小説家とマグカップ

 学生時代もあっという間に過ぎていき、それでも私達3人は共に時間を歩んでいました。

 実家の広い大きな一戸建てを離れ、ミーナを連れて私と恋人は、小さなアパートメントを借りました。

 恋人と私はお互いに支え合いながら働き、毎日の食費を削って慎ましやかな暮らし。貧しくとも私達の心は豊かでした。

 この3人で過ごすささやかな1日1日を愛していましたから。

 恋人は私にミーナから聞いた物語を聞きたがったので、ふたりでいられる時に少しずつ話して聞かせました。

 その頃でも私は、毎日ミーナの物語を聞くのは習慣でしたので。


 と言うのも、人魚の声というのは心地よく私をリラックスさせ、いつの間にか眠りに誘ってくれますから、仕事で疲れた体にはいい子守唄だったのです。

 ある日、夕食後の食後休憩に恋人にせがまれて、いつものように物語を話して聞かせました。

 最後の言葉を紡ぎ終えた後、恋人は私に提案します。

 「ミーナの物語を世界中の人に届けるべきだわ」

 恋人のこの一言がなければ私は今、ただの
しがないサラリーマンのままだったでしょう。

 私は素敵な恋人を持ったものです。

 恋人の言葉にミーナはマグカップの中で、

 ぱしゃん。と跳ねました。

 見るとにこにこしており、

『とても素敵な提案ね』

 自分の語り続けた物語を、たくさんの人に読んでもらえる事。

 彼女は夢を見始めていました。

 小説を書いた事もない私をふたりが励まし、私は彼女達が喜ぶならと筆を執りました。

 毎日僅かな時間を見つけながら机に向かい、少しずつ少しずつ物語を書きため続けたのです。

 こうして約3年掛かりで出来上がったのが、『人魚の夢物語』の第1集でした。

 出来上がってすぐに出版社に送って見たものの、色好い返事は頂けませんでした。

 A社が駄目ならB社。B社が駄目ならC社と
たくさんの出版社に送りましたが、どこも心に響かなかったようです。

「私達以外にミーナの物語は届かないのか」

 諦めかける私に恋人は、

「そんな事ないわ。出版社に見る目がないだけよ」

 と言い、励ましてくれました。

 私も本音は諦めたくなかったので、執筆作業は続けながら他の方法を模索しました。

 書き上げた人魚の夢物語の第1集に、手直しを加えました。

 出版社に送った時にアドバイスをもらっていたので、それを参考にして下手ながらイラストも描いてみます。

 ミーナの物語をひとりでも多くの人に読んでもらいたい。

 共働きで忙しい中、恋人はひとつの提案をします。

「私達で本を出しましょう」

 恋人は自費出版の道を示しました。

 しかし私達の暮らしはお世辞にも満足な生活とは言えず、お金の心配がありました。

 読者の皆さんは、実家に帰ったら? と思うかもしれません。

 しかし私も男でしたので、親に頼らず自立した生活をしたかったのです。

 金銭の問題があっても恋人は『人魚の夢物語』の出版をしたいと強く望んでくれたので、私達は更に節約をしながら仕事を頑張ったのです。

 ミーナもマグカップの中からぱしゃぱしゃと泳いで、応援してくれました。

 5年後、ようやっとお金が貯まり、恋人と
さてどうしたらお客さんはこの本を手に取ってくれるかを、相談しました。

 その時に私は考えます。

「無名の作家の本を、誰が手に取るだろうか?」と。


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