episode:1
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今日は朝からともかくムシャクシャしていた、機嫌が悪かった、そうだった気がする。今となってはもう覚えてもいない。対照的に少し浮ついたような気分で、俺は帰路に着いていた。
タバコを銜えながら歩き、今日のことを空に消える煙に乗せて朧気に思い出す。
とにかく学校をフケたくて、俺が選んだ場所は長年足を運ばなかった水族館だった。この辺じゃ1番大きな水族館で、ガキの頃はしょっちゅうおふくろに連れて行ってもらっていた……と思う。
開園時間から少し経ち、水族館の入口をくぐると、まぁ分かっちゃいたが、従業員たちの怯えや好奇の視線に貫かれる。いつもの事、本当に、文句を言うつもりも毛頭ねぇが、ジロジロと見られて騒がれるのは気持ちのいいもんでもねぇ。
俺は人気のない場所へと移動し、展示されている魚を見る。昔から海洋生物にはそれなりの興味があった。ただそれも専門的な知識でもなく、ちょっと齧った程度のお粗末なモンで、展示されている魚の横に書かれている説明文を辿り、知らないことの方が多いのだと知るものだった。
目当てもなくフラフラと館内を歩き、確か、そうだ。館内放送で【イルカショー】の案内が流れたから、俺はそちらへと自然に足を運んだような気がする。
平日故に、この水族館の名物であろうイルカショーの客席は空席が多く、俺が来たのを見て、数組の親子連れと何人かの老夫婦やデートに来たであろう若者が一斉にこちらを見る。少々居づらくなったが、俺は何処吹く風を装ってそいつらから1番離れた席に座る。
少し時間が経つと、ショーの始まりを告げるBGMが鳴り始め、俺は腕を組みながらじ、とショーに集中をする。イルカってーのは賢い生き物で、人間に愛情を覚えたり芸が嫌だと仮病したりするそうだ。
BGMと共にステージ端から3人のトレーナーと3頭のイルカが滑るように現れ、俺に注目していた他の観客たちもついにそちらを向いて疎らに拍手をする。
一番最初に入ってきた野郎のトレーナーと女のトレーナーが俺を見つけたのか、微かに不躾な視線と表情を寄越すも、俺はまぁいつもの事だと目を細める。
が、1番最後に入ってきた若い女のトレーナーは、俺を何でかじ、と見つめて何処か嬉しそうな笑みを浮かべている。あぁ、いつもの【アレ】か。と自分の容姿に騒ぐうるせぇアマ達の顔を思い出して振り払う。女ってのはどうも喧しくて好かねぇ。
野郎の自己紹介が終わり、女の自己紹介が始まった辺りで、俺をじっと見つめていた若い女のトレーナーが控えめに俺に手を振ってきた。あぁ鬱陶しい、といつもの様にシカトこいてイルカを見つめる事に徹する。若い女のトレーナーは分かりやすく肩を落とすが、俺の知ったこっちゃねぇ。
そうしているうちに女のトレーナーの自己紹介が終わり、若い女の自己紹介が始まる。どうやら新人らしい。
『【皆さんはじめまして!新人トレーナーの「叶絵」と、新人イルカの「ラブ」です!まだまだ未熟ですけど、ラブと一緒にこのショーを皆さんと楽しめたらいいなって思います!よろしくお願いします!】』
俺はソレを聞いて、自然とあの若い女のトレーナーに慣れねぇ拍手なんぞしていた。そして、俺らしくもねぇもしかしてあのアマ達とは違う、ただ単純に俺という存在に楽しんでもらいたくて手を振っただけなのか?とその考えに至る。平日に学ランできている見るからに不良の俺に?いや、だからこそなのか?
俺はそのトレーナーに何となく自分の馬鹿みたいに俺を可愛がるおふくろを連想し、頭を振る。
今はあのトレーナーではなくてイルカショーとかいうやつに集中するべきだ、と始まったショーに目をやる。今日限りだ、とにかくムシャクシャして暇を持て余していた、今日だけ。
結論から言うに、イルカショーっつーのは中々見応えのあるもので、思わず感嘆の息が漏れる。野郎と女のトレーナーは自己紹介の時に言っていたように年数を重ねたベテランっつーやつなのだろう。確かにイルカとの息の併せ方はうめぇと思った。
ただ、あの若い女のトレーナーは、イルカと会話でもしてんじゃねーか?と馬鹿なことを考えるくらいに、息が、動作が、指示が、全てが。正しく一体という感じだった。混じりあって水に溶けては、また実体を現しているのかという程に、隅々まで綺麗だと思った。
らしくなく、ショーで興奮したのか、心臓の音が耳から聞こえる。水族館のショーというのはこんなレベルだったか?俺は目線をあの若い女のトレーナー……名前、なんて言ったか、忘れちまったが、あの若い女に縫い付けられたかのように見つめてしまう。
タバコを吸いすぎた時のようなどうにも浮ついた思考回路の中、若い女が別の女のトレーナーからマイクをとり、キョロキョロと忙しなく客席を見つめる。程なくして、その視線が俺と交わる。若い女は変わらず楽しそうな笑顔を浮かべていた。
『《そこの学生さん!ステージにおりてきてください!》』
学生、というと。俺の事だ。ざわりと少し騒がしくなる客席の視線と、その若い女のトレーナーを止めようと動く別のトレーナー。訳が分からねぇが、何故呼ばれたかを考える前に、俺は立ち上がっていた。
諦めたかのような顔をうかべる2人のトレーナーと、嬉しそうな顔で手を振る若い女のトレーナー。俺と同じように親子連れの2組もステージへと降りて行く。何か催し物でもやるらしい。
ステージへと立った俺は、じ、と俺を呼んだ若い女のトレーナーを見下ろす。胸元に着いた名前のバッジには、叶絵と書いてある。何となく察するに、どうやら俺はイルカに直に触れられる貴重な体験に呼ばれたらしい。
2人のトレーナーが引きつった笑みのままイベントを進行し、親子連れのガキにマイクを渡して名前を言う度、少し近付けば手が届くほどの距離にいるイルカ達が拍手の真似事か、尾ヒレを床に付けて離してを繰り返す。
イルカと、若い女のトレーナーを交互に見ていると、俺の番が回ってきたらしい。やれやれ、名乗れってのか?
「…………」
『……学生さん、ですよね?』
「……あァ。それがどーしたっていうんだ、オネーサン。」
『イルカのショー、すごく真剣に見てくれてて嬉しかったの。イルカ、好きなのかなって思ったので呼んじゃいました!お名前を教えてください!』
どうぞ!と。マイクを渡してくる目の前の女。先の質問にも特に深い意味は無いらしい。余程の天然なのか、それとも馬鹿なのか、あまり深く俺の存在を考えていないらしい。あまりにも無防備なそれに、流石にここで名乗らなければこの若い女のトレーナー、並びに催し物の進行に差し支えるだろう、と俺は小さく自分の名前を名乗る。
途端花が咲いたかのように緩んだ顔で嬉しそうに笑う若い女のトレーナーに目を見開く。考えてること全てが顔に出てんじゃあないのか?
「やれやれだぜ」
ぽつり、とそう漏らして帽子の鍔を下げる。何をバツが悪く思うのかは知らんが、とにかくもうこの若い女のトレーナーと目を合わせて会話をしたくなかった。
イルカにだけ触って、さっさとずらかるぜ。そう思っていた男のトレーナーの説明だけを注意深く聞いていた、矢先だった。耳にやけに響いた、いや、この際【脳に直接響いた】と言っても過言じゃねぇ、ゾクゾクと背中を走る言葉に、思わず若い女のトレーナーを睨みつけるように見てしまう。
今、確かに聞こえた。
『《楽しもうね》』
と。
若い女の視線の先は、イルカだった。
俺にでは無い、イルカに、確かにそう話しかけた。そう思った。何を馬鹿なことをとは、自分でも分かっている。だがしかし、確かにこの女はイルカと【会話】をしたのだと、そう感じた。そうだとしか思えなかった。
『大丈夫ですよ、クージョージョータロー君。ゆっくり撫でてあげてくださいね!この子の名前はラブ、女の子です!』
そんな俺の視線に気がついたのか、若い女のトレーナーは何を勘違いしたのか、閃いた顔でこそこそ、と小さく俺に言う。そうじゃねぇ、今アンタ、確かにイルカと会話をしたな。そう聞こうと思っていたのに、俺は聞いてしまえば厄介なことになるだろう事は安易に想像できたので、辞めた。
きゃあきゃあと騒ぐ子供の声に、急に現実に引き戻されたような感覚を覚え、とにかく自然にイルカの前に屈む。さっさと触って、感触を確かめたら帰る。それだけが今俺がなすべき事だった。
ふ、とイルカに手を伸ばす前に、頭に疑問が浮かぶ。
魚は水中の温度に合わせ自らの体温も下げる変温動物だ、故に人の体温で火傷してしまう、という話を聞いたことがある。よもやイルカもそうなのでは無いか、いや触れる催し物をやると言うことは火傷はしそうにないが、それでも俺は気になったことはスッキリさせねぇと気が済まない質で、横で屈む若い女のトレーナーに、疑問をぶつけることにした。
「………オネーサン。魚は俺たち人間が触っちまうと火傷をすると聞くが………イルカ達は大丈夫なのか?」
そう聞くと、今にも飛び出そうなほど大きく目を見開いて、その後満面の笑み…ってーのを浮かべて、嬉々として若い女のトレーナーは俺の質問に答えた。
『よく知ってるね、クージョージョータロー君。魚は確かに変温動物だから人が触ってしまうと火傷をしてしまう場合があるのだけど、イルカの皮膚は長時間日光に晒されたり、乾燥されない限りは、優しく人間が触れる程度なら大丈夫なのよ。火傷はしないよ。』
「………そうかい。それじゃ、触らせてもらうぜ。」
少し舌足らずに俺のフルネームを呼び、少し興奮気味に早口でそう言った若い女のトレーナーを見て、余程俺が質問したのが嬉しいかを語るその表情を見てると、ふ。と自然と俺からも笑みが漏れる。
説明を聞いたので、遠慮なくイルカに触れると、思っていたより弾力があり、ツルツルと滑るような感触を覚える。たまにザラザラとした感触もあったものの、何とも言えん肌触りを何度も確かめるように撫でる。
そんな俺を嬉しそうに見る若い女を横目に、どうして俺のような奴をここに呼んだのか、直接聞きたくなった。ある程度分かってはいるものの、何故か締りのない若い女の口から聞きたくなった。
「……オネーサンは、何故俺を指名した?」
『え?何でって………触りたそうだなって思ったから?』
「どうして、そう思う?」
『熱心に見てくれていたから………かな?』
「………アンタはどうしてそう思う?」
『え?ど、どうしてって………』
俺の矢継ぎ早の質問に、とうとう笑顔だった若い女のトレーナーも、目を泳がせ、怯えたような態度を見せる。正しくは困惑だろうが。やはりこの若い女は、他のどの大人達やうるせぇアマ達とも違い、曰く分かりにくい俺の機敏な心の動きを【なんとなくそう思ったから】程度で捉えていたらしい。
自分だけが何故かこの初対面の若い女に心の動きを見透かされたのが釈然とはしないものの、思いもよらなかった体験をさせてもらったのは確かなので、最低限の礼をしようと思った。軽い気持ちで、思っていたことを口にしてしまったことを、俺は後々後悔する。
「アンタは、どうかしているぜ。」
何かが変わる気配がする。その時は気にもとめず、俺らしくもない、小っ恥ずかしいセリフを口にする。
「…………けど、ありがとうよ。オネーサン。いい経験だったぜ。」
いい加減戸惑っていたあの顔はまた締りのない顔に変わった頃だろうか、俺は気恥しさから下げていた視線を上げ、目を見開く。
表情という表情が固まっていて、その顔はまるで幽霊にでも襲われる直前の怯えた酷い面だった。顔から血の気が引き、焦点が定まっていない。
「オイ………?一体なんだってんだ、オネーサン。……オイ!」
俺がそう控えめに声をかけても、なんの反応も見せない。震えて、どこか遠くを俺越しに見つめている。明らかに、怯えている。俺にでは無いことは分かるが、じゃあ一体何に怯えてんだ。
「ッ、オイ、ちょっと来な。」
「え?ど、どうしました?お客様。何か不都合が……?」
「あのオネーサンの様子がおかしいんだ。あまり騒ぎにならねーよう出来るか。」
動かなくなった若い女のトレーナーの前に、男のトレーナーを引っ張ってくる事くらいしか俺はできず、その後の後始末は慌ただしく男のトレーナーと女のトレーナーがやってしまった。オネーサンは、2人に連れられ、機械のようにイルカの背に乗ってステージから消えていった。
ここで俺は思い返す、俺が礼を言った時直後、何となく雰囲気が変わった事を。いや。正しくは礼を言う前の、あの段階で。
どうかしている。と、別段悪意があって言った訳じゃねぇ。ただそこにしかああなった原因が無かった。はずだ。俺にとっては悪意のないものでも、吐いた言葉を受け取るのは相手側だ、きっとオネーサンの何かに、俺は不躾に刃を飛ばしたらしい。
いつもなら特に気にしねぇであろう、ほんの些細なことだ。俺にとっては。今に始まったことでもねぇ、群がるアマ共を一括する時とそんなに変わらねぇだろう。だが、俺の体は新しいタバコを咥え、俺は水族館を出て、裏にあるはずであろう従業員用の出入口へと向かっている。
「…………やれやれだぜ。」
そう呟いて、俺は確かに残る胸の引っ掛かりを取るために、タバコの煙と共にため息をひとつ空へと吐き出した。
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承太郎視点続きます
今日は朝からともかくムシャクシャしていた、機嫌が悪かった、そうだった気がする。今となってはもう覚えてもいない。対照的に少し浮ついたような気分で、俺は帰路に着いていた。
タバコを銜えながら歩き、今日のことを空に消える煙に乗せて朧気に思い出す。
とにかく学校をフケたくて、俺が選んだ場所は長年足を運ばなかった水族館だった。この辺じゃ1番大きな水族館で、ガキの頃はしょっちゅうおふくろに連れて行ってもらっていた……と思う。
開園時間から少し経ち、水族館の入口をくぐると、まぁ分かっちゃいたが、従業員たちの怯えや好奇の視線に貫かれる。いつもの事、本当に、文句を言うつもりも毛頭ねぇが、ジロジロと見られて騒がれるのは気持ちのいいもんでもねぇ。
俺は人気のない場所へと移動し、展示されている魚を見る。昔から海洋生物にはそれなりの興味があった。ただそれも専門的な知識でもなく、ちょっと齧った程度のお粗末なモンで、展示されている魚の横に書かれている説明文を辿り、知らないことの方が多いのだと知るものだった。
目当てもなくフラフラと館内を歩き、確か、そうだ。館内放送で【イルカショー】の案内が流れたから、俺はそちらへと自然に足を運んだような気がする。
平日故に、この水族館の名物であろうイルカショーの客席は空席が多く、俺が来たのを見て、数組の親子連れと何人かの老夫婦やデートに来たであろう若者が一斉にこちらを見る。少々居づらくなったが、俺は何処吹く風を装ってそいつらから1番離れた席に座る。
少し時間が経つと、ショーの始まりを告げるBGMが鳴り始め、俺は腕を組みながらじ、とショーに集中をする。イルカってーのは賢い生き物で、人間に愛情を覚えたり芸が嫌だと仮病したりするそうだ。
BGMと共にステージ端から3人のトレーナーと3頭のイルカが滑るように現れ、俺に注目していた他の観客たちもついにそちらを向いて疎らに拍手をする。
一番最初に入ってきた野郎のトレーナーと女のトレーナーが俺を見つけたのか、微かに不躾な視線と表情を寄越すも、俺はまぁいつもの事だと目を細める。
が、1番最後に入ってきた若い女のトレーナーは、俺を何でかじ、と見つめて何処か嬉しそうな笑みを浮かべている。あぁ、いつもの【アレ】か。と自分の容姿に騒ぐうるせぇアマ達の顔を思い出して振り払う。女ってのはどうも喧しくて好かねぇ。
野郎の自己紹介が終わり、女の自己紹介が始まった辺りで、俺をじっと見つめていた若い女のトレーナーが控えめに俺に手を振ってきた。あぁ鬱陶しい、といつもの様にシカトこいてイルカを見つめる事に徹する。若い女のトレーナーは分かりやすく肩を落とすが、俺の知ったこっちゃねぇ。
そうしているうちに女のトレーナーの自己紹介が終わり、若い女の自己紹介が始まる。どうやら新人らしい。
『【皆さんはじめまして!新人トレーナーの「叶絵」と、新人イルカの「ラブ」です!まだまだ未熟ですけど、ラブと一緒にこのショーを皆さんと楽しめたらいいなって思います!よろしくお願いします!】』
俺はソレを聞いて、自然とあの若い女のトレーナーに慣れねぇ拍手なんぞしていた。そして、俺らしくもねぇもしかしてあのアマ達とは違う、ただ単純に俺という存在に楽しんでもらいたくて手を振っただけなのか?とその考えに至る。平日に学ランできている見るからに不良の俺に?いや、だからこそなのか?
俺はそのトレーナーに何となく自分の馬鹿みたいに俺を可愛がるおふくろを連想し、頭を振る。
今はあのトレーナーではなくてイルカショーとかいうやつに集中するべきだ、と始まったショーに目をやる。今日限りだ、とにかくムシャクシャして暇を持て余していた、今日だけ。
結論から言うに、イルカショーっつーのは中々見応えのあるもので、思わず感嘆の息が漏れる。野郎と女のトレーナーは自己紹介の時に言っていたように年数を重ねたベテランっつーやつなのだろう。確かにイルカとの息の併せ方はうめぇと思った。
ただ、あの若い女のトレーナーは、イルカと会話でもしてんじゃねーか?と馬鹿なことを考えるくらいに、息が、動作が、指示が、全てが。正しく一体という感じだった。混じりあって水に溶けては、また実体を現しているのかという程に、隅々まで綺麗だと思った。
らしくなく、ショーで興奮したのか、心臓の音が耳から聞こえる。水族館のショーというのはこんなレベルだったか?俺は目線をあの若い女のトレーナー……名前、なんて言ったか、忘れちまったが、あの若い女に縫い付けられたかのように見つめてしまう。
タバコを吸いすぎた時のようなどうにも浮ついた思考回路の中、若い女が別の女のトレーナーからマイクをとり、キョロキョロと忙しなく客席を見つめる。程なくして、その視線が俺と交わる。若い女は変わらず楽しそうな笑顔を浮かべていた。
『《そこの学生さん!ステージにおりてきてください!》』
学生、というと。俺の事だ。ざわりと少し騒がしくなる客席の視線と、その若い女のトレーナーを止めようと動く別のトレーナー。訳が分からねぇが、何故呼ばれたかを考える前に、俺は立ち上がっていた。
諦めたかのような顔をうかべる2人のトレーナーと、嬉しそうな顔で手を振る若い女のトレーナー。俺と同じように親子連れの2組もステージへと降りて行く。何か催し物でもやるらしい。
ステージへと立った俺は、じ、と俺を呼んだ若い女のトレーナーを見下ろす。胸元に着いた名前のバッジには、叶絵と書いてある。何となく察するに、どうやら俺はイルカに直に触れられる貴重な体験に呼ばれたらしい。
2人のトレーナーが引きつった笑みのままイベントを進行し、親子連れのガキにマイクを渡して名前を言う度、少し近付けば手が届くほどの距離にいるイルカ達が拍手の真似事か、尾ヒレを床に付けて離してを繰り返す。
イルカと、若い女のトレーナーを交互に見ていると、俺の番が回ってきたらしい。やれやれ、名乗れってのか?
「…………」
『……学生さん、ですよね?』
「……あァ。それがどーしたっていうんだ、オネーサン。」
『イルカのショー、すごく真剣に見てくれてて嬉しかったの。イルカ、好きなのかなって思ったので呼んじゃいました!お名前を教えてください!』
どうぞ!と。マイクを渡してくる目の前の女。先の質問にも特に深い意味は無いらしい。余程の天然なのか、それとも馬鹿なのか、あまり深く俺の存在を考えていないらしい。あまりにも無防備なそれに、流石にここで名乗らなければこの若い女のトレーナー、並びに催し物の進行に差し支えるだろう、と俺は小さく自分の名前を名乗る。
途端花が咲いたかのように緩んだ顔で嬉しそうに笑う若い女のトレーナーに目を見開く。考えてること全てが顔に出てんじゃあないのか?
「やれやれだぜ」
ぽつり、とそう漏らして帽子の鍔を下げる。何をバツが悪く思うのかは知らんが、とにかくもうこの若い女のトレーナーと目を合わせて会話をしたくなかった。
イルカにだけ触って、さっさとずらかるぜ。そう思っていた男のトレーナーの説明だけを注意深く聞いていた、矢先だった。耳にやけに響いた、いや、この際【脳に直接響いた】と言っても過言じゃねぇ、ゾクゾクと背中を走る言葉に、思わず若い女のトレーナーを睨みつけるように見てしまう。
今、確かに聞こえた。
『《楽しもうね》』
と。
若い女の視線の先は、イルカだった。
俺にでは無い、イルカに、確かにそう話しかけた。そう思った。何を馬鹿なことをとは、自分でも分かっている。だがしかし、確かにこの女はイルカと【会話】をしたのだと、そう感じた。そうだとしか思えなかった。
『大丈夫ですよ、クージョージョータロー君。ゆっくり撫でてあげてくださいね!この子の名前はラブ、女の子です!』
そんな俺の視線に気がついたのか、若い女のトレーナーは何を勘違いしたのか、閃いた顔でこそこそ、と小さく俺に言う。そうじゃねぇ、今アンタ、確かにイルカと会話をしたな。そう聞こうと思っていたのに、俺は聞いてしまえば厄介なことになるだろう事は安易に想像できたので、辞めた。
きゃあきゃあと騒ぐ子供の声に、急に現実に引き戻されたような感覚を覚え、とにかく自然にイルカの前に屈む。さっさと触って、感触を確かめたら帰る。それだけが今俺がなすべき事だった。
ふ、とイルカに手を伸ばす前に、頭に疑問が浮かぶ。
魚は水中の温度に合わせ自らの体温も下げる変温動物だ、故に人の体温で火傷してしまう、という話を聞いたことがある。よもやイルカもそうなのでは無いか、いや触れる催し物をやると言うことは火傷はしそうにないが、それでも俺は気になったことはスッキリさせねぇと気が済まない質で、横で屈む若い女のトレーナーに、疑問をぶつけることにした。
「………オネーサン。魚は俺たち人間が触っちまうと火傷をすると聞くが………イルカ達は大丈夫なのか?」
そう聞くと、今にも飛び出そうなほど大きく目を見開いて、その後満面の笑み…ってーのを浮かべて、嬉々として若い女のトレーナーは俺の質問に答えた。
『よく知ってるね、クージョージョータロー君。魚は確かに変温動物だから人が触ってしまうと火傷をしてしまう場合があるのだけど、イルカの皮膚は長時間日光に晒されたり、乾燥されない限りは、優しく人間が触れる程度なら大丈夫なのよ。火傷はしないよ。』
「………そうかい。それじゃ、触らせてもらうぜ。」
少し舌足らずに俺のフルネームを呼び、少し興奮気味に早口でそう言った若い女のトレーナーを見て、余程俺が質問したのが嬉しいかを語るその表情を見てると、ふ。と自然と俺からも笑みが漏れる。
説明を聞いたので、遠慮なくイルカに触れると、思っていたより弾力があり、ツルツルと滑るような感触を覚える。たまにザラザラとした感触もあったものの、何とも言えん肌触りを何度も確かめるように撫でる。
そんな俺を嬉しそうに見る若い女を横目に、どうして俺のような奴をここに呼んだのか、直接聞きたくなった。ある程度分かってはいるものの、何故か締りのない若い女の口から聞きたくなった。
「……オネーサンは、何故俺を指名した?」
『え?何でって………触りたそうだなって思ったから?』
「どうして、そう思う?」
『熱心に見てくれていたから………かな?』
「………アンタはどうしてそう思う?」
『え?ど、どうしてって………』
俺の矢継ぎ早の質問に、とうとう笑顔だった若い女のトレーナーも、目を泳がせ、怯えたような態度を見せる。正しくは困惑だろうが。やはりこの若い女は、他のどの大人達やうるせぇアマ達とも違い、曰く分かりにくい俺の機敏な心の動きを【なんとなくそう思ったから】程度で捉えていたらしい。
自分だけが何故かこの初対面の若い女に心の動きを見透かされたのが釈然とはしないものの、思いもよらなかった体験をさせてもらったのは確かなので、最低限の礼をしようと思った。軽い気持ちで、思っていたことを口にしてしまったことを、俺は後々後悔する。
「アンタは、どうかしているぜ。」
何かが変わる気配がする。その時は気にもとめず、俺らしくもない、小っ恥ずかしいセリフを口にする。
「…………けど、ありがとうよ。オネーサン。いい経験だったぜ。」
いい加減戸惑っていたあの顔はまた締りのない顔に変わった頃だろうか、俺は気恥しさから下げていた視線を上げ、目を見開く。
表情という表情が固まっていて、その顔はまるで幽霊にでも襲われる直前の怯えた酷い面だった。顔から血の気が引き、焦点が定まっていない。
「オイ………?一体なんだってんだ、オネーサン。……オイ!」
俺がそう控えめに声をかけても、なんの反応も見せない。震えて、どこか遠くを俺越しに見つめている。明らかに、怯えている。俺にでは無いことは分かるが、じゃあ一体何に怯えてんだ。
「ッ、オイ、ちょっと来な。」
「え?ど、どうしました?お客様。何か不都合が……?」
「あのオネーサンの様子がおかしいんだ。あまり騒ぎにならねーよう出来るか。」
動かなくなった若い女のトレーナーの前に、男のトレーナーを引っ張ってくる事くらいしか俺はできず、その後の後始末は慌ただしく男のトレーナーと女のトレーナーがやってしまった。オネーサンは、2人に連れられ、機械のようにイルカの背に乗ってステージから消えていった。
ここで俺は思い返す、俺が礼を言った時直後、何となく雰囲気が変わった事を。いや。正しくは礼を言う前の、あの段階で。
どうかしている。と、別段悪意があって言った訳じゃねぇ。ただそこにしかああなった原因が無かった。はずだ。俺にとっては悪意のないものでも、吐いた言葉を受け取るのは相手側だ、きっとオネーサンの何かに、俺は不躾に刃を飛ばしたらしい。
いつもなら特に気にしねぇであろう、ほんの些細なことだ。俺にとっては。今に始まったことでもねぇ、群がるアマ共を一括する時とそんなに変わらねぇだろう。だが、俺の体は新しいタバコを咥え、俺は水族館を出て、裏にあるはずであろう従業員用の出入口へと向かっている。
「…………やれやれだぜ。」
そう呟いて、俺は確かに残る胸の引っ掛かりを取るために、タバコの煙と共にため息をひとつ空へと吐き出した。
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承太郎視点続きます