1章 紺野朱美

 クーラーが効いているはずなのに、むしむしとした空気が立ち込めている。古い扇風機がカクカクと首を振っていた。頼りない扇風機だ。私の元には風が届かない。
 新宿にある出版社まで持ち込みに来ていた。新宿駅のコインロッカーには、福山に帰るための荷物が入っている。これでダメだったら、すぐに東京駅まで行って新幹線の切符を買って帰るつもりだった。全席指定の期間ではないから、自由席がすぐ取れるだろう。
 アパートも既に引き払っている。もう帰る場所は東京にはない。
 結局、公募のほうはダメだった。発表があったのは七月の頭。朱野あおの名前はなかった。
 打ちひしがれている時間も惜しく、自分のペンネームがないことを確認してすぐにこの出版社に連絡を入れた。
 フロアの一画がパーテーションで仕切られており、ソファと扇風機が置かれていた。ソファも古く、腰かけると埃のにおいがした。
 ボロボロなのには理由がある。この出版社は歴史のあるところだ。私の好きな硬派で品のある物語を数多く出版している。
 どうせダメなら、最後は、憧れの出版社に見てもらおう。そう思ってここに決めた。
 編集者から何か具体的なアドバイスをもらえるんじゃないかと少し期待している部分もある。編集者にも当たりはずれがあるのだが、この出版社なら一流の編集者に見てもらえるのではないかと思った。まあ、ダメだったら帰るのだが。
 服装はいつもと同じ、長袖の黒のブラウスとジーンズ。袖をめくり、腕時計を見る。もう約束の時間は過ぎていた。
 歴史ある出版社も、約束の時間に遅れることがあるのだなあと、この時はまだ呑気に思っていた。
 それが十分、二十分、三十分と増え続けるごとに、呑気ではいられなくなる。今まで何度か持ち込みをしたことがあるが、約束に遅れる編集者は、的外れなことを言ってきて、何の参考にもならなかった。
 何を言いたいのか分からない、文章が下手、面白くない。この三点セットで片づけられる。
 今回も、きっとそんな人が来るのだと、待っている間から絶望した。
 これだったら、まだ自費出版社でも気の利いたことや、的確なアドバイスを言ってくれる編集者のほうがマシである。
 苛立ちがピークに達したとき、ようやく担当の編集者が来る。ハゲの頭に、大粒の汗が浮かんでいた。
「いやあ、すみません、だいぶ遅くなりました」
 へらへらとした顔に文句を言いたいところだったが、ぐっと我慢する。
 向かいのソファにどさりと座る。彼だけがしっかりと扇風機の風を浴びていた。
「いえ、こちらこそ、お忙しい時にすみません」
 名刺が渡されたが、さっと眺めて脇に置いた。
 がさごそと茶封筒から原稿が出される。私がプリントアウトして一週間前にここに送ったものだ。茶封筒は彼の手汗で湿っていた。
「長袖で暑くないんですか?」
 視線が私の胸元に動いた。
 おしゃれにも興味がないが、そういう視線に晒されるのも嫌だった。だから、ゆったりとした長袖のブラウスを着ている。
 平均より大きい胸は、男によく注目される。それがとにかく嫌だった。そんな目で見てこないでほしい。気持ちが悪い。
 ああ、この編集者は、やっぱりダメだ。話はもう聞かなくていいから、早くここから出たい。
 しかし、作品のことになったら、もう少しまともな会話ができるだろう。まだダメだと決めつけるのは早計だ。そう思って我慢する。
「日に焼けるので」
「そうですか」
 へらへらした彼は、べたべたの手で触った原稿を私に返した。
 何のメモもされていない、まっさらの原稿だった。
「それで、そのお……」
 ぽりぽりとハゲの頭をひっかく。その反応は今まで何度も見てきた。もう答えは分かっている。気を遣ってもらう必要はなかった。
「はっきり仰ってくれていいです」
 そこで、扇風機が切れる。自動オフが働いたのだろう。彼はすみませんと言って、扇風機のボタンを押した。また彼だけに生ぬるい風が当たる。
「紺野朱美さん……朱野あおさんですか。これはさすがに出版できませんよ」
 深く息を吸って、吐いた。そうでもしないと、何か、大切な糸が切れてしまいそうだった。
「理由を教えていただけませんか。今後の参考にしますので」
「えっと……」
「お気遣いは不要ですから」
 ソファの背もたれに身体を預けた彼は、胸ポケットにあった扇子で顔を扇ぎはじめた。なかなか横柄な態度である。私が強く出たからか。
「まず内容が、うちにふさわしくない。それに、前半と後半で何が言いたいのかも分からない。文章も読みにくい。面白くない。十分な理由でしょう」
「それだけですか」
「これ以上は言うことはありません」
 いつもの三点セットだ。ダメだった。参考になる話も聞けなかった。最後の記念の持ち込みは、いつものダメ出し三点セットで終わった。期待しただけ、無駄だった。
「ありがとうございました」
「あ、ちょっと待って。原稿、持って帰って。うちでは処分できないから」
「分かりました、失礼します」
 鞄の中に原稿を突っ込んで、少しだけ頭を下げて、ビルから出た。
 上からは夏の容赦ない日差し、下からはアスファルトの熱が襲い掛かってくる。
 駅に向かっている途中、少しくらりとしたので、コンビニに寄って麦茶を買う。ペットボトルの麦茶はあんまり好きじゃない。外にあったゴミ箱に、編集者の名刺を破って捨てた。
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