3章 白松リリア
ほんとうは、何になりたかったんだっけ。
三軒茶屋駅の南側にある居酒屋の前でひとりで歌っていた名もなきミュージシャンの前にしゃがみこんで、あたしは過去を振り返った。
何になりたかったんだっけ。何がしたかったんだっけ。
「あんた、前から聴きに来てくれるけど。わたしをバカにしに来てるんでしょ」
一曲歌い終わったミュージシャンはそう言った。
「そうだよ。売れないものを歌って、バカみたい」
「そうやって人をバカにしていないと生きてられないあんたも、相当バカだと思うけど」
そう言われたから、あたしは、その時から本気を出すことにした。
◆
「今日はありがとう~、また明後日も配信するから来てね~」
ばいばーい、と両手を振って配信を切った。バーチャルの身体を動かす器具を外し、リアルの身体に戻る。何時間もバーチャルの身体でいると、つい、リアルの身体の感覚を忘れてしまいそうになる。
キモイ声を出し続けていたから、喉が渇ききっていた。キッチンに行って、コップ一杯の麦茶を飲んだ。ああ、麦茶、最高。
配信中、水を飲むことはご法度だった。だって、インターネット上のあたしは、バーチャルの存在だから。中の人の匂いを感じさせることは絶対にしない。水も飲まないし、トイレにも行かない。
黎明期に比べて、中の人むき出しのバーチャル配信者が増えてきた。バーチャルという身体を借りただけの、ただの配信者が多くなってきたし、バーチャルアイドルという存在もかなり減ってきた。でも、あたしは、ずっとバーチャルアイドルの文化を守っている。
ストイックで完璧なバーチャルアイドル、黒鉄リリコ。インターネット上のあたしのことを、人はそう呼ぶ。
あたしが演じるのは、一点の汚れもないアイドルだ。
ピンクのツインテール。古流だけど、王道でもある。フリフリのピンクの服。あたしの好みじゃないけれど、オタクたちの好み。
ママと呼ばれる絵師さんがバーチャルの身体を作ってくれた。そのママとは、何度かやり取りをしている。ママは素敵な衣装を用意してくれるけれど、どれもがピンクだった。オタクたちはなんでも喜んでくれた。
ひとたび配信を始めれば、あっちこっちからお金が飛んでくる。あたしの活動を応援してくれているキモイ人間がたくさんいるのだ。
オタクどもは、騙されていることを知らない。あたしが、汚れまくっている女であることを。オタクはあたしが演じる偶像を信仰し、あたしもオタクたちが抱く偶像を完璧に演じる。
罪深い深夜のカップラーメンを啜ったあと、配信管理ページを開き、今日の収入を見る。いつもの面子があたしに高額なお金を投げていた。
事務所に配信が終わったから切り抜きをお願いしますとメールをして、スパチャをくれた人たちの名前をもう一度見る。
その中に『ねぎ』さんがいた。
ねぎさんは、一年前から継続的に支援してくれている人だった。古参ではないけれど、古参と同じように手厚い支援をしてくれている。単発支援じゃないのが結構いい。
SNSを立ち上げ、検索をかけた。
ねぎというハンドルネームを使っている人は何人もいる。でも、その中から黒鉄リリコを推してくれている人を見つけるのは簡単だった。
こういうオタクは、アイコンを好きなものにしていることが多い。ねぎさんは、分かりやすかった。リリコをアイコンにしてくれている。さっきの配信の感想を呟いてくれていた。
『仕事で疲れてたけど、元気出たから明日も頑張る』
『スパチャ読んでくれてありがとう』
最新の呟きはその二つ。
なんて普通の呟きなんだろう。絵文字を使うこともなく、興奮したような文章でもなく。静かにリリコを応援してくれていた。
オタク特有のキモさを、呟きからは感じない。なんなんだろう、この人。実際に会ったら、オタク臭さ全開なのだろうか。
ねぎさんの支援額も、めちゃくちゃ多いというわけではない。数百円から数千円までの額で、細々と、長く支援してくれていた。
ねぎさんの呟きを辿っていると、数か月前のもので、こんなのがあった。
『都内で、会ってくれる人、いないかな……』
なんだ、この人。都内に住んでいるのか。
話は早い。あたしはリリコのアカウントから別のアカウントに切り替えた。いわゆる、裏垢である。
ダイレクトメールで、ねぎさんに連絡を送ることにした。
『こんばんは、黒鉄リリコです。突然連絡して、驚かせちゃったかな。ごめんね。いつも応援ありがとう。ねぎさん、一年くらいずっと応援してくれてるから、実際に会ってみたいな。場所は東京ならどこでも大丈夫! お返事待ってます』
返信はその夜には来なかった。すぐに寝てしまったか、キョドってるか、悩んでいるか、疑われているか、無視されているか、そのどれかだろう。
大抵のオタクは、まずは疑うことからはじめる。インターネットに慣れている人ほど、オタクであればあるほど、疑い深い。でも、一旦あたしがリリコであることが分かれば、オタクとはすぐに会える。
ねぎさんからの連絡がこないまま、翌日の夜になった。あたしはスマホを見ながら、新宿駅に向かっていた。
リリコに大量のスパチャを送っていた支援者の一人と会う約束をしていた。
新宿にしたのには理由がある。
ホテルが多いからだ。ラブホのほう。
それが、リアルのあたしの仕事だった。仕事と言っていいのか分からないけれど、とにかく、あたしはそれで稼いでいた。
バーチャルでもオタクを餌食にし、リアルでもオタクを餌食にしていた。オタクはチョロい。可愛ければ、すぐに金を出してくれる。
今日のオタクは、小太りのおじさんだった。小太りではあるが、社会的地位はわりと高めらしく、スーツはちゃんと着ていた。仕事終わりらしい。
そのおじさんは、あたしを見た瞬間、あれ、という顔をした。
「昔、秋葉原にいませんでした?」
「え、なに、ちょむさん、あたしのこと、知ってた?」
「白銀リリアちゃんでしょ。うわあ、まじか。まじか。また会えるとは思ってなかった……」
おじさんはあたしの手を握り、ブンブンと上下に振った。おいやめろ、握手会じゃねーぞ。あたしの身体に触るんなら、金を出してからにしてほしい。いつものスパチャよりもう少し多く出してくれたらさ、いろいろやってあげるから。
レストランで食事を奢ってもらい、たらふく美味しい酒を飲んだ。そのあと、あたしからホテルに誘った。オタクは一瞬戸惑ったけれど、こんな経験は二度とできないよ、と誘うと、ころっと落ちた。
ほんと、オタクはチョロい。いや、男はチョロい、が正しいのか。
とにかく、こいつたちはバカだ。正真正銘の、バカだ。自分が偶像に金を払っていることに気付いていないのだから。
スパチャの倍のお金をもらった。だから、最後までさせてほしいと言われた。
ピル飲んでるからいいよ、と言った。
リリコの声でめちゃくちゃわざとらしく喘いでやると、おじさんはとても悦んだ。経験ないんだろうなあ、このおじさん。童貞なんだろうな。だから、演技でも悦べるんだ。
ああ、キッモ。もう、ずっと、そのまま、クソキモオタクでいてくれ。あたしにずっと騙されていたらいい。
「秋葉原でのアイドル活動はやめたんですか」
行為が終わると、おじさんは昔のあたしを掘り返してきた。
「ハーフのアイドルって、珍しいなあって思って、注目してたんです。リリアちゃん、歌めちゃくちゃ上手いし」
「もう、そんな昔の話はいいじゃん。ねえ、ちょむさん。やっぱり、もっかいしない? お金はいらないからさあ」
「さすがに、おじさん、そんな元気ないよ」
と言いながらも、おじさんはあたしを押し倒した。ああ、それ、マジキモイ。
おじさんが夢中になっている間、あたしは、リリコの声を捨てて言った。
「二度とあたしにリリアの話はしないで」
おじさんは一瞬動きを止めたけど、ごめんね、と謝って、二回目を終えた。
おじさんが部屋から出て行ったあと、シャワーで身体を流した。
ああ、キモイ。マジキモイ。他のキモオタでもさすがに心配してゴムは使ってくれたのに。
こう思うくらいなら、稼ぎが減るほうがいいのだろうか。
あたし、何やってんだろ。こんなことまでして、お金が欲しいのだろうか。
三軒茶屋駅の南側にある居酒屋の前でひとりで歌っていた名もなきミュージシャンの前にしゃがみこんで、あたしは過去を振り返った。
何になりたかったんだっけ。何がしたかったんだっけ。
「あんた、前から聴きに来てくれるけど。わたしをバカにしに来てるんでしょ」
一曲歌い終わったミュージシャンはそう言った。
「そうだよ。売れないものを歌って、バカみたい」
「そうやって人をバカにしていないと生きてられないあんたも、相当バカだと思うけど」
そう言われたから、あたしは、その時から本気を出すことにした。
◆
「今日はありがとう~、また明後日も配信するから来てね~」
ばいばーい、と両手を振って配信を切った。バーチャルの身体を動かす器具を外し、リアルの身体に戻る。何時間もバーチャルの身体でいると、つい、リアルの身体の感覚を忘れてしまいそうになる。
キモイ声を出し続けていたから、喉が渇ききっていた。キッチンに行って、コップ一杯の麦茶を飲んだ。ああ、麦茶、最高。
配信中、水を飲むことはご法度だった。だって、インターネット上のあたしは、バーチャルの存在だから。中の人の匂いを感じさせることは絶対にしない。水も飲まないし、トイレにも行かない。
黎明期に比べて、中の人むき出しのバーチャル配信者が増えてきた。バーチャルという身体を借りただけの、ただの配信者が多くなってきたし、バーチャルアイドルという存在もかなり減ってきた。でも、あたしは、ずっとバーチャルアイドルの文化を守っている。
ストイックで完璧なバーチャルアイドル、黒鉄リリコ。インターネット上のあたしのことを、人はそう呼ぶ。
あたしが演じるのは、一点の汚れもないアイドルだ。
ピンクのツインテール。古流だけど、王道でもある。フリフリのピンクの服。あたしの好みじゃないけれど、オタクたちの好み。
ママと呼ばれる絵師さんがバーチャルの身体を作ってくれた。そのママとは、何度かやり取りをしている。ママは素敵な衣装を用意してくれるけれど、どれもがピンクだった。オタクたちはなんでも喜んでくれた。
ひとたび配信を始めれば、あっちこっちからお金が飛んでくる。あたしの活動を応援してくれているキモイ人間がたくさんいるのだ。
オタクどもは、騙されていることを知らない。あたしが、汚れまくっている女であることを。オタクはあたしが演じる偶像を信仰し、あたしもオタクたちが抱く偶像を完璧に演じる。
罪深い深夜のカップラーメンを啜ったあと、配信管理ページを開き、今日の収入を見る。いつもの面子があたしに高額なお金を投げていた。
事務所に配信が終わったから切り抜きをお願いしますとメールをして、スパチャをくれた人たちの名前をもう一度見る。
その中に『ねぎ』さんがいた。
ねぎさんは、一年前から継続的に支援してくれている人だった。古参ではないけれど、古参と同じように手厚い支援をしてくれている。単発支援じゃないのが結構いい。
SNSを立ち上げ、検索をかけた。
ねぎというハンドルネームを使っている人は何人もいる。でも、その中から黒鉄リリコを推してくれている人を見つけるのは簡単だった。
こういうオタクは、アイコンを好きなものにしていることが多い。ねぎさんは、分かりやすかった。リリコをアイコンにしてくれている。さっきの配信の感想を呟いてくれていた。
『仕事で疲れてたけど、元気出たから明日も頑張る』
『スパチャ読んでくれてありがとう』
最新の呟きはその二つ。
なんて普通の呟きなんだろう。絵文字を使うこともなく、興奮したような文章でもなく。静かにリリコを応援してくれていた。
オタク特有のキモさを、呟きからは感じない。なんなんだろう、この人。実際に会ったら、オタク臭さ全開なのだろうか。
ねぎさんの支援額も、めちゃくちゃ多いというわけではない。数百円から数千円までの額で、細々と、長く支援してくれていた。
ねぎさんの呟きを辿っていると、数か月前のもので、こんなのがあった。
『都内で、会ってくれる人、いないかな……』
なんだ、この人。都内に住んでいるのか。
話は早い。あたしはリリコのアカウントから別のアカウントに切り替えた。いわゆる、裏垢である。
ダイレクトメールで、ねぎさんに連絡を送ることにした。
『こんばんは、黒鉄リリコです。突然連絡して、驚かせちゃったかな。ごめんね。いつも応援ありがとう。ねぎさん、一年くらいずっと応援してくれてるから、実際に会ってみたいな。場所は東京ならどこでも大丈夫! お返事待ってます』
返信はその夜には来なかった。すぐに寝てしまったか、キョドってるか、悩んでいるか、疑われているか、無視されているか、そのどれかだろう。
大抵のオタクは、まずは疑うことからはじめる。インターネットに慣れている人ほど、オタクであればあるほど、疑い深い。でも、一旦あたしがリリコであることが分かれば、オタクとはすぐに会える。
ねぎさんからの連絡がこないまま、翌日の夜になった。あたしはスマホを見ながら、新宿駅に向かっていた。
リリコに大量のスパチャを送っていた支援者の一人と会う約束をしていた。
新宿にしたのには理由がある。
ホテルが多いからだ。ラブホのほう。
それが、リアルのあたしの仕事だった。仕事と言っていいのか分からないけれど、とにかく、あたしはそれで稼いでいた。
バーチャルでもオタクを餌食にし、リアルでもオタクを餌食にしていた。オタクはチョロい。可愛ければ、すぐに金を出してくれる。
今日のオタクは、小太りのおじさんだった。小太りではあるが、社会的地位はわりと高めらしく、スーツはちゃんと着ていた。仕事終わりらしい。
そのおじさんは、あたしを見た瞬間、あれ、という顔をした。
「昔、秋葉原にいませんでした?」
「え、なに、ちょむさん、あたしのこと、知ってた?」
「白銀リリアちゃんでしょ。うわあ、まじか。まじか。また会えるとは思ってなかった……」
おじさんはあたしの手を握り、ブンブンと上下に振った。おいやめろ、握手会じゃねーぞ。あたしの身体に触るんなら、金を出してからにしてほしい。いつものスパチャよりもう少し多く出してくれたらさ、いろいろやってあげるから。
レストランで食事を奢ってもらい、たらふく美味しい酒を飲んだ。そのあと、あたしからホテルに誘った。オタクは一瞬戸惑ったけれど、こんな経験は二度とできないよ、と誘うと、ころっと落ちた。
ほんと、オタクはチョロい。いや、男はチョロい、が正しいのか。
とにかく、こいつたちはバカだ。正真正銘の、バカだ。自分が偶像に金を払っていることに気付いていないのだから。
スパチャの倍のお金をもらった。だから、最後までさせてほしいと言われた。
ピル飲んでるからいいよ、と言った。
リリコの声でめちゃくちゃわざとらしく喘いでやると、おじさんはとても悦んだ。経験ないんだろうなあ、このおじさん。童貞なんだろうな。だから、演技でも悦べるんだ。
ああ、キッモ。もう、ずっと、そのまま、クソキモオタクでいてくれ。あたしにずっと騙されていたらいい。
「秋葉原でのアイドル活動はやめたんですか」
行為が終わると、おじさんは昔のあたしを掘り返してきた。
「ハーフのアイドルって、珍しいなあって思って、注目してたんです。リリアちゃん、歌めちゃくちゃ上手いし」
「もう、そんな昔の話はいいじゃん。ねえ、ちょむさん。やっぱり、もっかいしない? お金はいらないからさあ」
「さすがに、おじさん、そんな元気ないよ」
と言いながらも、おじさんはあたしを押し倒した。ああ、それ、マジキモイ。
おじさんが夢中になっている間、あたしは、リリコの声を捨てて言った。
「二度とあたしにリリアの話はしないで」
おじさんは一瞬動きを止めたけど、ごめんね、と謝って、二回目を終えた。
おじさんが部屋から出て行ったあと、シャワーで身体を流した。
ああ、キモイ。マジキモイ。他のキモオタでもさすがに心配してゴムは使ってくれたのに。
こう思うくらいなら、稼ぎが減るほうがいいのだろうか。
あたし、何やってんだろ。こんなことまでして、お金が欲しいのだろうか。