棺に眠るは愛しき人
僕の目の前には美しき女性が横たわっている。
まるで白雪姫の棺のような、木棺に硝子窓が付いた寝床には、色とりどりの花々が咲き乱れている。
「やっと、ふたりきりになれましたね、母さま」
硝子越し、大切な僕の母さまにキスをする。
僕の母である水鏡 は、幼い僕を残して冷たい湖に身を沈めた。爽やかな初夏の風が吹く、穏やかな午後だった。
脳裏に焼き付いている風景。白いワンピースに白い帽子、肌が透き通るように美しい母さまはあの日、最後の優しいキスを残して、たったひとりで彼方の世界に行ってしまった。
「母さま……愛しています」
屍を半永久的に保存出来るエンバーミングという特殊な技法で、未だに母さまは腐らず生前の美しさを誇る。
『璃空 、あなたの成長を見届けたかった……先立つ母を許してちょうだいね』
母さまを酷く浅ましく抱く父さまは、まるで獣のようで。白く細い母さまの腕や足には、いつも痣があった。そんな父さまに耐えられず、母さまは死んでしまったのだ。
「でももう父さまは死にました」
僕は母さまを死に追いやった父さまをずっと憎んでいた。いつか、いつか僕が大きくなったら仇を取ろうと思っていた。それが今日、叶ったのだ。
「さあ、母さま。貴女の顔にキスをさせて下さい」
カタン、と硝子を外す。きめ細やかな陶器のような肌に、キスをする。
「ああ、花が萎れてきてますね。取り替えましょう」
僕は、母さまの周りに敷き詰められた花々をひとつ、ひとつと取り除いていった。
「これは……?」
母さまの身体の横にある、茶色の分厚い本。それは母さまの生前に書いた日記帳だった。
ぱらり、ぱらりと捲れば懐かしい母さまの繊細な文字がつらつらと並んでいる。
『嗚呼、神様。懺悔致します。わたくしは、わたくしは、獣道へと足を踏み入れてしまいました。どうかお許し下さい』
『神様。またあの方といやらしい獣のように交わってしまいました。なんておぞましい。穢らわしい。けれどその快楽は得も言われぬ恍惚とエクスタシーをわたくしに与えるのです』
『神を背く行為の数々をお許し下さい。ただただあの方とまぐわい、淫らな行為に耽るのが堪らなく気持ちがいいのです』
『神様、お許し下さい。貴方に嫁ぐはずのわたくしが、あの方を愛し子供を授かったことを。どうかお許し下さい』
「母さま……?」
母さまは父さまを愛していたのか?あんな、母さまを鞭打ち、猿ぐつわを嵌めて、嫌がり啜り泣くのをぎらぎらとした瞳で一心不乱に掻き抱いていた父さまを? 愛していたのか……。
『神様。罰を与えるならばどうか、わたくしにお与え下さい。貴方様の元に嫁ぐ筈だったわたくし。村の定めと諦めていたわたくし。それを救って下さったあの方。わたくしはあの方を愛してしまったのです』
『やはり神様はお怒りなのですね。わかりました。わたくしは貴方さまの元へと参ります。ですからどうか、どうかあの方と息子は見逃し下さい』
『晃那 さま、璃空、どうかお元気で』
母さまは父さまのせいで死んだ訳ではなかった。むしろ愛していた。僕の仇は父さまではなく、母さまのいう『神様』。
神様というものは、一体どうしたら仇を討てるというのか……。
そういえば、父さまは死ぬ間際にこんなことを笑いながら話した。
『璃空、お前の中に宿る神。お前は息子の璃空の身体を奪い、水鏡を自分のものにする予定だったのだろうが、残念だったな。水鏡は永遠に私のものだ……』
そうか。
そうだったのか。
僕が母さまを、水鏡を死に追いやった張本人だったのか。
母さまは僕を璃空 と呼ぶことがあった。
僕はよく、記憶が飛んだ。幼い頃から。気が付いたら、母さまが怯えた瞳で僕を見ていて『母さま』と呼べばホッとした表情になり僕を抱き締めた。
『璃空。貴方の中には神様がいらっしゃるの。だからお願い。どうか貴方の中の神様に、わたくしのことをお許し頂けるように願って』
『璃空、お前の中の神とやらを、いつか必ず私が祓ってやるからな』
「母さま、父さま……ふたりとも僕のせいで……」
嗚咽と共に涙が零れ落ちる。喉の奥で低い笑い声が漏れる。
「ふ、ふふふふ……。渡しはしない。水鏡は我のものだ」
僕は自分の喉から漏れ出る声に驚きながら、次第に意識が遠くなっていった。
────
────────
「嗚呼、神様。お許し下さいっ」
水鏡の身体が我の下で艶めかしく動いている。ふたりの愛し合う姿を月だけが見ている。
水鏡を取り戻すのは簡単だった。魂さえこの世に呼び戻せばいいだけ。神である我には容易いこと。
「ふあ、ああんっ」
だがしかし、璃空の奴には困ったものだ。彼奴は我の意識の一瞬の隙をついて、自殺を図ろうとする。やっと手に入れた幸福を手放すものか。
「水鏡、お前は我だけを愛せばいい」
「あ、あ、あああっ──」
淫らな宴は終わりなく、水鏡はやがて璃空である神との子を宿すだろう。あの世で晃那と暮らす彼女の幸せは、永遠に失われたままで。
完
まるで白雪姫の棺のような、木棺に硝子窓が付いた寝床には、色とりどりの花々が咲き乱れている。
「やっと、ふたりきりになれましたね、母さま」
硝子越し、大切な僕の母さまにキスをする。
僕の母である
脳裏に焼き付いている風景。白いワンピースに白い帽子、肌が透き通るように美しい母さまはあの日、最後の優しいキスを残して、たったひとりで彼方の世界に行ってしまった。
「母さま……愛しています」
屍を半永久的に保存出来るエンバーミングという特殊な技法で、未だに母さまは腐らず生前の美しさを誇る。
『
母さまを酷く浅ましく抱く父さまは、まるで獣のようで。白く細い母さまの腕や足には、いつも痣があった。そんな父さまに耐えられず、母さまは死んでしまったのだ。
「でももう父さまは死にました」
僕は母さまを死に追いやった父さまをずっと憎んでいた。いつか、いつか僕が大きくなったら仇を取ろうと思っていた。それが今日、叶ったのだ。
「さあ、母さま。貴女の顔にキスをさせて下さい」
カタン、と硝子を外す。きめ細やかな陶器のような肌に、キスをする。
「ああ、花が萎れてきてますね。取り替えましょう」
僕は、母さまの周りに敷き詰められた花々をひとつ、ひとつと取り除いていった。
「これは……?」
母さまの身体の横にある、茶色の分厚い本。それは母さまの生前に書いた日記帳だった。
ぱらり、ぱらりと捲れば懐かしい母さまの繊細な文字がつらつらと並んでいる。
『嗚呼、神様。懺悔致します。わたくしは、わたくしは、獣道へと足を踏み入れてしまいました。どうかお許し下さい』
『神様。またあの方といやらしい獣のように交わってしまいました。なんておぞましい。穢らわしい。けれどその快楽は得も言われぬ恍惚とエクスタシーをわたくしに与えるのです』
『神を背く行為の数々をお許し下さい。ただただあの方とまぐわい、淫らな行為に耽るのが堪らなく気持ちがいいのです』
『神様、お許し下さい。貴方に嫁ぐはずのわたくしが、あの方を愛し子供を授かったことを。どうかお許し下さい』
「母さま……?」
母さまは父さまを愛していたのか?あんな、母さまを鞭打ち、猿ぐつわを嵌めて、嫌がり啜り泣くのをぎらぎらとした瞳で一心不乱に掻き抱いていた父さまを? 愛していたのか……。
『神様。罰を与えるならばどうか、わたくしにお与え下さい。貴方様の元に嫁ぐ筈だったわたくし。村の定めと諦めていたわたくし。それを救って下さったあの方。わたくしはあの方を愛してしまったのです』
『やはり神様はお怒りなのですね。わかりました。わたくしは貴方さまの元へと参ります。ですからどうか、どうかあの方と息子は見逃し下さい』
『
母さまは父さまのせいで死んだ訳ではなかった。むしろ愛していた。僕の仇は父さまではなく、母さまのいう『神様』。
神様というものは、一体どうしたら仇を討てるというのか……。
そういえば、父さまは死ぬ間際にこんなことを笑いながら話した。
『璃空、お前の中に宿る神。お前は息子の璃空の身体を奪い、水鏡を自分のものにする予定だったのだろうが、残念だったな。水鏡は永遠に私のものだ……』
そうか。
そうだったのか。
僕が母さまを、水鏡を死に追いやった張本人だったのか。
母さまは僕を
僕はよく、記憶が飛んだ。幼い頃から。気が付いたら、母さまが怯えた瞳で僕を見ていて『母さま』と呼べばホッとした表情になり僕を抱き締めた。
『璃空。貴方の中には神様がいらっしゃるの。だからお願い。どうか貴方の中の神様に、わたくしのことをお許し頂けるように願って』
『璃空、お前の中の神とやらを、いつか必ず私が祓ってやるからな』
「母さま、父さま……ふたりとも僕のせいで……」
嗚咽と共に涙が零れ落ちる。喉の奥で低い笑い声が漏れる。
「ふ、ふふふふ……。渡しはしない。水鏡は我のものだ」
僕は自分の喉から漏れ出る声に驚きながら、次第に意識が遠くなっていった。
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「嗚呼、神様。お許し下さいっ」
水鏡の身体が我の下で艶めかしく動いている。ふたりの愛し合う姿を月だけが見ている。
水鏡を取り戻すのは簡単だった。魂さえこの世に呼び戻せばいいだけ。神である我には容易いこと。
「ふあ、ああんっ」
だがしかし、璃空の奴には困ったものだ。彼奴は我の意識の一瞬の隙をついて、自殺を図ろうとする。やっと手に入れた幸福を手放すものか。
「水鏡、お前は我だけを愛せばいい」
「あ、あ、あああっ──」
淫らな宴は終わりなく、水鏡はやがて璃空である神との子を宿すだろう。あの世で晃那と暮らす彼女の幸せは、永遠に失われたままで。
完
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