このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第1式-神前の悪魔-

吹っ飛んで芋虫の様に転がった田上さんが、吹っ飛ばした男性を床に----文字通り----座らせてみせてからまだ3分も経っていない。
「いつまでそんなとこで座ってるんでごぜーますか。床は冷えるでごぜーましょ。どうぞこちらへ」
と、壁際で尻餅をついていた男性の腕を取り、うやうやしく椅子に座らせた田上さんは、僕を連れて一度部屋を出ると、先程僕と田上さんが出会った場所、つまりオフィスに向かった。僕はというと、さっき見た光景を理解するのに時間がかかっていて、田上さんの後ろを歩くだけのパーティーメンバーと化している。
「しーんせーいしょー。しっんせいしょー」
田上さんはあるデスクの引き出しをガサゴソと漁り、数枚綴りの紙を取り出すと、それに印を押す。
「さ、更級さん?と言う人は、今はいないみたいですね」
なんとか普通を取り繕い、無難な話を振ってみる。僕の言う通り、今オフィスには僕と田上さんしかいなかった。
「んー?いたでごぜーますよ〜。さっき」
ペラペラと書類を確認している田上さんは、紙の一枚を僕に向かって「ん、」と差し出す。田上さんの印の下に、手書きで罫線が引いてあった。田上さんの言葉の意味と、差し出された書類の意味を考えあぐねていると、「お前の名前。手書きでいいから」と付け足される。
「これにサインしたらいいんですか?でも、その、なんでですか?」
申請書と書かれた書類には、細かい字が沢山書かれていた。ウェディングコンサルタントとは、毎回この様な書類を上司に提出しているのだろうか。
「あの客の式、失敗したら辞めますって契約書でごぜーますよ。俺があいつらを担当すんなら、てめーもあの客の担当でごぜーます」
あ、なんなら血判もつける?とケラケラ笑う田上さんに、僕の顔はどう映っていたのだろう。もしその場に鏡があったら、僕の前には豆腐と見紛うばかりの顔があるに違いない。血の気の引く音ってこんな音なんだ、と思った。
「え。こ、コンサルタントって、そんな契約もしなくちゃいけないんですか?!」
思わず大きな声が出るが、それはみっともなく震えていて、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない。しかし、田上さんは容易くそれを聞き取って見せると「いや?」と言った。
「あのタイプの客はあんまり、というか普通は仕事を受けねぇんでごぜーます。トラブルの原因になっちまうんで」
わかる。というか、トラブルの原因も何も、今回の客はもう他のお客様に迷惑をかけている。
「会社的には、利益よりも不利益が目立つ客でごぜーます。相手が泣こうが喚こうが、普通じゃお引き取り願うんでごぜーますよ。でも、俺はこの申請書さえ出せば、その客を取ることができる」
紙束をひらりと掲げた田上さんは、行儀悪くデスクに腰掛けた。
「いろいろ制約はごぜーますが、基本は至ってシンプル。成功したらボーナス。失敗したらクビ」
田上さんは親指を立てて、首を掻き切るジェスチャーをしてみせる
「よかったな〜大里。初日から案件じゃねーでごぜーますか」
ぱちぱちと手を叩く田上さんを見て、僕は思わず目眩がした。
「ほ、ほぼクビじゃないですかあんなの…」
田上さんの気味悪さに気圧されて少しおとなしくなったあの客は、だからと言って扱いやすいとは言い難い。どんな難題難癖をつけてきてもおかしくないのに、その内容を聞く前にこの人は自分の職をかけて、その人の結婚式をしたいと言うのだ。
「なんでなんですか…」
震えっぱなしの声で続ける。
「田上さんは、あの男性に思い切り殴られたじゃないですか。会社も、迷惑かけられたじゃないですか…。なのに、どうして。そんな客の式を、自分を犠牲にしてまで…」
焦りからか喉が乾く。僕のこの言葉に、「それもそうでごぜーますな。やっぱやめた」と田上さんが言ってくれるのを僕は望んでいた。出会って数分。言い方は失礼だが、僕は田上さんと無茶な案件にクビを突っ込んで心中する気はない。でも、田上さんは言うのだ。
「結婚式っつーのは、好きな人とこれからも一緒にいることが認められる日なんでごぜーますよ。半端な奴が半端な気持ちでしていいわけがねーんでごぜーます」
田上さんは、デスクのペンを手に取ると、器用にくるくると回す。
「あの客はここを追い出されたら、とりあえずはどこか適当な三流四流の式場を見つけて、適当な結婚式を挙げるんでごぜーましょう。でもそれは、"世界一幸せ"と言えんのでごぜーましょうか」
田上さんはデスクの上で足を組み、申請書を指で弾いた。
「俺ならあの客を、世界一幸せにしてやれる。いいや、あの客を世界一幸せにしてやれるのは、きっともうこの世界に俺しかいねーのでごぜーます」
不敵に笑う田上さんは、回していたペンの持ち手を僕の方に差し出す。


申請書には、いつの間にか僕のサインも書かれていた。
7/31ページ
スキ