2章 越智真由

「越智真由さん、十月の頭に飲み会があるんですけど。よかったら」
 事務のおばさんが回覧板を持ってやってきた。受け取って、参加者一覧を見る。わたしと浅葱君以外のおじさんおばさんのほとんどが参加に丸をつけていた。
 どうしよう。酒は飲みたいけど、おじさんおばさんと一緒に飲むつもりは微塵もない。同期の浅葱君次第かな。
「ねえ、浅葱君」
 今日も手作り弁当をつっついていた浅葱君に声をかける。すると、びくっと肩を震わせた。
前のライブで彼の姿を見たあと、浅葱君とはいっさい喋らなかった。わたしが彼に避けられていた。
 怖がらせてしまっただろうか。オタク君はかわいい女の子が好きそうだから。いかつい曲を歌っているわたしがきっと怖くなったんだ。だから避けられてるんだ。
 浅葱君が箸でつまんでいた煮豆がぽろりと落ちる。どんだけビビってんのってつっこみたくなる。
「な、なんですか」
「なんでそんな怯えてるのよ。怖くないでしょ、わたし」
「いや、怖いですよ。僕はコミュ障なんです。越智さんみたいにぐいぐい来る人は苦手です」
「いやさすがにそれはちょっと傷つくわ。浅葱君がコミュ障なのは知ってるけどさ。髪型が変わっても、なんにも変わんないね」
「髪を切ったところで性格が変わるわけないじゃないですか。見た目をよくしないと何をしても残念になる……と教わったんで、そうしただけです」
「あの女の人に?」
「誰のことですか」
「黒のブラウスの人」
「あ……、っと。そうです。紺野朱美さんっていいます。同居人」
 やっぱりあの人が、浅葱君の家に住んでいる人だったか。
 彼女かと聞いたら、顔を真っ赤にしてすごい勢いで否定してきた。
「ありえないです。うん。紺野さんは、ありえない」
「なんで? いい感じだったじゃん」
「だって、無理矢理、僕を連れまわすんですよ。小説の資料を集めたいからついてこい、ついでに遊びたいからそれにもついてこいって。そういう人です。賞もとれない、無職の無名のアマチュア作家です。だから、ありえません。それに、僕に彼女ができたら、紺野さんは家から出ていく約束になっています。そういう条件で住んでもらってるんで、ありえません。越智さんが歌ってた時も、紺野さんは、たぶん、小説の資料として越智さんを見ていたんだと思います。紺野さん、今書いてるのとは別に、公募のネタを欲しがってたんで」
「おお……」
 よく喋る。というか愚痴を吐く。何にも考えていなさそうな顔をしている浅葱君も、我慢していることが多いようだ。
「そっか」
「そうです。で、なんですか。越智さんは、僕に何か用事ですか」
 そこで話が回覧板に戻る。結構脱線してしまった。
 飲み会は目黒で行われる。二次会まであるのが既に決まっていて、一次会と二次会のどちらにも丸をつけている人が多い。一次会は居酒屋で、二次会はカラオケのようだ。
「浅葱君はどうするの? わたし、入社して一回も飲み会に参加したことないから、雰囲気知らないんだわ」
「一次会だけ行きます。行っても面倒くさいんですけど、行かないともっと面倒くさいんで」
 若手が一人もいないから寂しいとウザ絡みされる未来が簡単に想像できた。
「越智さんはなんでいつも参加しないんですか。越智さんに嫌われたくなくて、言うの我慢してるらしいんですけど、社長がいちばん寂しがってますよ」
「え、やだわー。ないわー。若い女だからってそういうのやめてほしいわ。まあそういうのも理由になると思うけど、歌うから、酒ダメだったんだよね」
「だったってことは過去形ですか」
「うん。そうなる。もう飲んでよくなったから、浅葱君がいるんなら、わたしも一次会だけ参加しようかな」
 越智真由と浅葱智哉の隣に一つづつ丸をつけた。
 そのあと、事務のおばさんから、最近の若い人はつれないねえと文句を言われた。ああ、クソ。浅葱君が最後だったから、浅葱君に回覧板を回して、浅葱君から渡してもらえばよかった。行っても行かなくても、面倒だった。
 十月の飲み会は、毎年行われているものだった。会社の設立記念日に合わせて行われる。設立記念日を祝うというのは建前で、本当はみんな、飲みたいだけ。
 おしゃれをするつもりはなかったので、だぼっとしたTシャツとジーンズで参加した。目黒駅で待ち合わせしていた浅葱君は、いつものチェック柄のシャツに、クソでかいリュック。それには一体それに何が入ってるんだ。そしてクソダサい。顔は可愛い系で、髪も染めていい感じにしているのに、オタク感が抜けきらない。
 浅葱君と待ち合わせをしていたのは、会場に一人で行ったあと、おじさんおばさんに絡まれた時に一人で対応するのが嫌だったからだ。同い年の同期がもう一人いれば、分散されると目論んだのである。
 居酒屋に向かっている間、彼はいっさい喋らなかった。何か気の利いた話でもしてくれれば、もう少し好感度が上がるというのに。わたしから何か話しかけようかとも思ったけれど、たぶん怖がられて終わりだからやめた。
 店に着くと、広いお座敷に通された。既に酒が回っているおじさんおばさんがいて、予想通り、わたしにウザ絡みをしてくる。いくらかは浅葱君のほうに行ってくれよと思うものの、彼は机の隅っこで小さくなってちびちびとお冷を飲んでいた。誰も浅葱君の相手をしないし、浅葱君も息をひそめて関わらないようにしていた。わたしだって、そのポジションにいたかった。
 彼がそんなんだから、わたしはおじさんおばさんに付き合って、思ったよりも多くの酒を飲むことになった。
 なるべくビールを注がれないようにゆっくり飲んでいたはずなのに、ジョッキが空かないうちに次々と注がれる。なんなんだ。愛媛にいるわたしの両親や祖父母もそうだけど、なんで年配の人は、若い人にたくさん飲み食いさせようとするんだろう。迷惑でしかない。
 あのライブのあとから、わたしはほぼ毎日、軽く酒を飲んでいた。いくらか耐性がついているだろうと思っていたが、やっぱりトイレに行く羽目になった。
 気持ち悪い。胃の中が全部出る。涙がボロボロ出る。便器を握りしめて、胃がひっくり返りそうなほどの勢いで吐いた。
 だれも私がトイレで吐いていることなんて知らないし、気付こうともしなかった。わたしも気付かれないように、笑顔を貼り付けて戻る。
 まだ途中だけど、帰りたかった。はやくコース料理を全部持ってきてくれと厨房にいるスタッフに念を送った。
 何やってんだろ、こんなところで。来なきゃよかった。
 シメのお茶漬けだけが、わたしに優しかった。これを食べたら、すぐ帰ろう。出汁を吸いながら誓う。
 けれども、おじさんおばさんはなかなかわたしを帰そうとしなかった。
「越智真由ちゃん、二次会、不参加だったけど、せっかくだし行こうよ」
「若い子がいないとねえ、盛り上がらないよ」
 ね、ね、と囲まれる。ここできっぱりと帰ります、と言えたらいいのに、ぐったりとしていて何も言えなかった。
 おじさんの向こうにいる浅葱君が、リュックを背負って立つのが見える。
 なんだ、君はひとりで帰ってしまうのか。
「僕は帰ります。越智さんも一次だけでしたよね」
 その一言で、わたしの周りの人たちは静かになった。
「そろそろ出ないと、お店の迷惑になりませんか。皆さんは二次会の時間もありますし、移動したほうがいいですよ」
 さっきまで壁にひっついて、静かに飲み食いしていた人と全く違っていた。
 おじさんたちは、それもそうだね、とへらへらと笑って店から出ていく。最後に残ったのは、わたしと浅葱君だった。
「大丈夫ですか。途中から、気持ち悪そうにしてましたけど」
 机の上に残っていたお冷を渡してくれた。それを一口含んで、わたしは首を横に振る。
 声が出ない。
 浅葱君の肩を借りて、なんとか店の外に出たけれど、足がふらついて歩けなかった。電車に乗れる状態でもない。
 浅葱君は黙って近くのコンビニに向かった。
 わたしはコンビニの外にあるゴミ箱の横に座り込み、彼は何かを買いに店の中に入った。
 しばらくすると、レジ袋を持った浅葱君が出てきて、わたしの隣にしゃがんだ。ペットボトルの水が差しだされる。
「酒が入ると、面倒くさいんですよね、あの人たち」
「うん」
「飲んでください。はやく家に帰りたいんで、はやく歩けるようになってください」
「優しくないなあ……」
 いや、優しいのか。どっちだ。分からない。浅葱智哉という男がこの飲み会を通して分からなくなった。
 半分ほど水を飲むと、気持ち悪さが和らいだ。でも、もう少し静かにしていたい。
「浅葱君はなんで明泰を選んだの」
「黙々と作業できるからですね。細かい作業が好きなんで」
「でも、おっさんおばさん嫌にならない?」
「なりますけど、それ以上に、仕事内容が気に入ってるんで。どこに行っても同じでしょう。どこに行っても、そういう人はいます」
「まあ、そうだけど」
「越智さんはどうしてうちにしたんですか」
「退勤時間が早くて、給料も良かったから。それだけ。もう辞めたい」
「まあ、確かに、越智さんの性格と合ってないような気はしてました」
 家はどこかと聞かれたから、等々力と言った。
「そろそろ歩けますよね。僕は奥沢なんで、途中まで一緒に帰ります。行きましょう」
「最後まで送ってくれないの。たぶん、同居人、言うと思うよ。そこは最後まで送ってやれよって」
「……確かに」
 電車で等々力まで帰る。多摩川近くの、学生の多いアパート。
 誰かと一緒にここまで帰ってくるのははじめてだった。高戸はわたしのアパートには来なかった。たぶん、学生たちがうるさいから。
 そのまま自分の部屋に戻るつもりだったけれど、素通りした。
 せっかくだからと思って、浅葱君を連れて土手まで行った。川が見えた瞬間、浅葱君は違和感に気付いて、わたしを止めた。
「あの、帰らないんですか」
「もうちょっと外の空気吸いたくなったから、付き合ってよ」
「帰ります」
「やだ、待って」
 踵を返そうとする彼の腕を握った。思ったより細い手首だった。
 溜息をついた彼は、リュックを下ろして座り込む。わたしもその隣に座った。
 夜の多摩川は決して眺めがいいわけではない。けれど、土と水のにおいがする。田舎出身のわたしには、落ち着くにおいだった。
「なんで帰らせてくれないんですか」
「なんでだろ。寂しいのかな」
「彼氏と別れたからですか」
「それもあるし。バンドも解散したし、歌うのも辞めたから」
「え」
「音楽、辞めたの。前に浅葱君が見たステージが最後だった。それからずっと、満たされてない気がしてる」
 わたしがへんに酔っていなければ、どこか静かなバーに行きたかった。
 とめどなく、愚痴のようなものが口から出てくる。本当は、ずっと誰かに聞いてほしかった。わたしのこのやるせなさを。
 わたしが今まで、どれだけ我慢してきたかを。わたしが今まで、どれだけ音楽のために我慢してきたかを。
 彼はリュックを抱いて、黙ってわたしの話を聞いていた。口を挟むことなく、じっと聞いていた。
「……何がしたかったんだろうね。よく分かんなくなっちゃった」
 沈黙。喋りすぎて、喉が渇いた。浅葱君に買ってもらった水を全部飲み干す。
「すみません。僕に理解力がないだけかもしれないんですけど。結局、越智さんにとっての音楽って、なんだったんですか。よく分かりませんでした」
「なんだったんだろうね。遊びだったのかな」
「遊びだったら、あれこれ我慢する必要なくないですか。遊びなら、適当にしていればよかったじゃないですか。我慢してたってことは、それだけ音楽が大切だったってことですよね」
「そうなのかな」
「僕は知りませんよ。越智さんのことなんですから」
 膝を抱える。
 十月の夜は、少しだけ冷える。
「我慢するしか方法はなかったんですか? そもそも、バンドの話だって、越智さんに本当に必要なものだったんですか? 越智さんは、ひとりでも歌えてたじゃないですか……僕が聞いたのは、ちょっとよく分かりませんでしたけど」
「バンドを組んだその時のわたしは、それしかないって思ってたし、それが楽しかったんだよ。でも、だんだん、つらくなっちゃった」
「今と昔は違いますよ。僕だって、昔は今みたいなオタクじゃなかったし」
「は? 待って、それは信じられん」
「信じなくてもいいです。越智さんに理解してもらおうとか思っていません。コミュ障なのは昔からですけど、アイドルとか二次元にハマったのは社会人になってからのことですよ」
 リュックにぶら下がっている、ピンク色の女の子を撫でた。それはアイドルだったのか。
 今、インターネットで流行している、バーチャルアイドルかもしれない。
「好みは変わるかもしれませんし、したいことも変わるかもしれませんし、嫌なところも見えてくるかもしれませんけど。越智さんは、バンドとか、そういうしがらみみたいなのが嫌になっただけで、音楽そのものは、ずっと好きなままなんじゃないですか。話を聞いていると、そう思いました」
「……そうかもしれないね。たぶん、そう。浅葱君の言う通り」
「我慢せず、自由にしたらいいんじゃないですかね。方法はいくらでもありますよ」
 じゃ、帰ります。そう言って立ち上がる浅葱君の腕を咄嗟に掴んだ。
「待って」
「なんなんですか。もう愚痴は聞きましたし、感想も伝えました。帰らせてください」
「今晩だけ泊まって行ってよ。クソアパートだけど」
「ありえません。それに、同居人、晩御飯も食べてないだろうから、帰らないと」
 わたしの誘いに対する返答にかかった時間、およそ〇・〇一秒。ありえないと言っていたはずの同居人に負けた。
 つい、言っちゃった。たぶん、嬉しかったんだと思う。わたしのことを完全に理解しているかのようなことを言ってくれたから。
 彼女募集中って話だったから、少し期待していたけれど。
 やっぱり一途なんだろうなあ、と思った。わたしとは違う。
 いや、わたしも一途になりたい。音楽に対して。
 アパートに戻ったあと、クローゼットからギターを出した。それから、ごめんね、と謝った。
 湿気の多い場所にしまっちゃって、ごめん。
 辞めるなんて言って、ごめん。
 やっぱり、あんたがいないと無理。
 バンドを組む前からいた、わたしのいちばんの相棒。ケースから出して、そっとボディを撫でた。
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