1章 紺野朱美
「紺野朱美さん、ですか。これはさすがに出版できませんよ」
編集者の手汗でふやけた原稿が突き返された。
仕事を辞めてまでして書いたものが、その瞬間、ゴミとなった。
愛着なんてなかった。ダメだったら、もうそれは私にとって、ゴミだった。何にもならないのなら、残す必要がなかった。
だから、帰って、すぐにゴミ箱に捨てた。もうこれは二度と読まないと、その時は思っていた。
◆
三月の終わり。最後の勤務を終え、帰ろうとしたときだった。
突然大きな花束が渡され、私は戸惑った。花束にはカードが添えられていて『今までお世話になりました』とありきたりの言葉が印刷されていた。
それが退社祝いであることに気が付いて、私は両手でそれを受け取った。
「紺野さんが選ぶ本、どれも爆売れだったのに!」
花束を渡してきた後輩の女の子がとても残念がっていた。彼女は新卒で入社し、私の元でこの一年頑張ってきた子だった。彼女が身に着けている深緑のエプロンには『山河書店』と印字されている。私たちが勤めている、多摩市にある大きな書店だ。
「うん、ごめん。でも、佐倉さんなら、私がいなくても大丈夫だよ」
肩を軽く叩いて慰めると、彼女は目に涙を浮かべた。
なんで辞めるのかと、退職することを彼女に伝えた時から何度も聞かれた。他の書店員からもかなり驚かれた。
彼女が言う通り、私がピックアップする本はとてもよく売れた。ポップを作る本は私に選ばせたらいいとよく言われていた。特に物語。私は小説が好きだ。書店員の中でも、よく読んでいたほうだと思う。この仕事が向いている、好きそう、ともよく言われていたから、かなり驚かれた。
辞めると決めたのは、今年に入ってからだ。どうしても小説を書きたくて、どうしても賞が欲しくて、どうしても作家になりたくて、執筆に集中するために仕事を辞めたかった。それを今年にしたのは、六月に三十歳という大きな節目がやってくるからだ。
書店員の仕事はとても楽しかった。地元、福山にある大学を出たのちに上京し、この書店で働いた数年は、楽しかったと思う。だから、かなり悩んだ。続けたまま執筆もできていたからだ。
学生の頃から続けていた執筆活動だが、今まで賞に選ばれたことは一度もない。私は物語を選ぶ能力には長けていたらしいが、書く能力はさほどなかった。けれども、作家になりたいという気持ちは変わらずあった。売る側から、書く側になりたかった。
でも、もう、三十が来る。いい節目だ。仕事を辞めて、執筆だけに集中して、全力で取り組んで、それでもダメだったら諦めて地元に帰ろう。これでダメだったら福山に帰って、新しく職を探そう。そう決めたのだ。
「執筆に使う資料はぜひうちで探してくださいね」
「ああ。そうね。買うなら、ここに来る。ありがとう、佐倉さん。お世話になりました」
これはお世辞だ。もう二度とこの書店には来ないだろう。貯金のこともあるし、それに会いたくない人がいる。
大きな花束を持ったまま電車に乗り、八王子にあるアパートに帰る。
私が借りている部屋ではない。同棲している彼氏の部屋だった。飾り気のない、シンプルな部屋。家具は最小限。この部屋で寝るのも、今日が最後である。明日、私がもともと借りていたアパートに帰る。
先に入浴を済ませ、片づけをしていると、部屋の主が帰ってくる。黒縁眼鏡が印象的な、逆に言えば黒縁眼鏡しか印象に残らない、ごく普通の中肉中背の男である。
おかえりと声をかけると、ただいまと返ってくる。彼は荷物をリビングに置いて、そのままキッチンに向かった。料理担当は彼だった。
彼は私と同じく、山河書店で書店員をしている。村上誠。私より三つ上の先輩である。同じ書店勤めであっても、担当する本のジャンルが違ったので、あまり交流はなかった。
彼のほうから告白してきた。確か、三年ほど前のことだったと思う。私のことを、遠くから見ていたのだと言っていた。容姿も性格も普通だけど、とりわけ嫌だとも思わなかったので、彼の告白を受け入れた。同棲を始めたのは一年前のことだ。
彼が料理をしている間、私はゴミ袋に大量の私物を入れていった。明日がゴミの日で良かった。風呂場にある私のシャンプーもリンスも、化粧台にある化粧水や乳液も、全部ゴミ。一度に持ち運べない服も下着も全部ゴミ。
随分と多くのものをこの部屋に入れていた。ゴミ袋が二つになったところで、いったん外に運ぶ。
部屋に戻ると、ちょうど夕飯ができていた。
白米、味噌汁、塩鮭、甘い卵焼き。まるで朝食のような献立だった。けれど、作ってくれた彼には文句は言えない。私は家事がまるでできないから。
「本当に、明日、出ていくの」
「うん」
「ここで書いていてもいいのに」
「それはない」
「というか、関係を続けるつもりも、ないんだよね」
「そうだね」
「もっかい考え直してほしいんだけど」
最後の食事のときに、こんな話をするつもりはなかった。もうこの話は終わったものだと思っていた。
今まで、何度も、誠には話をしてきた。何度も、何度も、そうしたいと話をしてきた。できるならば、もっと早くにこの部屋から出ていきたかった。
仕事を辞めるという大きな決断をしたし、分かってもらえたと思っていたけれど、誠はまだ私を引き止める。
「あのね。何回も言うけど。私は想像ができない。この部屋で、これからもずっと誠と一緒に生活しているのが」
「そりゃ、未来のことは、誰だって想像できないよ」
「そうだけど。誠と一緒にいる未来が、私にはしっくりこないの。それに、私は今のところ、誰とも結婚したくない。執筆に邪魔なことはしたくない」
「別れる理由にはならないよ、それ」
「なるよ。誠はそのつもりでいるんでしょ。だったら無理」
「あのさ。朱美はあれこれ言葉を変えて言うけど、それってつまり、おれのこと、好きじゃないってこと?」
好き。好きかどうかか。そう言われると、そうかもしれない。
告白を受け入れたのも、同棲を始めたのも、そうする流れがいいからだろうと判断したからだった。そこに恋愛感情はなかった。
誠に身体を許したのも、私の時間を誠に使うことを許したのも、そうすることが私にとっていいのだろうと判断したからだ。
悪く言えば、私は誠を利用していただけだった。一般的な人生を送るために。体裁を守るために。彼氏はいるのか、結婚するのか、と聞かれた時に、いるよ、考えてるよ、と答えるために。見栄を張っていた部分もある。でも、それは私にはもう不要だった。
そうしている意味がなくなったのだ。意味がないことはしたくない。
「そうね。今思えば、最初から、そうだった」
「おれは朱美のこと、好きだよ」
「でも、私はそうじゃない。ごめん。これ以上話しても何も変わらない。明日、出ていく。今までありがとう」
ベッドに入ると、求められた。好きじゃないとはっきり言ったのに求めてくるなんて、よっぽどなんだろうなと思った。
もちろん断った。できるわけがない。
そもそも私は、行為がそこまで好きじゃなかった。
誠は、一般的な家庭を持つことを夢見ている。私に、その夢を叶えることはできない。
朝、目覚めると、誠はまだ隣でぐっすりと眠っていた。彼は、休日だと昼まで寝ている。
もう別れの言葉も要らないだろうと思って、黙って出てきた。鍵はリビングの机の上に置いている。
誠がいる山河書店に行くことはもうない。書店も図書館も、他にたくさんある。だってここは東京だから。
私のアパートも八王子市内だが、生活圏は違うのでばったり会うことはないだろう。
学生の多い地区だ。歩いていると、何度も自転車とすれ違う。
久しぶりに戻った部屋は、埃っぽくなっていた。カーテンを開けると、光が差し込み、埃がきらきらと輝いた。
窓を開けると、春の風が入ってくる。まだ肌寒い。
本棚には上京してから集めてきた資料がたくさん入っている。描写の手助けになるようなものばかりだ。山河書店で働いていると、割引してもらえたから、ついたくさん買ってしまっていた。それらにも埃が積もっている。日焼けはしていない。カーテンを閉めていてよかったと心底思った。
何も入っていない冷蔵庫の電気をつける。このあと、執筆後に飲む酒を買いに行こう。
クローゼットの中を確認する。ジーンズと、長袖の黒のブラウスが入っている。当分はこれでいいだろう。生活だけするならば、おしゃれをする必要はない。
次に出したい公募は決まっている。内容もほぼ決まっている。締切は五月。それがダメだったら、気になっている出版社に持ち込み。それでダメだったら、もう諦めよう。
タブレットとキーボードを、窓際にある簡素な机の上に置く。
真っ白な原稿。これが文字で埋め尽くされ、提出されたあとのことは、今は考えない。
私は空腹を自覚するまでキーボードを打ち続けた。
お腹が満たされたら、また物語に戻る。睡眠をとったら、また物語に戻る。
誰もいない、静かな部屋。物語だけに向き合い続けた。
編集者の手汗でふやけた原稿が突き返された。
仕事を辞めてまでして書いたものが、その瞬間、ゴミとなった。
愛着なんてなかった。ダメだったら、もうそれは私にとって、ゴミだった。何にもならないのなら、残す必要がなかった。
だから、帰って、すぐにゴミ箱に捨てた。もうこれは二度と読まないと、その時は思っていた。
◆
三月の終わり。最後の勤務を終え、帰ろうとしたときだった。
突然大きな花束が渡され、私は戸惑った。花束にはカードが添えられていて『今までお世話になりました』とありきたりの言葉が印刷されていた。
それが退社祝いであることに気が付いて、私は両手でそれを受け取った。
「紺野さんが選ぶ本、どれも爆売れだったのに!」
花束を渡してきた後輩の女の子がとても残念がっていた。彼女は新卒で入社し、私の元でこの一年頑張ってきた子だった。彼女が身に着けている深緑のエプロンには『山河書店』と印字されている。私たちが勤めている、多摩市にある大きな書店だ。
「うん、ごめん。でも、佐倉さんなら、私がいなくても大丈夫だよ」
肩を軽く叩いて慰めると、彼女は目に涙を浮かべた。
なんで辞めるのかと、退職することを彼女に伝えた時から何度も聞かれた。他の書店員からもかなり驚かれた。
彼女が言う通り、私がピックアップする本はとてもよく売れた。ポップを作る本は私に選ばせたらいいとよく言われていた。特に物語。私は小説が好きだ。書店員の中でも、よく読んでいたほうだと思う。この仕事が向いている、好きそう、ともよく言われていたから、かなり驚かれた。
辞めると決めたのは、今年に入ってからだ。どうしても小説を書きたくて、どうしても賞が欲しくて、どうしても作家になりたくて、執筆に集中するために仕事を辞めたかった。それを今年にしたのは、六月に三十歳という大きな節目がやってくるからだ。
書店員の仕事はとても楽しかった。地元、福山にある大学を出たのちに上京し、この書店で働いた数年は、楽しかったと思う。だから、かなり悩んだ。続けたまま執筆もできていたからだ。
学生の頃から続けていた執筆活動だが、今まで賞に選ばれたことは一度もない。私は物語を選ぶ能力には長けていたらしいが、書く能力はさほどなかった。けれども、作家になりたいという気持ちは変わらずあった。売る側から、書く側になりたかった。
でも、もう、三十が来る。いい節目だ。仕事を辞めて、執筆だけに集中して、全力で取り組んで、それでもダメだったら諦めて地元に帰ろう。これでダメだったら福山に帰って、新しく職を探そう。そう決めたのだ。
「執筆に使う資料はぜひうちで探してくださいね」
「ああ。そうね。買うなら、ここに来る。ありがとう、佐倉さん。お世話になりました」
これはお世辞だ。もう二度とこの書店には来ないだろう。貯金のこともあるし、それに会いたくない人がいる。
大きな花束を持ったまま電車に乗り、八王子にあるアパートに帰る。
私が借りている部屋ではない。同棲している彼氏の部屋だった。飾り気のない、シンプルな部屋。家具は最小限。この部屋で寝るのも、今日が最後である。明日、私がもともと借りていたアパートに帰る。
先に入浴を済ませ、片づけをしていると、部屋の主が帰ってくる。黒縁眼鏡が印象的な、逆に言えば黒縁眼鏡しか印象に残らない、ごく普通の中肉中背の男である。
おかえりと声をかけると、ただいまと返ってくる。彼は荷物をリビングに置いて、そのままキッチンに向かった。料理担当は彼だった。
彼は私と同じく、山河書店で書店員をしている。村上誠。私より三つ上の先輩である。同じ書店勤めであっても、担当する本のジャンルが違ったので、あまり交流はなかった。
彼のほうから告白してきた。確か、三年ほど前のことだったと思う。私のことを、遠くから見ていたのだと言っていた。容姿も性格も普通だけど、とりわけ嫌だとも思わなかったので、彼の告白を受け入れた。同棲を始めたのは一年前のことだ。
彼が料理をしている間、私はゴミ袋に大量の私物を入れていった。明日がゴミの日で良かった。風呂場にある私のシャンプーもリンスも、化粧台にある化粧水や乳液も、全部ゴミ。一度に持ち運べない服も下着も全部ゴミ。
随分と多くのものをこの部屋に入れていた。ゴミ袋が二つになったところで、いったん外に運ぶ。
部屋に戻ると、ちょうど夕飯ができていた。
白米、味噌汁、塩鮭、甘い卵焼き。まるで朝食のような献立だった。けれど、作ってくれた彼には文句は言えない。私は家事がまるでできないから。
「本当に、明日、出ていくの」
「うん」
「ここで書いていてもいいのに」
「それはない」
「というか、関係を続けるつもりも、ないんだよね」
「そうだね」
「もっかい考え直してほしいんだけど」
最後の食事のときに、こんな話をするつもりはなかった。もうこの話は終わったものだと思っていた。
今まで、何度も、誠には話をしてきた。何度も、何度も、そうしたいと話をしてきた。できるならば、もっと早くにこの部屋から出ていきたかった。
仕事を辞めるという大きな決断をしたし、分かってもらえたと思っていたけれど、誠はまだ私を引き止める。
「あのね。何回も言うけど。私は想像ができない。この部屋で、これからもずっと誠と一緒に生活しているのが」
「そりゃ、未来のことは、誰だって想像できないよ」
「そうだけど。誠と一緒にいる未来が、私にはしっくりこないの。それに、私は今のところ、誰とも結婚したくない。執筆に邪魔なことはしたくない」
「別れる理由にはならないよ、それ」
「なるよ。誠はそのつもりでいるんでしょ。だったら無理」
「あのさ。朱美はあれこれ言葉を変えて言うけど、それってつまり、おれのこと、好きじゃないってこと?」
好き。好きかどうかか。そう言われると、そうかもしれない。
告白を受け入れたのも、同棲を始めたのも、そうする流れがいいからだろうと判断したからだった。そこに恋愛感情はなかった。
誠に身体を許したのも、私の時間を誠に使うことを許したのも、そうすることが私にとっていいのだろうと判断したからだ。
悪く言えば、私は誠を利用していただけだった。一般的な人生を送るために。体裁を守るために。彼氏はいるのか、結婚するのか、と聞かれた時に、いるよ、考えてるよ、と答えるために。見栄を張っていた部分もある。でも、それは私にはもう不要だった。
そうしている意味がなくなったのだ。意味がないことはしたくない。
「そうね。今思えば、最初から、そうだった」
「おれは朱美のこと、好きだよ」
「でも、私はそうじゃない。ごめん。これ以上話しても何も変わらない。明日、出ていく。今までありがとう」
ベッドに入ると、求められた。好きじゃないとはっきり言ったのに求めてくるなんて、よっぽどなんだろうなと思った。
もちろん断った。できるわけがない。
そもそも私は、行為がそこまで好きじゃなかった。
誠は、一般的な家庭を持つことを夢見ている。私に、その夢を叶えることはできない。
朝、目覚めると、誠はまだ隣でぐっすりと眠っていた。彼は、休日だと昼まで寝ている。
もう別れの言葉も要らないだろうと思って、黙って出てきた。鍵はリビングの机の上に置いている。
誠がいる山河書店に行くことはもうない。書店も図書館も、他にたくさんある。だってここは東京だから。
私のアパートも八王子市内だが、生活圏は違うのでばったり会うことはないだろう。
学生の多い地区だ。歩いていると、何度も自転車とすれ違う。
久しぶりに戻った部屋は、埃っぽくなっていた。カーテンを開けると、光が差し込み、埃がきらきらと輝いた。
窓を開けると、春の風が入ってくる。まだ肌寒い。
本棚には上京してから集めてきた資料がたくさん入っている。描写の手助けになるようなものばかりだ。山河書店で働いていると、割引してもらえたから、ついたくさん買ってしまっていた。それらにも埃が積もっている。日焼けはしていない。カーテンを閉めていてよかったと心底思った。
何も入っていない冷蔵庫の電気をつける。このあと、執筆後に飲む酒を買いに行こう。
クローゼットの中を確認する。ジーンズと、長袖の黒のブラウスが入っている。当分はこれでいいだろう。生活だけするならば、おしゃれをする必要はない。
次に出したい公募は決まっている。内容もほぼ決まっている。締切は五月。それがダメだったら、気になっている出版社に持ち込み。それでダメだったら、もう諦めよう。
タブレットとキーボードを、窓際にある簡素な机の上に置く。
真っ白な原稿。これが文字で埋め尽くされ、提出されたあとのことは、今は考えない。
私は空腹を自覚するまでキーボードを打ち続けた。
お腹が満たされたら、また物語に戻る。睡眠をとったら、また物語に戻る。
誰もいない、静かな部屋。物語だけに向き合い続けた。
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