3章 白松リリア

 ねぎさんから連絡が来たのは、十二月のはじめだった。あたしがはじめて連絡を送ってから一か月経っていた。
『会ってみたいです。どうすればいいですか』
 それだけだった。淡々とした文章。やっぱりなんだか、普通のオタクとは違う。
『ねぎさんは、どこ住み?』
『世田谷です』
 返信はすぐにきた。
『じゃ、渋谷とかどうかな』
 少しの間。
『分かりました。それでお願いします』
 なんだか事務連絡をしているようなやりとりだった。日時を伝えて、スマホの電源を落とす。
 このあと、配信しなきゃ。
 もうすぐ、リリコの生誕記念配信がある。ママには新しい衣装を作ってもらってるし、ファンから新しい楽曲ももらっている。収録も済んでいる。事務所と相談して、ダンスもすることになった。いっぱい頑張っているということを、配信でたくさん伝えて、期待させないといけない。ほんとうは、ダンスも歌も適当にやってるけれど、一生懸命やってるよって嘘をつく。
 配信ボタンを押して、みんなに手を振る。チャット欄が動く。
 配信を始めるだけで、スパチャが飛んでくる。今日も配信ありがとう。待ってたよ。そんなコメントが添えられて、お金が飛んでくる。
 文字でしかないファンたちを見ると、やっぱり、オタクどもはバカだなあと思う。なんでこんな偶像に金を投げて満足できるんだろう。
 まあ、そんなバカたちがいて、あたしは生活できてるんだけど。
 愛するファンたちへ。ずっとバカでいてね。
 虚無の数時間の配信を終えようとすると、ねぎさんから、いつもと変わらないスパチャが飛んできた。
『今日も楽しかったです。仕事頑張れそうです』
 やっぱり、この子だけは、他と違う。
 内心、リリコと会えることに、ワクワクしてるんじゃないの? もっと、分かりやすく喜んでもいいんじゃない? 自慢したいんじゃないの?
 ほら見てよ。ちょむさんのクソキモ高額スパチャ。コメントにハートまでつけてる。オタクはこういうのでいいんだよ。
 なんでねぎさんは、そんなにドライなの。あたしと会うの、楽しみじゃないの?
 理解できないまま、彼と会う日になる。
 その日の昼にダンスのレッスンがあった。今日が最後だった。
 先生は、最後の最後に、あたしにやる気がないことを見抜いて、小言を言ってきた。もともとダンスのセンスはあるのに、どうしてそんなに手を抜くのかと。
 本気になるなんてバカらしいと思ったのだ。どうせ、あたし自身じゃなくて、リリコの皮が踊るんだから、いいじゃないかと。言わなかったけれど。
 もし、あたし自身のこの身体で披露するってなったら、本気になっていたかもしれない。でも、オタクたちが求めてるのは、リリコという偶像だ。あたしじゃなくて、あたしが演じるリリコ。どうせ歌は音源を流すだけなんだから、あたしはリリコを上手に動かせたらそれだけでいいのだ。
 先生は呆れながらレッスン室を後にした。彼女とはもう二度と会わないだろう。ダンスの先生なんか、他にいくらでもいるからいいのだ。
 もう終わったことだ。苛々するのはやめよう。
 前から気になっていたねぎさんと会うのだ。一体どんな人なのだろう。実は常識人のイケメンだったりして。だから今日は気合を入れてショートパンツにした。寒いのも我慢して、生足だ。
 渋谷駅で下車し、駅前の広場に向かう。ここではたくさんの人が待ち合わせをしている。
 ねぎさんはすぐに分かった。
 だって、渋谷の色に全然染まってないのだ。顔が強張っている。本当に都民なのかと疑うレベルだった。あたしが場所を提案したときの少しの間は、渋谷の雰囲気に自分が似合わないと怖気づいた時間だったのだろう。
 学生が着ているような黒のコートに、でっかいリュックを背負っていた。髪だけは手入れをしているのか、明るく染められている。ひょろっとしていて、背丈は普通。うん。普通。顔は可愛い系かな。見た目はキモくはないけど、中身はまだ分からない。年齢はたぶん、あたしと同じか、あたしより少し上。スパチャやコメントで仕事をしている社会人だというのは知っているけれど、見た目だけで判断すると、ギリ大学生かなって感じだった。
 ねぎさんは、あたしのこともすぐ気付いたみたいで、ほっとした表情をしていた。握りしめていたスマホをコートの中に入れる。
「ねぎさんで合ってるよね」
「あ、はい。えと」
「リリコでいーよ」
 彼の腕を取ると、びくっと身体を震わせた。何、その反応。女慣れしてない感じ、とても可愛い。
 手を握ると、他のオタクはみんな、ドゥフ、みたいな感じで笑う。でもねぎさんは違った。初めてのピュア系男子だった。
 近くに寄ると、薬品と金属のにおいが微かにする。ちょっとだけ血液のにおいに近い。鉄かな。どっかの工場で働いているのだろうか。
 リュックにリリコのキーホルダーをつけてくれている。偶像がささやかに揺れていた。
「あの、会うとはいっても、何をするか全然わからなくて。誘われた理由も全然わかってなくて」
「いーよいーよ。とりまごはん食べに行こ」
 クリスマスが近いから、街はイルミネーションで輝いていた。ああ、本当のデートをしているみたいだ。
 クリスマスは絶対配信をしなければならない。恋人がいない寂しい人たちを慰めなきゃいけない。まあ、あたしも恋人、いないんだけど。今日が代わりと思うことにした。
 もうちょっと親しくなったら、ねぎさんも、オタク特有のキモさが出てくるのだろうか。
 お店はあたしが好きなパスタのお店にした。ねぎさんはずうっとそわそわしている。コートの下にはチェック柄のシャツとベストを着ていた。ああ、やっぱりそういうところは典型的なオタクなのか、と思ったけれど、言動がマシなので問題なし。
 あたしが何も言わなければずっと黙っていて、あたしが質問をした時だけ答えた。
「ねぎさんって、普段何してるの?」
「大田区の工場で鉄の加工して、帰ったら家事をして、リリちゃんの配信を見ての繰り返しです」
「彼女募集中なの?」
「たぶん。でも、いたらいいな、くらいです」
「リリコと会ってくれたのはなんで?」
「……これ言っていいか分からないんですけど」
 あたしがおすすめしたペペロンチーノをフォークで綺麗に巻きながら、ねぎさんは言った。
「同居人に相談したんです。これって、大丈夫なのかって」
「同居人? 誰かと住んでるの?」
「年上の無職の人に、家の一室を貸しているだけです」
「男?」
「女性です。あ、でも、ほんと、赤の他人です」
「それで、同居人さんはなんて言ったの?」
「チャンスかもしれないから、行けばいいじゃんって。その人がリリコであることは一旦忘れて、会ってみたらいいじゃんって。嫌なことされたら、逃げればいいじゃんって」
 最後の一口が喉につっかえて、水を飲んだ。
「……嫌なことって、例えば?」
「金をむしり取られるとか、って言ってました」
「あはは、なるほど」
 その同居人の女は、あたしの裏の仕事について、よく知っているのかもしれない。いや、普通に考えて、そうなるか。SNSの裏垢が一体どんなものかなんて、誰だって、想像できる。オタクだって最初はあたしを疑う。でも、リリコのことが好きだから、バカになってしまうのだ。ああ、オタク。可哀想に。
「なんで僕にダイレクトメールを送ってきたんですか。他の人にも、そういうこと、してるんですか」
「……してるわけないじゃん」
「じゃあなぜですか。普通に考えて、まずありえないんですよ。僕のスパチャの金額は他の人に比べて少額ですし、たいしたコメントも書いていません。SNSだって一日に一回か二回呟くだけです。これらは多くのファンを抱えるリリちゃんが僕に会う理由になりません。他にもいろいろ考えましたが、思い当たる理由がありませんでした。正直、何か詐欺まがいのことをされているのではないかと思ってます」
「ねぎさんは、疑い深いんだね。そんなふうに見える?」
「信じきれないから、二次元に逃げているんです」
「確かにね。でも安心してよ。そんなことしないから」
 うん。ねぎさんにするのはやめよう。
 他のオタクとは、やっぱり違う。だから、他のオタクと同じようにしてはいけないのだ。
 でも、だから、余計に、ねぎさんと一晩過ごしたくなった。
「ねぎさんって、すっごく静かなコメントを毎回送ってきてくれてて、他の人たちと違うなって思ってたの」
「はあ」
「だから、会いたいなって思ったの。実際に会って、お話してみたいなって思ったの。これはほんと」
 リリアの本音が漏れる。
 ねぎさんは、リリコじゃなくて、リリアと会ってくれている。それがとてつもなく嬉しかった。
 店から出て、ねぎさんの手を掴んで、お金はいらないからと言って近くのホテルに連れ込んだ。ねぎさんはそのホテルがどんなものなのか察して逃げようとしたけれど、あたしは手を掴んで逃がさなかった。
 すぐにキスしても、怖がるだろうから、頬にキスした。すると、彼はびっくりして、あたしの身体を手で押して距離を取ろうとした。
「初対面の人と、こういうことをするつもりもありません。あなたの本名も知りませんし。帰らせてください」
「あ、ごめん。名前、教えてなかった。リリア。白松リリア」
「名前を教えてもらったところで、無理です」
「お金はいらない。ほんとに。お願い」
 喉が震えた。
「夢を壊してごめん。でも、ほんとうに、会いたかった」
「会うだけなら、もういいですよね」
「どうして。他の男はみんな喜んだのに。お金まで積んで、リリアをリリコと思い込んで抱いたのに。ねぎさんはどうして、そんなにあたしに冷たいの」
 さっきの話が嘘なのがバレる。あたし、どうしてこんなに必死なんだろう。
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。僕は黒鉄リリコを推しているわけで、中の人を推しているわけではないんです。というか、リリちゃんに中の人なんていませんよね。バーチャルの、夢です。偶像です。中の人が可愛い女の子だったらいいってわけでもないです。リリアさんがこれまで相手にしてきた人は、それが分かってない、にわかなんじゃないですか? まあ……こういうことになっていなければ、リリアさんのことも、気になっていたかもしれませんが……、ほんとのこと言うとリリアさんに期待していた部分もありましたが……、今、僕があなたに感じているのは恐怖なので」
「だったら、リリコのことも、嫌いになった?」
「さあ……、まだ分かりません。今後、リリちゃんを見るたびに、リリアさんを思い出すようなら、推すのをやめるかもしれませんね」
 やっぱり、会わなきゃよかった。
 ねぎさんは溜息交じりに、そう言った。
「分かった。ごめんね。でも、ねぎさんは、いい人だと思ったよ。リリコのこと、ちゃんと理解してくれてるんだなって思った」
「どういうことですか」
「リリコは夢だってこと。リリコは偶像だってこと。それを知っていて、リリコを好きでいてくれてるんだなって」
「そうですよ。それでいいんです。僕が求めてるのは、そのリリちゃんです。歌がうまくて、ダンスも上手で、声がかわいくて、地味な少額スパチャも読んでくれる、完璧なバーチャルアイドルのリリちゃんが好きです」
 今日はありがとうございました。
 そう言って、ねぎさんはコートを着て、部屋から出て行った。
 あたしはそのまま、ベッドに横になる。あーあ、ひとりぼっち。
 バカだなあ、あたし。ねぎさんが離れていくのが怖くなって連れ込んだのに、結局、怖がらせて一人になってしまった。
 あたし、麻痺してた。きっと、ねぎさんの反応が当たり前なんだ。そりゃそうだ。少し考えたら分かることだった。リリコのファンならみんな喜ぶって、勘違いをしていた。
 何やってるんだろう。一番のお気に入りのファンだったのに。
 一番のお気に入りのファンだったから、仲良くしたかったのに。
 ファンでなくとも、久しぶりの年齢の近そうな人だったから、仲良くなってみたかったのに。
リリアとして、ファンと仲良くするのは、無理なのかな。
 そうだとしたら、寂しい。
 今日はなんて日だ。ダンスの先生には本気じゃないことを見抜かれて小言を言われるし、ねぎさんには嫌われた。
 あたし、何やってるんだろう。

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