第2式
「最初から」
うっそりと笑った彼は、襟をつかむ僕の手首を恐ろしいくらい優しくつかんだ。
「お前がここに来た時、お前の下唇を真っ先に見た。その怯えた目でも、目立つそばかすでもなく、口だ」
弓のようにたわむ瞳が、僕の唇を射抜く。
「強く噛んだ跡があった。今さっき噛んでつけたようなもんじゃねぇ。いくら時間が経っても戻らない。痛みの形を覚えちまった、そんな跡が。もうずっと、癖になってたんだろ、下唇を噛むの」
息を呑んだ拍子に気付く。知らない間に、僕は今もまた、唇を噛んでいた。
「自罰、自責、内罰。お前は自分を責めて、自分を追い詰める癖が少なからずあるんじゃねーですか」
まるで木を這う蛇のように、彼は僕の腕をなぞり、そのまま肩を掴んだ。
「だから手元に置いた。俺、お前みたいに自己評価低い癖に人前じゃ普通ぶりたい小心者が、結構好きなんで」
どこかで聞いた様な台詞を、今度は僕のことを指して言う。
「そんなお前には、優しい人からかけられる優しい言葉が一番きついはずだ。嬉しいけど苦しいんだろ?申し訳なくなるんだろ?頑張ろうってやる気になって、期待に応えられないと、どうして自分はこうなんだって辛くなるんだろ?なぁ?」
肩に置かれた手は、ゆっくりと僕を彼の元へと引き寄せる。
抵抗は、できなかった。
「柘榴ちゃんにかけられる言葉も、枯実にかけられた言葉も、みんなみんな、嬉しくて苦しくて幸せで辛かったはずだ。特に枯実の隣じゃ、あいつの『特性』上、あいつに優しくされるわりに、お前は自分で満足いく仕事ができなかったんじゃねーの?」
一番最初に彼と出会った時の様に、目と鼻の先に彼の顔がある。
違うのは、彼の前髪が今は床に散らばっており、隠されていた顔がはっきりと見えると言う点だ。
いつもは隠されているはずの彼の左目は、枯実さんの隣でドジをやらかし生傷を増やした僕を、確かに見透かしている。
「そんなお前だ。結構わかりやすく自分を傷つけてんじゃね〜〜のかなぁって俺は思ったわけでごぜーます」
突然世界が回る。
あまりに軽々と、田上さんは僕との位置を入れ替え、その長髪を天蓋のように僕の頭上に降らせた。
「でも、お前は、"普通"でありたい。だから、血なんか流せない」
力の入らない僕の腕を取り、器用に腕時計を外し放り投げる。
僕の手首には、細かいミミズ腫れがごく狭い範囲に密集していた。
「またこりゃ綺麗に並べたな。爪か、ペンか…いや、定規でも引いたか?」
今すぐ舌を噛み切れたら、どれだけよかっただろう。
悔しさや恥ずかしさ、悲しさだとか情けなさとかが一気に込み上げてきて、僕の呼吸は知らず荒くなる。
「っ、……あなた、何が、したいんですかっ。僕が、何をしたっていうんです!」
滲む視界でキッと彼を睨みつけた。
口の中に広がる血の味はいつも噛み締めている自虐の味じゃない。
理不尽にこちらを丸裸にしていく鋭利な言葉に、僕は、生まれて初めてかもしれない怒りを表した。
「そんなに、僕が嫌いですか」
家で疎まれていた過去を思い出す。
「そんっなに、僕が、おかしかったですか」
遠巻きに笑われた学生時代が後ろ指を指す。
「そん、なに、…僕は、…ぼくは」
この世界で上手く生きていけない、そんな自分が許せない。
「あんたは、違うって、思ったのに」
何かはわからない。どうしてかはわからない。でも、この人の、田上さんの隣でなら、頑張れる気がした。普通に生きられる気がしていた。
それなのに、どうしてこんな酷いことが起きるのだろう。
静かなオフィスに、僕の嗚咽がこだまする。
酷い裏切りを受けたと感じていながらも、そもそも勝手な期待を抱いていただけなのだと、現実が耳元で囁いていた。
「でもお前、だから俺がいいんでごぜーましょう?」
「……………は?」
言葉の意味を測りかねて、思わず息を漏らした僕の目を見て、彼は口の片端だけを器用にあげた。
「お前は、俺が、優しい人じゃねーから、信じられるんでごぜーましょ」
不敵に、不遜に、大胆に。
彼は天井の照明すら塗り潰さんばかりの、仄暗い笑みを浮かべた。
「優しい人から褒められても、てめーは信じられねーはずだ。優しい人が優しい言葉をくれるのは、自分に同情してくれてるからだって思ってるから。折角声をかけてもらえても、自分がそれに応えられなかったらどうしようってぐるぐる考えちまうから」
田上さんは、少し右上を見て何事かを思案すると、今度はまたグッと僕に近づいて、耳元で、内緒話のように、楽しそうに、口を動かした。
「でも俺は、お前が今まで出会って来た奴らみてーに優しくないんでごぜーます。てめーの傷も抉るし、自分のやりてーようにやるし、気なんか誰にも1ミリも使ってやらねーんです」
冷や汗が、こめかみを伝う。
ああ、この感覚、前にもあったぞ、と僕はこれから捕食される思いでギュっと目をつぶった。
「てめーは、優しくない俺の言葉だから、信じられる。優しくない俺だから、そばに居られるんでごぜーます」
だって、俺に比べりゃお前なんて"普通"でごぜーますものね。
ゆっくりと僕の耳元から離れた田上さんの目の中に、嫌悪と安堵の入り混じった表情の僕がいる。
「……僕、あんたの事、嫌いです」
涙の止まった僕は、何の抵抗もなく言った。
「あぁ、なんでごぜーますかそれ」
田上さんはうっそりと笑うと
「最っ高に俺好みの顔でごぜーます」
そう言って、僕の腕を引っ張って立たせた。
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