれたかった。本当は出版社の人を唸らせたかった。本当は、選ばれて作家になりたかった。
そういう作家たちの夢を砕きながら、俺たちは営業しているのだ。お前はもう普通に出版するのは無理だから、うちで自費出版しないかと。
だから、適切な配慮を伴った営業が必要なのだ。すぐに客を掴もうとも思っていない。
俺の長期目標は、紺野朱美――朱野あおに自費出版させることだった。年に一回か二回ほど、新作を読ませてくれるアマチュア作家だった。
「そういえば、紺野さんはまだここに通っていますか」
「だいぶ来る頻度が高くなりました。住居も変わったみたいですよ」
「それは聞いてない」
「去年の夏に土井谷さんと一度打ち合わせをしていたでしょう。その時には既に彼氏と別れて、住居を変えていたみたいです」
「……ああ。あの時か」
もうほぼ一年前の話じゃないか。前の新作はあまりよくなかった。紺野さんの中で書きたいことが溢れすぎていて、一本の小説の中で消化できていなかった。
彼女はいつだってそうだ。書きたいことが多すぎて、まとめきれていない。それが致命的だった。
書きたいことが多いので、ネタが尽きないのはいいことだった。だから、彼女を自費出版させる気にすれば、きっと良客になってくれると俺は見込んでいた。
「まだ書いているんならよかった」
「土井谷さんが会いたいって思っていること、伝えたほうがいいですか」
「いや、それはいい。たぶんまた何らかの賞に送って、落ちて、俺のところに来るから」
「随分と自信たっぷりですねえ」
「今のままじゃ、どこに送ったって無理だよ、彼女は」
「でも、仕事も辞めてますよ。資金、ないんじゃないですか?」
「そうなんですか? まだ東京にはいるんですよね」
「奥沢に住まいを移しています。たまたま出会った方の一軒家にタダで住まわせてもらっているって話でした」
「なるほど、そうですか」
紺野さんの前の彼氏とは、仕事で少しだけ付き合いがある。もう少し、話を聞いてみてもいいな。
「そろそろお酒を提供する時間ですね。仕事が終わったのなら、一杯どうです?」
コーヒーが終わったところで、黒柳は、ワインのボトルとグラスを持ってきた。帰れなくなるとやんわりと断るものの、ほぼ無理矢理に注がれる。
こういうところが黒柳さんの悪いところなのだが、あまり人のことは言えなかった。
俺だって、やっていることは彼と一緒だった。
払う予定のなかったところに金を使わせる。せっかくなので、もっと刷ってみてはと悪魔のように囁く。そうやって俺たちは稼いでいる。
俺の営業は、黒柳がいてこそな部分もある。結局、かなり飲んで、黒柳さんに多めの金を渡した。
彼は、やっぱり飲み物に毒か何かを仕込んでいるような気がした。
紺野さんは、泣きそうな顔をして、俺に聞いてきた。
「違う、そういうわけでは」
「もういいです。もう関わらないでください。作品にも、私にも。土井谷さんが、そういう編集者だと見抜けなかった私が馬鹿でした」
冷たく言い放たれた。
俺は紺野さんに、何をしてほしかったのだろう。
紺野さんに、どうなってほしくて、この仕事をしていたのだろう。
なぜ、作家の夢を壊してまで、この仕事をしているのだろう。
分からなくなったから、俺は、別の作家に答えを求めた。
◆
校正チームが真っ赤にした原稿用紙をテーブルの上に置いた。
「では、これを締切までに直してくださいね。データはメールで送信してくださったらいいので」
頭を何回も下げ、分かりました、という高齢の女性。白髪が多く、頬もたるんでいるが、顔はやる気に満ち溢れている。
「担当が土井谷さんで良かったです。またよろしくお願いします」
そう言って、彼女はカフェ黒猫を後にした。梅雨。薄暗い外は土砂降りだった。原稿がべちゃべちゃにならなければいいのだが。
彼女は自身の人生を本にしたいと、太海社に連絡を寄越してきた。営業をせずとも、自分から本にすることを望んでやってきた良客だった。今回の修正で、原稿は完成するはずだ。もう少しで本になる。
本当はデータで送り返せば済む話ではあるのだが、こうやって顔を合わせて打ち合わせをするのがいいのだ。
もしかしたら、この一冊で終わらず、次もあるかもしれない。作家をその気にさせるのが、俺の仕事である。
今日の仕事はこれで最後だった。コーヒーを追加注文する。
「順調そうで何よりです」
店主の黒柳が笑顔を貼り付けて、コーヒーを持ってくる。本当に何を考えているか分からない男だ。
コーヒーはうまいのだが、影でこっそり毒を入れていそうな人物だった。甘いマスクもあり、女性には人気が高いらしいが、俺はそうは思わない。
「黒柳さんが彼女に太海社を薦めてくれたからですよ」
「それは土井谷さんがうちをご贔屓にしてくださっているからです」
あはは、と俺たちは笑う。
別に協力関係にあるわけではないが、気が付いたらそうなっていた。
彼が薦めてくれたから、うちを選んでくれる客もいる。
自費出版は悪く思われがちだ。ぼったくりとも言われる。まあ、俺も、そう思うことは何度もあるのだが、マイナスなイメージを世間に植え付けているのはたいていは下手くそな営業マンのせいだ。下手くそな営業マンが作家の自尊心を傷つけるのが悪い。ぼったくりをするのであれば、もっと上手に営業すべきだ。
本当は賞に選ばれたかった。本当は出版社の人を唸らせたかった。本当は、選ばれて作家になりたかった。
そういう作家たちの夢を砕きながら、俺たちは営業しているのだ。お前はもう普通に出版するのは無理だから、うちで自費出版しないかと。
だから、適切な配慮を伴った営業が必要なのだ。すぐに客を掴もうとも思っていない。
俺の長期目標は、紺野朱美――朱野あおに自費出版させることだった。年に一回か二回ほど、新作を読ませてくれるアマチュア作家だった。
「そういえば、紺野さんはまだここに通っていますか」
「だいぶ来る頻度が高くなりました。住居も変わったみたいですよ」
「それは聞いてない」
「去年の夏に土井谷さんと一度打ち合わせをしていたでしょう。その時には既に彼氏と別れて、住居を変えていたみたいです」
「……ああ。あの時か」
もうほぼ一年前の話じゃないか。前の新作はあまりよくなかった。紺野さんの中で書きたいことが溢れすぎていて、一本の小説の中で消化できていなかった。
彼女はいつだってそうだ。書きたいことが多すぎて、まとめきれていない。それが致命的だった。
書きたいことが多いので、ネタが尽きないのはいいことだった。だから、彼女を自費出版させる気にすれば、きっと良客になってくれると俺は見込んでいた。
「まだ書いているんならよかった」
「土井谷さんが会いたいって思っていること、伝えたほうがいいですか」
「いや、それはいい。たぶんまた何らかの賞に送って、落ちて、俺のところに来るから」
「随分と自信たっぷりですねえ」
「今のままじゃ、どこに送ったって無理だよ、彼女は」
「でも、仕事も辞めてますよ。資金、ないんじゃないですか?」
「そうなんですか? まだ東京にはいるんですよね」
「奥沢に住まいを移しています。たまたま出会った方の一軒家にタダで住まわせてもらっているって話でした」
「なるほど、そうですか」
紺野さんの前の彼氏とは、仕事で少しだけ付き合いがある。もう少し、話を聞いてみてもいいな。
「そろそろお酒を提供する時間ですね。仕事が終わったのなら、一杯どうです?」
コーヒーが終わったところで、黒柳は、ワインのボトルとグラスを持ってきた。帰れなくなるとやんわりと断るものの、ほぼ無理矢理に注がれる。
こういうところが黒柳さんの悪いところなのだが、あまり人のことは言えなかった。
俺だって、やっていることは彼と一緒だった。
払う予定のなかったところに金を使わせる。せっかくなので、もっと刷ってみてはと悪魔のように囁く。そうやって俺たちは稼いでいる。
俺の営業は、黒柳がいてこそな部分もある。結局、かなり飲んで、黒柳さんに多めの金を渡した。
彼は、やっぱり飲み物に毒か何かを仕込んでいるような気がした。