2章 越智真由

 九月中旬、渋谷で行われる屋外ライブに参加することにした。駅前で行われるそれは、規模は小さいけれど、わたしのようなアマチュアも受け入れてくれるものだった。
 他の参加者のことは全然知らないし、どういった人、どういったジャンルが集まるのかも知らない。
 バンドを解散してからずっと練ってきた新曲を披露することにした。
 本番当日はとてもよく晴れていて、夕方になっても全然涼しくならなかった。今年は残暑が厳しい。
 わたしの前に何人かが演奏したけれど、アマチュアばかりが集まるからか、人は全然集まっていない。
 多くの人に聴いてもらいたいという欲求はさほどない。どこかで歌えたらよかった。
 新しく書いた曲は、相当激しい曲調のものだった。自分の喉を潰す勢いで歌うものだったから、おそらく、これも披露するのはここが最初で最後だろう。
 そして、わたしが歌うのも、これが最後になるだろう。
 気持ちよく喉を潰して、気持ちよく引退する。それがいいと思ったのだ。後悔はしないと思う。それだけの覚悟で曲を作ってきた。
 長く伸びた黒髪を頭の上でまとめ、帽子の中に突っ込んだ。ああ、もう。はやく切ってしまいたい。
 なんでこんなに髪を伸ばしていたんだっけ。手入れ、とても面倒くさいのに。
 ああ、そうだ。高戸に言われたからだ。おちまゆは黒髪が綺麗で、曲にも合うねと。バラードばかり歌ってた頃のわたしのことを、高戸は知っている。
 高戸は、わたしの曲にはドラムは似合わないなと言った。
 だから、わたしは、バラードを封印して、ドラムが似合う曲を書き始めた。高戸とわたしだけでは物足りなくて、寂しかったから、次に宮香たちを受け入れていったんだった――。
 こんな時になって、高戸たちを思い出すなんて。ギターのネックを強く握りしめた。
 わたしの一つ前のバンドが演奏を終えた。
 司会に名前を呼ばれステージに立つ。
 わたしを見ているお客さんを、一通り眺める。仕事に疲れたおじさん、遊んでいる途中の若者、学校の帰りらしき制服の少女――そのなかに、知っている顔があった。
 浅葱君がいた。彼の前には二十代後半から三十代前半に見える女の人がいる。クソ暑いのに、真っ黒の長袖のブラウスを着ていた。肩にかかるしっとりとした髪。目は少し小さくて、性格がきつそうな印象を受ける。
 浅葱君は、彼女の袖の端を掴んで、ここから逃げようとしている。
 わたしに見つかるのを恐れているのだろう。
 でも、彼女は「ちょっと見ようよ」と、逆に浅葱君の腕を掴んでいた。
 あれが彼の同居人なのか、新しくできた彼女なのかは分からないが、なんとなく、二人の雰囲気は良さげだった。渋谷には、彼女と遊びに来たのだろうか。
 浅葱君は渋谷の空気に全然染まってなくて、それもあって早く帰りたそうだった。彼女に連れまわされているだけかもしれない。
 黒ブラウスの女は、わたしを興味津々な顔で見てくる。へえ、浅葱君の同僚なんだ、みたいな、そんな顔。今いる客の中で、もっともわたしに興味を持っていそうだった。
 興味……というと、少し違うかもしれない。なんだか、品定めされている気分になった。一体なんなのだろう。彼女がわたしを見る理由が分からない。
 品定めされているのなら、見せつけてやろう。
 ギターの弦を、思いっきり引っ掻いた。びぃんと周りに振動が伝わっていく。
 身体を曲げて、喉から思いっきり叫んだ。歌う、ではない。本当に、叫んだ。そこに音程も何もない。獣が吠えたような、そんな絶叫。
 ライブに興味がない人も、わたしの絶叫にびっくりして足を止める。何事かと人が集まってくる。
 一瞬の静寂のあと、手が弦で切れてしまうほどの勢いでギターをかき鳴らし、歌詞になっているのかなっていないのか分からない言葉を叫んだ。
 黒ブラウスの女はぽかんとしているし、浅葱君は相変わらず、帰りたさそうな顔をしていた。周りのお客さんも、少し困惑している。
 どうにでもなれ。どう思われてもいい。
 これが今のわたしだし、今のわたしが歌いたかった曲だ。無心になって叫び続けた。
 途中、帽子が落ちるのと同時に髪ゴムが切れて、髪の毛が落ちてきた。気にせず、歌いながら乱す。
 ああ、清々した。
 歌い終わった時には、浅葱君と女はいなくなっていた。きっと浅葱君が我慢できなくなって、女の人を引っ張って行ったんだろう。こんな意味不明な歌を歌っている奴が同僚だと思われたくなかったに違いない。
 ステージ裏に行くと、主催者に困るよ、と言われた。さすがに迷惑になると。
 確かに、わたしの今回の曲は、騒音だったかもしれない。でも、わたしはれっきとした、わたしの音楽だと思っていたから、特に反省はしなかった。
 すみません、と口先だけで言ったところで、声がガラガラになっていることに気付く。
 やっぱり喉は、相当のダメージを食らっていた。
 脱力感も酷かった。水を飲みながらゆっくりとギターを片づけていると、次の人の音楽が聴こえてきた。
 知っている声だった。
 宮香だった。彼女が一人で歌っているところを、わたしははじめて見た。いつもベースを鳴らしているだけだと思っていたのだが、彼女の歌声はわたしのよりも綺麗なものだった。
 わたしが乱した空気を、場を、鎮めるかのような、静かなバラードを宮香は歌っていた。そのバラードの静けさが、なんだか懐かしい。
 宮香がこちらに戻ってくる前に、移動しなければ。顔を合わせるのは気まずい。でも、力が抜けてしまって立てなかった。
 歌い終わった宮香が裏に戻ってくる。
「あ」
 顔を背けたのに、宮香はばっちりわたしに気付いた。彼女はわたしの隣に座って、ギターをケースにしまう。
 そのまま黙って去ってくれたらよかったのに、宮香はわたしのTシャツをぐっと掴んだ。
「ねえ、さっきの、何?」
 なぜか怒っていた。首根っこを掴まれていて、少し苦しい。バンドは解散したのに、どうして彼女がわたしに対して怒る必要があるのだろう。
「なんでキレてんの?」
「おちまゆがしたかったことって、それだったの?」
「よく分かんないけど、そうだよ。今日で歌うのやめるつもりだった。だから、喉に悪いことした」
「意味、分かんない……」
「だから、なんでキレてんの? もう宮香には関係ないことだと思うんだけど」
「高戸、反省してたよ。おちまゆにフラれたの、我儘しすぎたせいだって。おちまゆのこと、好きだから、甘えすぎたって。やり直せるならやり直したいって言ってた」
「え、何。高戸の伝言? それを言いに来たの? 高戸に頼まれたわけ?」
「これはおまけだよ。別に高戸とおちまゆの仲をどうにかしたいとか思ってない。ウチも、高戸と同じで、やりなおしたいって思ってた。一旦休もうって言ったのは、休んだらまた元気になって……みんなで楽しめるかなって思ったからだよ。なのに、おちまゆはすぐに解散って言っちゃった。リーダーがしたいことがあるんなら、尊重するしかないって思って、すぐに分かったって言っちゃったけど……」
「みんな、やめるつもりじゃなかったの?」
 何、今更。
 わたしは宮香の手を払いのけた。
「何なの、宮香。なんのつもり」
「再結成できなかったとしても、おちまゆがひとりでも、自分の音楽大切にして、自分の音楽を謳歌してるんだったら、文句なかったよ。でも、何、さっきの歌は。なんで自滅みたいな歌、歌ってんの」
「ああ」
 自滅か。そうかも。その言葉が、かなりしっくりきた。
「喉に悪いことがしたくなった。ずっと、喉に悪いことを我慢してきたから。わたしだって高戸みたいに酒もいっぱい飲みたかったし、喉に悪い発声がしたかった。むしゃくしゃしたとき、叫びたかった。喉に悪いことがしたくなったのは、やめたくなったからだよ」
「ほんとに? それ、ほんと? その一言一句ぜんぶが、おちまゆの本音なの?」
「うん、そうだよ」
 喉が痛い。喋るのも一苦労だった。
 わたしたちは沈黙した。ステージから、別の人の音楽が聴こえてくる。わたしより、ずっといい曲だった。誰が作ったんだろう。自分で作ったのかな。
 わたしは、結局、いい曲を書けなかったし、いい歌も歌えなかった。無名のミュージシャン。このまま消えたほうがいいのだ。
「……そっか。分かった。おちまゆにまだ再結成の気持ちがあったら……って思ってたけど。おちまゆがそう言うんだったら分かった。お疲れ様。じゃあね」
 ギターを背負って、宮香は去って行った。
 等々力まで帰ったあと、わたしはスマホの連絡先一覧から、メンバー全員を消した。SNSもブロックした。これで完全に、わたしとメンバーは断ち切られた。
 クローゼットの中に、ギターを入れた。タンスやクローゼットといった湿気の多い場所は、楽器にとって最悪の場所だった。このまま悪くなってしまえば、魔が差して再開することもなくなるだろう。
 そうしたら、今度は貯金が増えるはずだ。今までずっと我慢していた隣人の下品な騒音から逃げて、もっといいアパートに住めるようになる。
 もう音楽で我慢したくない。音楽のために我慢したくない。散々苦しんだ。だから、もういい。
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