小説家とマグカップ

 小説家となって早34年。

 沢山の小説を書いてきた私ですが、それらはある少女から聞かされて書いていたと言ったら、読者の皆さんは驚くでしょうか?

 出逢って52年、あの日から毎晩布団に入った寝しなに、彼女は物語を聞かせてくれます。

 私はその物語を聞きながら、夢の世界である時は異国の王子に、ある時は世界を旅する詩人にと、なんにでも変身出来ました。

 今現在、私がこうして作家業をしていられるのも、全て彼女のおかげです。

 そんな彼女との出逢いはそう、母親に連れられて行った一件の輸入雑貨店。

 母親の友人が店を開いたお祝いに、母と共に足を運んだのです。

 いつの世も、大人の会話というものは子供には長く退屈なもの。

 母が友人と話している間ひまだった私は、店に並べられた輸入雑貨の数々を見て回りました。

「ベタベタ触っちゃ駄目よ」

 母の注意に返事を返し、触らず見つめるだけにしました。

 そこかしこに綺麗にディスプレイされた品々は、子供心にも沸き立つようなきらきらとした宝物でいっぱいでした。

 メリーゴーランドのオルゴールや天使の描かれたロケットのついたペンダント、中には高級そうなティーカップもあり私は瞳を輝かせたものです。

 ふと、その中で目を引くひとつのマグカップがあり、よく見ようと顔を近づけます。

 ぱしゃぱしゃ。

 気のせいかな? カップの絵が動いた気がする……。

 小さな私は首を傾げつつ、マグカップの絵を観察します。

 よくある楕円形の細長いマグカップの外側には、沢山の魚達が描かれており、色のコントラストが美しいそれは綺麗な海の絵でありました。

 その内側には、人魚の絵がひとつだけぽつんと淋しそうに描かれています。

 人魚は蜂蜜色の瞳に、澄んだ海のターコイズブルーのような美しい髪をした少女でした。

 可愛らしい顔立ちをしていたけれど、どこか悲しい表情をしています。

 ひとりで淋しくないのかな。

 そんな事を考えていたその時、

『苦しい、助けて』

 ふと誰かの声がして周りをキョロキョロと見渡しますが、母親とその友人以外には誰もいません。

 不思議に思いながら視線をマグカップに戻すと、なんと人魚の絵が苦しそうに動き回っていたのです。

『みず、水が欲しい』

 どうやらさっきの声も彼女が発していたようで。

 慌てた私は、

「お母さん、ボクあのマグカップが欲しい!」

 母親の元に駆け寄り、裾を引っ張りました。

「あら素敵ね」

 母親もマグカップを一目見て気に入り、すぐに買ってくれました。

 大きくなってから聞いた話ですが、このマグカップは海外の有名なイラストレーターが描いた絵を使っていたそうです。

 作られたのは一点のみの貴重な品で、かなりの値段だったみたいですが、キャリアウーマンの母は気前よく私にプレゼントをしてくれました。

 家に帰り、マグカップに水を入れてあげると彼女は、

『ぼうや、ありがとう。わたしの名前はミーナよ』

 そう言って微笑み、自己紹介をしてくれました。

 それからというもの毎朝彼女、ミーナのいるマグカップに水を入れ替えてやるのが、私の
日課になったのです。

 一度、オレンジジュースや牛乳を入れてみましたが、やはり水ではないと苦しいようで、私はそのマグカップを使わず眺めるだけとしました。

「せっかく買ってあげたのに、使わないなんて変な子ね」

 と、母は呆れていましたが、私は毎日綺麗な泳ぎを見せてくれる彼女を見るだけで満足でした。

 しかしミーナが動き話しかけるのは私のみで、父も母も兄弟の誰として確認出来ないようで。

 私は自分だけが選ばれたのだと、内心誇らしく思いました。


『今日も素敵な物語を話すわ』

 あの日から彼女は毎日、私が布団に入ったのを見届けてから必ずひとつ、物語を話してくれたのです。

 ミーナの話すお伽話は、どれも絵本に載らない不思議な物ばかりで、夢の中で私は何にでも成れました。

 それは人魚の彼女ならではの美しいハープのような声で紡がれて、私はうっとりとしながらいつの間にか、すやすやと眠るのです。

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