ゼラニウムに捧ぐ
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あの日、決別を決意したはずのあの場所に縛り付けられた私の心は、身動きを取れないまま春を迎えた。
◇
4月。新しい制服を身に纏い、慣れない校内を歩くのはドキドキする。新入生とその勧誘に勤しむ上級生で溢れかえる空間を いくつもの部からの勧誘を四苦八苦しながら受け流し、やっとの思いでたどり着いた下足ホールに逃げ込んだ。急激に減った人口密度のために 酸素濃度が濃くなったような錯覚に陥る。
「佐倉さん」
「ひゃあっ!」
ほっと息を吐いた瞬間、背後から名前を呼ばれて肩が飛び跳ねる。変な汗をかきながら恐る恐る振り返った先には、私と目線の高さがさほど変わらない見知った顔があった。
「え、え?うそ…テツ君!?」
「はい、ボクです」
視線の先の彼――黒子テツヤは相変わらず感情の読めない表情で、だけど真っ直ぐな目をしている。
“あの出来事”以来、彼と関わることはなかった。否、彼が自分たちに関わってくれなかったと言った方が適切かもしれない。同じ中学校の同じ部に所属していたにも関わらず、こうして面と向き合うのは随分と久しぶりのことだった。
ああ、私の知っているテツ君だ。彼は何も変わっていない。そう思わせてくれる澄んだ瞳がただただ嬉しかった。
「ビックリした…まさか同じ高校だなんて」
「お伝えする機会がありませんでしたから」
「…あれ以来、私たちと関わってくれなかったもんね」
「そうですね…でも、ボクは知ってましたよ」
「ん?」
「佐倉さんが誠凛だって」
「え…?」
言葉の意味を測りかねて首を傾げる私にテツ君は控えめに微笑んで「行きましょう、同じクラスでしたよ」と さらりと驚きの事実を重ねてくる。目を瞬かせる私を気にせず下駄箱へと向かったテツ君の後を追い、真新しいローファーを こちらも真っ白な上履きに履き替えて、浮き立つ雰囲気で満たされた廊下を並んで歩く。
こうして隣に並んで歩くことなど、中学校で部活に入ってからは当たり前だった。学校で、練習前に、休憩中に、自主練中に、部活後の帰途で。その当然だったことがこんなにも懐かしく感じてしまう程に、昨日までの私たちは隔たっていたのだ。彼らが変わってしまったように、隣の彼も変わってしまっていたのだろうか。いや、あるいは私が。
どうでもいい過去に捕らわれた私の横で「部活…」ポツリと呟かれた言葉に顔を向ける。
「バスケ部に入ります」
「ほんと?そっか、嬉しいな。またテツ君のバスケが見れるんだ」
私の胸を占めたのは純粋な喜びだった。バスケが好きだと直向きな彼の姿勢が好きだった。誠凛バスケ部が、テツ君がまた夢中になれる場所であってほしい。私が願うことがあるとすれば、単純にただそれだけだ。
試合の応援に行かないとね。そう言って私の知るテツ君のプレーに思いを馳せていると、じっと視線を感じた。振り向いた先は当然ながら隣にいるテツ君で、どうしたのと問うより先に彼の静かな声が、確かな強さをもって言う。
「佐倉さんも、やりましょう」
「…え?」
「もう一度、一緒にバスケをやりましょう」
なんて嬉しい言葉なのだろう。もちろんだと即答できればどれだけ幸せだったことか。そう思いはすれど、過去を過去として消化できていない私は、前に進もうとしている彼の足手まといにしかならない。
せめて、この心が進むことを思い出してからでないといけない。今はまだ、私には彼と同じ位置に立つ資格があるとは思えなかった。「…ごめん、私は」ダメだよと言いかけた私の声を阻んだのは、やはり他ならぬテツ君だった。
「ダメなんて言わせません」
「どう、して? だって、私は」
「ボクが決めました。佐倉さんもバスケ部に入ります。異論は認めません」
「………え、ちょ、ちょっと待って!」
テツ君らしからぬ横暴な物言いに一瞬呆けてしまったけれど、ハッと我に返って制止する。歩みを止めた彼に釣られるように足を止めれば、真っ直ぐに私を見るテツ君の深い瞳から視線が離せなくなった。
忘れられないなら、乗り越えればいい。乗り越えられないなら、引き上げよう。踏み出せないなら、背中を押してあげる。囚われたままでいるのは、勿体無いから。
静かで穏やかで、だけど熱を孕んだ声が言う。まるで私のしがらみを知るかのように。
ああ、彼はきっと私を救い出そうとしてくれているんだ。その優しさに胸の中を暖かいものが広がった。私も、変われるだろうか。
「…テツ君って、こんなに強引な人だったっけ」
「少々強引なぐらいでないと、佐倉さんは動かないでしょう」
貴女は意外と頑固ですから。困ったように言われた言葉に苦笑いして、だけど自分のことを考えてくれる友人がいることが誇らしく、嬉しくて、少しくすぐったかった。
「前向きに検討します」
「いいえ、覚悟を決めてください。異論は認めないと言ったでしょう」
彼はいつだって真っ直ぐで本気なのだ。いよいよ私も覚悟を決めるしかないのだろうかと もう一度浮かべた苦笑とは裏腹に、彼はこんなにも頼もしい人だったんだな と、そんな事を考えた。
◇
4月。新しい制服を身に纏い、慣れない校内を歩くのはドキドキする。新入生とその勧誘に勤しむ上級生で溢れかえる空間を いくつもの部からの勧誘を四苦八苦しながら受け流し、やっとの思いでたどり着いた下足ホールに逃げ込んだ。急激に減った人口密度のために 酸素濃度が濃くなったような錯覚に陥る。
「佐倉さん」
「ひゃあっ!」
ほっと息を吐いた瞬間、背後から名前を呼ばれて肩が飛び跳ねる。変な汗をかきながら恐る恐る振り返った先には、私と目線の高さがさほど変わらない見知った顔があった。
「え、え?うそ…テツ君!?」
「はい、ボクです」
視線の先の彼――黒子テツヤは相変わらず感情の読めない表情で、だけど真っ直ぐな目をしている。
“あの出来事”以来、彼と関わることはなかった。否、彼が自分たちに関わってくれなかったと言った方が適切かもしれない。同じ中学校の同じ部に所属していたにも関わらず、こうして面と向き合うのは随分と久しぶりのことだった。
ああ、私の知っているテツ君だ。彼は何も変わっていない。そう思わせてくれる澄んだ瞳がただただ嬉しかった。
「ビックリした…まさか同じ高校だなんて」
「お伝えする機会がありませんでしたから」
「…あれ以来、私たちと関わってくれなかったもんね」
「そうですね…でも、ボクは知ってましたよ」
「ん?」
「佐倉さんが誠凛だって」
「え…?」
言葉の意味を測りかねて首を傾げる私にテツ君は控えめに微笑んで「行きましょう、同じクラスでしたよ」と さらりと驚きの事実を重ねてくる。目を瞬かせる私を気にせず下駄箱へと向かったテツ君の後を追い、真新しいローファーを こちらも真っ白な上履きに履き替えて、浮き立つ雰囲気で満たされた廊下を並んで歩く。
こうして隣に並んで歩くことなど、中学校で部活に入ってからは当たり前だった。学校で、練習前に、休憩中に、自主練中に、部活後の帰途で。その当然だったことがこんなにも懐かしく感じてしまう程に、昨日までの私たちは隔たっていたのだ。彼らが変わってしまったように、隣の彼も変わってしまっていたのだろうか。いや、あるいは私が。
どうでもいい過去に捕らわれた私の横で「部活…」ポツリと呟かれた言葉に顔を向ける。
「バスケ部に入ります」
「ほんと?そっか、嬉しいな。またテツ君のバスケが見れるんだ」
私の胸を占めたのは純粋な喜びだった。バスケが好きだと直向きな彼の姿勢が好きだった。誠凛バスケ部が、テツ君がまた夢中になれる場所であってほしい。私が願うことがあるとすれば、単純にただそれだけだ。
試合の応援に行かないとね。そう言って私の知るテツ君のプレーに思いを馳せていると、じっと視線を感じた。振り向いた先は当然ながら隣にいるテツ君で、どうしたのと問うより先に彼の静かな声が、確かな強さをもって言う。
「佐倉さんも、やりましょう」
「…え?」
「もう一度、一緒にバスケをやりましょう」
なんて嬉しい言葉なのだろう。もちろんだと即答できればどれだけ幸せだったことか。そう思いはすれど、過去を過去として消化できていない私は、前に進もうとしている彼の足手まといにしかならない。
せめて、この心が進むことを思い出してからでないといけない。今はまだ、私には彼と同じ位置に立つ資格があるとは思えなかった。「…ごめん、私は」ダメだよと言いかけた私の声を阻んだのは、やはり他ならぬテツ君だった。
「ダメなんて言わせません」
「どう、して? だって、私は」
「ボクが決めました。佐倉さんもバスケ部に入ります。異論は認めません」
「………え、ちょ、ちょっと待って!」
テツ君らしからぬ横暴な物言いに一瞬呆けてしまったけれど、ハッと我に返って制止する。歩みを止めた彼に釣られるように足を止めれば、真っ直ぐに私を見るテツ君の深い瞳から視線が離せなくなった。
忘れられないなら、乗り越えればいい。乗り越えられないなら、引き上げよう。踏み出せないなら、背中を押してあげる。囚われたままでいるのは、勿体無いから。
静かで穏やかで、だけど熱を孕んだ声が言う。まるで私のしがらみを知るかのように。
ああ、彼はきっと私を救い出そうとしてくれているんだ。その優しさに胸の中を暖かいものが広がった。私も、変われるだろうか。
「…テツ君って、こんなに強引な人だったっけ」
「少々強引なぐらいでないと、佐倉さんは動かないでしょう」
貴女は意外と頑固ですから。困ったように言われた言葉に苦笑いして、だけど自分のことを考えてくれる友人がいることが誇らしく、嬉しくて、少しくすぐったかった。
「前向きに検討します」
「いいえ、覚悟を決めてください。異論は認めないと言ったでしょう」
彼はいつだって真っ直ぐで本気なのだ。いよいよ私も覚悟を決めるしかないのだろうかと もう一度浮かべた苦笑とは裏腹に、彼はこんなにも頼もしい人だったんだな と、そんな事を考えた。
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