狙ってしまえ左胸
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すっかり日も落ちて蛍光灯に照らされる部室棟。練習を終えて帰途につく選手たちを見送りながら、入れ違うように部室へと入る。誰もいなくなった部室の1番奥にある棚には、過去何十年というスコアブックが保管されている。それを資料として眺めては戻して、ということを繰り返すうちに並び順が随分と乱れてしまっていたのが前々から気になっていた。古い方から並び替えるだけだから、そう時間はかからないだろう。そう思って今日はこの棚を整理してから帰ろうと 練習開始前から決めていた。
棚の左上から年代順になるように並べ替えているとガチャリと部室のドアが開き、鞄を取りにきたのだろうか、制服姿の岩泉さんが顔を出したので 半ば反射的にお疲れ様ですと声を掛ける。
「あん?七瀬はまだ帰らねえのかよ」
「あ、でもここの整理だけ終わればすぐに」
「そうか。……」
鍵は閉めておきます、と そう言えば、鞄を肩にかけた岩泉さんは何か考え込むような仕草を見せた。私に鍵を任せるのはそんなに不安だろうかと、少し心配になったところで 岩泉さんはなにか閃いたかのようにパッと顔をあげ、鍵は任せた、そう言った後に言葉を続ける。
「もう暗いから、絶対1人で帰るなよ」
「え?」
「いいな、命令だからな!1人で帰るんじゃねえぞ」
「は、はい、わかりました…?」
「よし。じゃ、お疲れさん」
私の返事を聞いた岩泉さんは納得したように頷いてから、ひらりと片手を振って部室を出て行ってしまった。バタンと音を立てて閉じたドアを見つめながら、ぱちぱちと目を瞬かせる。
こうして私が1人で残って何かの作業をするのは、今日が初めてではない。そして過去のこういう場面では、岩泉さん本人が終わるのを待っていてくれたり、矢巾や金田一を呼び付け 私を送るように言いつけてから帰途についてくれていた。そのことを考えれば今日の岩泉さんの言動は“いつも”と違っていたけれど、もしかしたら外で誰かが待ってくれているのかもしれない。そんな考えから早く終わらせてしまおうと棚の整理をしていた手を再び動かしたけれど、すぐにピタリと動きを止めてしまった。
もしも誰もいなかったらどうしよう。そう考えたら頬が引き攣った。
別に、暗いと怖くて1人じゃ帰れないと言いたいわけではない。けれど岩泉さんが“1人で帰るな”と言ってくれたのは私を心配してのことで、その言葉に対して私は了承の返事をした。それなのに本当は1人で帰ったとあとあと知られたら、きっと岩泉さんに怒られる。怒られることが怖いのではない。尊敬する先輩の厚意を裏切ってしまうことが申し訳なく悲しいと思う。
もう誰もいなかったらどうしよう…。もう一度そんなことを考えたところでガチャリと部室の扉が開き、不意をつかれたその音にビクリと肩が跳ねた。そろそろと顔を向ければ、私の姿を認識して少し驚いたような表情をした我が部の主将の姿がある。
「お、及川さん…?」
「あれ、七瀬まだいたんだ。もうみんな帰っちゃったかと思ってた」
「はい。少し棚の整理を…。及川さんもまだ残ってたんですね」
「うん、女の子たちの相手をしてたら長引いちゃった」
へらへらと軽い笑顔で言われた言葉に、ジトリと視線を向ける。そう言えば、体育館から部室に引き上げてくる時にすれ違った女子バレー部の3年生たちが「見た目に騙されてる」とか「本性を知らない」「かわいそうに」とか、そんなことを言っていた。あれは及川さんに群がる女子生徒たちのことを言っていたのかと察して納得がいく。
「ああ、それでさっき女バレの人たちが…」
「え、なに?何か言ってたの?」
「……いえ、私の口からはとても」
「どんな言われ様なのさ!?」
手で口を覆って目を逸らした私の様子に、及川さんは傷付いたように狼狽えた。先輩である彼の、先輩らしくない一面。幼稚で、軽薄で、信頼には値しないような。
及川さんの表面しか知らない人は、先刻の女の子たちのように その見た目と愛想の良さに釣られて黄色い声を上げながら彼を取り囲む。及川徹という人物を知る人は、女バレの人たちのように冷ややかな目を彼に向ける。そして、本質――彼の奥底に隠された、プライドと情熱を知る私は。
クスクスと笑いながら棚へと向かい直し、整理の手を動かし始める。ガサガサと及川さんが着替えているであろう音が背後から聞こえるけれど、今更気にすることではない。私に部員の着替えを見る気などなければ、彼にだって見せる気などない。もし仮に見てしまったとして、見られてしまったとして、だからと言って何事もない。運動部の選手とマネージャーなど、きっとどこの部だってそういう関係だ。だから私は視線も意識も自分の手元に集中したまま、何も気にせず着替えているのであろう及川さんに声だけを向ける。
「まぁ、及川さんとちゃんと関わったことある方はボロクソですよね」
「ねぇ普通そーゆーのってフォローするところじゃない?」
「…でも及川さんの素敵なところ、私はたくさん知ってます」
例えば、へらへらと軽い態度でいながらも 本当は誰よりも周りを見て空気を読んでいること。子供のようなふざけた言動が 誰かの心を軽くすることがあったとして、決して誰かを傷付けたりはしないこと。本当は、誰よりも何よりもバレーボールに対して真摯であること。ボールを追うその真っ直ぐな視線が、真剣な横顔が、不覚にも格好良いと思ってしまうこと。
私は、知っている。後輩として彼と同じ部に入った5年前からずっと。
「ほんっと、七瀬はさ」
「え…、ひゃあっ」
強い力で肩を引かれ、手に持っていたスコアブックが ばさばさと音を立てて床に落ちた。気付いた時には背中が壁に触れていて、まるで私を閉じ込めるように すぐ目の前には制服に着替えた及川さんが立っている。あれ、及川さん、いつの間にこんなに近くに、とか そんなことよりも。これは いわゆる壁ドンだと、そう理解が及んだところでどうしようもなく恥ずかしくなった。及川さん。彼の名を呼ぼうとしたはずなのに、喉がカラカラに乾いてしまって 声として紡がれることはない。
「俺を“いい先輩”では いさせてくれないんだね」
至近距離で真っ直ぐに私を射抜く視線の鋭さに、瞳の奥に孕んだ確かな熱に、ぞくりとする。軽薄の仮面の下に隠された、獰猛な一面。彼は紛うこと無き強者なのだと思い知らされるその瞳に 私は堪らなく惹かれているのだと、そのとき初めて自覚した。
焼き尽くすような本気を宿したこの瞳を、一体誰が軽薄などと言えるだろう。
「本当はもう少し待ってあげるつもりだったけど」
「お いかわ、さん…っ」
「ごめん、無理」
私たちの他には誰もいない、無人の部室。だけど いつ部の誰が現れるかも分からないこの場所で、有無も言わさず喰らわれたのは、唇か、それとも震えた心か。抗議の声を上げるために、或いは酸素を求めるために僅かに開いた口元から注がれる呑み込まれるような熱に灼かれながら、私はただ、縋るように彼の服を握りしめた。
棚の左上から年代順になるように並べ替えているとガチャリと部室のドアが開き、鞄を取りにきたのだろうか、制服姿の岩泉さんが顔を出したので 半ば反射的にお疲れ様ですと声を掛ける。
「あん?七瀬はまだ帰らねえのかよ」
「あ、でもここの整理だけ終わればすぐに」
「そうか。……」
鍵は閉めておきます、と そう言えば、鞄を肩にかけた岩泉さんは何か考え込むような仕草を見せた。私に鍵を任せるのはそんなに不安だろうかと、少し心配になったところで 岩泉さんはなにか閃いたかのようにパッと顔をあげ、鍵は任せた、そう言った後に言葉を続ける。
「もう暗いから、絶対1人で帰るなよ」
「え?」
「いいな、命令だからな!1人で帰るんじゃねえぞ」
「は、はい、わかりました…?」
「よし。じゃ、お疲れさん」
私の返事を聞いた岩泉さんは納得したように頷いてから、ひらりと片手を振って部室を出て行ってしまった。バタンと音を立てて閉じたドアを見つめながら、ぱちぱちと目を瞬かせる。
こうして私が1人で残って何かの作業をするのは、今日が初めてではない。そして過去のこういう場面では、岩泉さん本人が終わるのを待っていてくれたり、矢巾や金田一を呼び付け 私を送るように言いつけてから帰途についてくれていた。そのことを考えれば今日の岩泉さんの言動は“いつも”と違っていたけれど、もしかしたら外で誰かが待ってくれているのかもしれない。そんな考えから早く終わらせてしまおうと棚の整理をしていた手を再び動かしたけれど、すぐにピタリと動きを止めてしまった。
もしも誰もいなかったらどうしよう。そう考えたら頬が引き攣った。
別に、暗いと怖くて1人じゃ帰れないと言いたいわけではない。けれど岩泉さんが“1人で帰るな”と言ってくれたのは私を心配してのことで、その言葉に対して私は了承の返事をした。それなのに本当は1人で帰ったとあとあと知られたら、きっと岩泉さんに怒られる。怒られることが怖いのではない。尊敬する先輩の厚意を裏切ってしまうことが申し訳なく悲しいと思う。
もう誰もいなかったらどうしよう…。もう一度そんなことを考えたところでガチャリと部室の扉が開き、不意をつかれたその音にビクリと肩が跳ねた。そろそろと顔を向ければ、私の姿を認識して少し驚いたような表情をした我が部の主将の姿がある。
「お、及川さん…?」
「あれ、七瀬まだいたんだ。もうみんな帰っちゃったかと思ってた」
「はい。少し棚の整理を…。及川さんもまだ残ってたんですね」
「うん、女の子たちの相手をしてたら長引いちゃった」
へらへらと軽い笑顔で言われた言葉に、ジトリと視線を向ける。そう言えば、体育館から部室に引き上げてくる時にすれ違った女子バレー部の3年生たちが「見た目に騙されてる」とか「本性を知らない」「かわいそうに」とか、そんなことを言っていた。あれは及川さんに群がる女子生徒たちのことを言っていたのかと察して納得がいく。
「ああ、それでさっき女バレの人たちが…」
「え、なに?何か言ってたの?」
「……いえ、私の口からはとても」
「どんな言われ様なのさ!?」
手で口を覆って目を逸らした私の様子に、及川さんは傷付いたように狼狽えた。先輩である彼の、先輩らしくない一面。幼稚で、軽薄で、信頼には値しないような。
及川さんの表面しか知らない人は、先刻の女の子たちのように その見た目と愛想の良さに釣られて黄色い声を上げながら彼を取り囲む。及川徹という人物を知る人は、女バレの人たちのように冷ややかな目を彼に向ける。そして、本質――彼の奥底に隠された、プライドと情熱を知る私は。
クスクスと笑いながら棚へと向かい直し、整理の手を動かし始める。ガサガサと及川さんが着替えているであろう音が背後から聞こえるけれど、今更気にすることではない。私に部員の着替えを見る気などなければ、彼にだって見せる気などない。もし仮に見てしまったとして、見られてしまったとして、だからと言って何事もない。運動部の選手とマネージャーなど、きっとどこの部だってそういう関係だ。だから私は視線も意識も自分の手元に集中したまま、何も気にせず着替えているのであろう及川さんに声だけを向ける。
「まぁ、及川さんとちゃんと関わったことある方はボロクソですよね」
「ねぇ普通そーゆーのってフォローするところじゃない?」
「…でも及川さんの素敵なところ、私はたくさん知ってます」
例えば、へらへらと軽い態度でいながらも 本当は誰よりも周りを見て空気を読んでいること。子供のようなふざけた言動が 誰かの心を軽くすることがあったとして、決して誰かを傷付けたりはしないこと。本当は、誰よりも何よりもバレーボールに対して真摯であること。ボールを追うその真っ直ぐな視線が、真剣な横顔が、不覚にも格好良いと思ってしまうこと。
私は、知っている。後輩として彼と同じ部に入った5年前からずっと。
「ほんっと、七瀬はさ」
「え…、ひゃあっ」
強い力で肩を引かれ、手に持っていたスコアブックが ばさばさと音を立てて床に落ちた。気付いた時には背中が壁に触れていて、まるで私を閉じ込めるように すぐ目の前には制服に着替えた及川さんが立っている。あれ、及川さん、いつの間にこんなに近くに、とか そんなことよりも。これは いわゆる壁ドンだと、そう理解が及んだところでどうしようもなく恥ずかしくなった。及川さん。彼の名を呼ぼうとしたはずなのに、喉がカラカラに乾いてしまって 声として紡がれることはない。
「俺を“いい先輩”では いさせてくれないんだね」
至近距離で真っ直ぐに私を射抜く視線の鋭さに、瞳の奥に孕んだ確かな熱に、ぞくりとする。軽薄の仮面の下に隠された、獰猛な一面。彼は紛うこと無き強者なのだと思い知らされるその瞳に 私は堪らなく惹かれているのだと、そのとき初めて自覚した。
焼き尽くすような本気を宿したこの瞳を、一体誰が軽薄などと言えるだろう。
「本当はもう少し待ってあげるつもりだったけど」
「お いかわ、さん…っ」
「ごめん、無理」
私たちの他には誰もいない、無人の部室。だけど いつ部の誰が現れるかも分からないこの場所で、有無も言わさず喰らわれたのは、唇か、それとも震えた心か。抗議の声を上げるために、或いは酸素を求めるために僅かに開いた口元から注がれる呑み込まれるような熱に灼かれながら、私はただ、縋るように彼の服を握りしめた。
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