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黒尾家に引っ越してきて数日が過ぎた。最初のあの日以来、私はバレー部の練習には同行していない。仕事へ出かける両親を見送り、部活へと向かう黒尾さんを見送る。その後は家事をしたり、土地勘を得るため散歩を兼ねて買い物に出て、食事の支度をしたり。そんな日々を過ごしていた。
朝早くから夜遅くまで仕事をしている母の代わりに私が家事を担当することは再婚前と変わらない。けれど家族が増えたことで、食事の量は格段に増えた。人数だけで言えば倍でしかないけれど、量で言えば倍では済まされない。食べ盛りの年齢であることに加えてスポーツをしている黒尾さんと、黒尾さんほどではなくても働き盛りの鉄平さんの食事量を、私やお母さんと同量で済ませられるわけもなく。炊事は1日のうちで1番大変な家事ではあるけれど、ガツガツと勢いよく食べてくれる人がいるのは心の底から嬉しいと思う。やり甲斐のようなものを感じて、大変さの中に確かな楽しさも感じていた。
春休みもあと数日となった今日も 同じように両親を見送ってから、黒尾さんと雑談をしながらそれぞれが必要な準備を進める。
「あ、夕飯に何か食べたいものってありますか?」
「和食」
「黒尾さんの答えはいつでも同じですね」
洗い終えた朝食の食器を片付けながら、そんな会話に笑みをこぼす。黒尾さんは、和食が好きらしい。秋刀魚が好きだと以前に聞いた気がするから、秋になれば希望を問う度にサンマと返されるのではないだろうか。そんなことを考えたところで背後からふっと影がさした。不思議に思って振り返れば、いつの間にか背後にいた黒尾さんが食器棚に右腕を突いて 至極真面目な顔で私を見下ろしていた。その距離に心臓が跳ねた気がしたけれど、気づかないふりをする。
「あの…」
「その呼び方、いつまでやるつもり?」
「え?」
「今は七瀬も“黒尾さん”だろ」
「あ…」
彼の言わんとしている意味はすぐに理解できた。黒尾七瀬となった私が、血縁はないとは言え 兄であり同居する彼を“黒尾さん”と呼ぶ不自然さ。それを指摘されているのだとすぐに分かったのは、慣れた呼び方に甘えていたけれど、きっと私も心のどこかではそう感じていたから。
「そう、ですよね…“黒尾さん”が染み付いてしまっていて」
「今すぐ変えろとは言わねえけど、変える努力はしていこうぜ。あと敬語も」
「…!が、がんばります」
「だから敬語もだって」
私の反応に満足したのか、喉で笑った黒尾さんが私から離れて行く。離れた距離に、周りの空気の温度がほんの少し下がったような気がした。そろそろ行くか、と リビングに用意されていたカバンの元へと向かう背中をぼんやりと眺める。なんて呼べばいいんだろう。無意識のうちに、ポツリとそんな声が口から漏れていた。それが耳に届いたのだろう、こちらを振り向いた彼は悪戯っぽくニンマリと笑う。
「お兄ちゃん♡」
「よ、呼びませんからね!?」
「なんだ、つまんねえの」
カラカラと愉快そうに笑った黒尾さんは、じゃあ行ってくる、とカバンを肩に提げてリビングを出て、私はその後を慌てて追いかける。両親も、兄も、出かける人は玄関まで見送ることがいつの間にか私の日課になっていた。行ってらっしゃい、と 靴を履いたところで声を掛ければ、こちらを振り向いた彼は口元を緩めて ぐしゃぐしゃと私の髪を撫でた。
「行ってくる」
そう言って出て行った玄関扉が閉まるのを眺めてから、ついさっき黒尾さんが触れた頭に自分で触れる。今あの人は、私の家族でお兄ちゃんなのだ。“黒尾さん”なんて他人行儀な呼び方をするべきではないと思う。だけど私は、彼が“黒尾”や“黒尾さん”という以外の呼ばれ方をしているのを聞いたことがない。研磨は“クロ”と呼んでいるけれど、黒尾の“クロ”なのだから その呼び方では意味がない。ぐるぐると渦巻く思考に終わりはなくて、私はリビングへと駆け戻り 携帯電話を手に取った。
黒尾さんが黒尾さんって呼ぶなって言う。
そんな私からのメールを受け取った研磨は、きっと全力で顔を顰めたことだろう。
◇
すっかり日も傾き 夕飯の用意も終盤に差し掛かった頃、ガチャリと玄関扉が開く音がした。パッと顔を上げれば、ただいま、と この数日ですっかり聴き慣れた声が聞こえてきて、兄の帰宅を確信する。手を洗ってタオルで拭いたところでリビングのドアが開いて、思い描いていたその人が顔を出した。私はこの数時間 彼の帰宅を待ち侘びていたのだから、そんな事も顔に出てしまっていたのかもしれない。おかえりなさい、とパタパタと駆け寄った私の顔を見て、彼は瞬きを一つ。
「ああ、ただいま…なんかあった?」
「私、分かったんです!」
「(敬語になってっけど まぁいいか)……うん、何を?」
「鉄くん」
得意気にそう呼べば、彼は驚いたように目を見開いた。
“黒尾さん”以外の呼び方を相談するつもりで研磨に送ったメールに対する返信は、返ってくるとしてもきっと練習が終わった後だとか、下手をすれば返信さえ来ないかもしれないと思っていたけれど、数分後には私の手元に届いて本当に驚いた。
――うちの親は鉄くんって呼んでる
たったそれだけの文面だったけれど、私が研磨に伝えたかった意図は的確に伝わっていたようだし、そして何よりも、それは私が求めていた回答に他ならない。研磨からのメールを受けてから、私は彼の帰宅を待ち侘びていたのだ。
私が不意に慣れない呼び方をしたせいか、面食らったように瞬きをする彼――黒尾さん、改め鉄くんを見て 少し気恥ずかしくなって顔を伏せた。
「お兄ちゃんは恥ずかしいし、呼び捨てもできないですけど…これなら、私も呼べるかなって」
「…ああ、いいんじゃねえの」
肯定的な声に安堵して顔をあげれば、ずいと顔を近付けられ反射的に1歩後退り、背後にあったダイニングテーブルに阻まれる。困惑しながら彼の顔を見やれば、どこか悪戯っぽく笑っていた。
「朝も言ったけど、敬語もなしだからな」
「敬語…」
「家の中でも敬語なんか使われてみろよ。気が休まらねえよ」
誰かに敬語を使われるということは、彼にとっては先輩であり主将である役目を演じなくてはならないということだ。本来なら他のどんな場所よりも心休まる空間であるはずの自宅で、私が敬語を使ってしまうことで彼にそう言う役割を意識させてしまうのだろう。それ以前に、家族間で敬語というのも妙な話であるわけで。
「頑張り、ます」
「それが敬語だっつーの。…じゃ、これから七瀬が敬語使う度にペナルティな」
「え!?た、例えばどのような…?」
「そうだなぁ…奈子さんに七瀬のとびきり恥ずかしい思い出話でも聞くか」
ニヤニヤと楽しそうに告げられた言葉に、ギョッとする。奈子さん、つまり、私のお母さん。お母さんは茶目っ気というか、いたずら心というか、とにかくそういうのが旺盛な人なのだ。彼が事情を話せば、私が記憶から消し去ったような話を嬉々として伝えるに決まっている。その姿が容易に想像できて背中を嫌な汗が伝ったような気がしたけれど、それぐらいのプレッシャーをかけなければ、私は優しいこの人に甘えてしまうのだろう。
だからグッと拳を握って、真っ直ぐに“兄”の顔を見上げた。
「鉄くん」
「ん?」
「改めて、よろしくね」
「……よくできました」
そう言ってぐしゃぐしゃと私の髪を撫でる大きな手はとても温かくて、呼び方や話し方が変わったところで この人の優しさには何ら変わりはないのだ。
朝早くから夜遅くまで仕事をしている母の代わりに私が家事を担当することは再婚前と変わらない。けれど家族が増えたことで、食事の量は格段に増えた。人数だけで言えば倍でしかないけれど、量で言えば倍では済まされない。食べ盛りの年齢であることに加えてスポーツをしている黒尾さんと、黒尾さんほどではなくても働き盛りの鉄平さんの食事量を、私やお母さんと同量で済ませられるわけもなく。炊事は1日のうちで1番大変な家事ではあるけれど、ガツガツと勢いよく食べてくれる人がいるのは心の底から嬉しいと思う。やり甲斐のようなものを感じて、大変さの中に確かな楽しさも感じていた。
春休みもあと数日となった今日も 同じように両親を見送ってから、黒尾さんと雑談をしながらそれぞれが必要な準備を進める。
「あ、夕飯に何か食べたいものってありますか?」
「和食」
「黒尾さんの答えはいつでも同じですね」
洗い終えた朝食の食器を片付けながら、そんな会話に笑みをこぼす。黒尾さんは、和食が好きらしい。秋刀魚が好きだと以前に聞いた気がするから、秋になれば希望を問う度にサンマと返されるのではないだろうか。そんなことを考えたところで背後からふっと影がさした。不思議に思って振り返れば、いつの間にか背後にいた黒尾さんが食器棚に右腕を突いて 至極真面目な顔で私を見下ろしていた。その距離に心臓が跳ねた気がしたけれど、気づかないふりをする。
「あの…」
「その呼び方、いつまでやるつもり?」
「え?」
「今は七瀬も“黒尾さん”だろ」
「あ…」
彼の言わんとしている意味はすぐに理解できた。黒尾七瀬となった私が、血縁はないとは言え 兄であり同居する彼を“黒尾さん”と呼ぶ不自然さ。それを指摘されているのだとすぐに分かったのは、慣れた呼び方に甘えていたけれど、きっと私も心のどこかではそう感じていたから。
「そう、ですよね…“黒尾さん”が染み付いてしまっていて」
「今すぐ変えろとは言わねえけど、変える努力はしていこうぜ。あと敬語も」
「…!が、がんばります」
「だから敬語もだって」
私の反応に満足したのか、喉で笑った黒尾さんが私から離れて行く。離れた距離に、周りの空気の温度がほんの少し下がったような気がした。そろそろ行くか、と リビングに用意されていたカバンの元へと向かう背中をぼんやりと眺める。なんて呼べばいいんだろう。無意識のうちに、ポツリとそんな声が口から漏れていた。それが耳に届いたのだろう、こちらを振り向いた彼は悪戯っぽくニンマリと笑う。
「お兄ちゃん♡」
「よ、呼びませんからね!?」
「なんだ、つまんねえの」
カラカラと愉快そうに笑った黒尾さんは、じゃあ行ってくる、とカバンを肩に提げてリビングを出て、私はその後を慌てて追いかける。両親も、兄も、出かける人は玄関まで見送ることがいつの間にか私の日課になっていた。行ってらっしゃい、と 靴を履いたところで声を掛ければ、こちらを振り向いた彼は口元を緩めて ぐしゃぐしゃと私の髪を撫でた。
「行ってくる」
そう言って出て行った玄関扉が閉まるのを眺めてから、ついさっき黒尾さんが触れた頭に自分で触れる。今あの人は、私の家族でお兄ちゃんなのだ。“黒尾さん”なんて他人行儀な呼び方をするべきではないと思う。だけど私は、彼が“黒尾”や“黒尾さん”という以外の呼ばれ方をしているのを聞いたことがない。研磨は“クロ”と呼んでいるけれど、黒尾の“クロ”なのだから その呼び方では意味がない。ぐるぐると渦巻く思考に終わりはなくて、私はリビングへと駆け戻り 携帯電話を手に取った。
黒尾さんが黒尾さんって呼ぶなって言う。
そんな私からのメールを受け取った研磨は、きっと全力で顔を顰めたことだろう。
◇
すっかり日も傾き 夕飯の用意も終盤に差し掛かった頃、ガチャリと玄関扉が開く音がした。パッと顔を上げれば、ただいま、と この数日ですっかり聴き慣れた声が聞こえてきて、兄の帰宅を確信する。手を洗ってタオルで拭いたところでリビングのドアが開いて、思い描いていたその人が顔を出した。私はこの数時間 彼の帰宅を待ち侘びていたのだから、そんな事も顔に出てしまっていたのかもしれない。おかえりなさい、とパタパタと駆け寄った私の顔を見て、彼は瞬きを一つ。
「ああ、ただいま…なんかあった?」
「私、分かったんです!」
「(敬語になってっけど まぁいいか)……うん、何を?」
「鉄くん」
得意気にそう呼べば、彼は驚いたように目を見開いた。
“黒尾さん”以外の呼び方を相談するつもりで研磨に送ったメールに対する返信は、返ってくるとしてもきっと練習が終わった後だとか、下手をすれば返信さえ来ないかもしれないと思っていたけれど、数分後には私の手元に届いて本当に驚いた。
――うちの親は鉄くんって呼んでる
たったそれだけの文面だったけれど、私が研磨に伝えたかった意図は的確に伝わっていたようだし、そして何よりも、それは私が求めていた回答に他ならない。研磨からのメールを受けてから、私は彼の帰宅を待ち侘びていたのだ。
私が不意に慣れない呼び方をしたせいか、面食らったように瞬きをする彼――黒尾さん、改め鉄くんを見て 少し気恥ずかしくなって顔を伏せた。
「お兄ちゃんは恥ずかしいし、呼び捨てもできないですけど…これなら、私も呼べるかなって」
「…ああ、いいんじゃねえの」
肯定的な声に安堵して顔をあげれば、ずいと顔を近付けられ反射的に1歩後退り、背後にあったダイニングテーブルに阻まれる。困惑しながら彼の顔を見やれば、どこか悪戯っぽく笑っていた。
「朝も言ったけど、敬語もなしだからな」
「敬語…」
「家の中でも敬語なんか使われてみろよ。気が休まらねえよ」
誰かに敬語を使われるということは、彼にとっては先輩であり主将である役目を演じなくてはならないということだ。本来なら他のどんな場所よりも心休まる空間であるはずの自宅で、私が敬語を使ってしまうことで彼にそう言う役割を意識させてしまうのだろう。それ以前に、家族間で敬語というのも妙な話であるわけで。
「頑張り、ます」
「それが敬語だっつーの。…じゃ、これから七瀬が敬語使う度にペナルティな」
「え!?た、例えばどのような…?」
「そうだなぁ…奈子さんに七瀬のとびきり恥ずかしい思い出話でも聞くか」
ニヤニヤと楽しそうに告げられた言葉に、ギョッとする。奈子さん、つまり、私のお母さん。お母さんは茶目っ気というか、いたずら心というか、とにかくそういうのが旺盛な人なのだ。彼が事情を話せば、私が記憶から消し去ったような話を嬉々として伝えるに決まっている。その姿が容易に想像できて背中を嫌な汗が伝ったような気がしたけれど、それぐらいのプレッシャーをかけなければ、私は優しいこの人に甘えてしまうのだろう。
だからグッと拳を握って、真っ直ぐに“兄”の顔を見上げた。
「鉄くん」
「ん?」
「改めて、よろしくね」
「……よくできました」
そう言ってぐしゃぐしゃと私の髪を撫でる大きな手はとても温かくて、呼び方や話し方が変わったところで この人の優しさには何ら変わりはないのだ。