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第1式-神前の悪魔-

この頃はまだ、田上さんってもしかしてとても優しい人なんじゃないかとか思っていた。

ガシャン!と、どこかで何かが倒れた音がする。田上さんに連れられてフロアの説明を聞いていた僕は、遠くで聞こえたその音に、図らずもビクリとしてしまった。
「あぁ?ロビーかぁ?今の」
田上さんも訝しげに音のした方を見る。
「何の…音でしょうか」
「さぁ〜〜。椅子でも倒しやがりましたか?」
そう言った田上さんの顔は、何故だかとても嬉々としていた。
「んー。もしかしたら、早速俺の仕事の手伝いができるかもしれねーですよ。良かったなぁお前」
田上さんは結っていた髪を解き、使っていたペンを胸に収めると、早足で音のした方へと向かって行った。
「え?それってどういう」
答えは返ってこないまま、僕らはロビーに辿り着く。

いつもは将来の甘酸っぱい気配に胸ときめかせた男女と、それを支えるコンサルタントの談笑で控えめに埋め尽くされているのであろうそこは、今は居心地の悪い空気とひそめられた声で埋め尽くされていた。
「だぁら個室用意しろっつってんだろ舐めてんのかてめえ!」
倒れた椅子の横で、男性が唾を飛ばしながら女の人を怒鳴っている。
「それともなんだ?金がねーとここはお客様扱いもしてくれねぇってか?あぁ?」
今にも殴りかかるのではないかという勢いだ。しかし、それでもニコニコと笑顔を崩さない女の人は、「いえいえ、そんなことはありませんよお客様」と涼やかな声を出している。
「個室は、ないことはありませんが、いわゆるVIP席なんです」
「じゃあなんだ?俺らはVIPじゃねーってか?ふざけんなよおい一番偉い奴を出してこい!」
めちゃくちゃなことを叫びだした男性の横には、奥さんだろうか若い女性もいるのに、その人は我関せずといった風で、男性を止める気配はなかった。大変居心地の悪い空気の中、男性は担当であろう女の人の態度が悪いやら部屋が狭いやら文句を並べ立てている。
「申し訳ありませんお客様。他のお客様のご迷惑になってしまいますので、もう少し小さなお声でお願い申し上げます」
がなる男性を止めに入ったのは、意外なことに先程見た人事らしき人だった。派手な色のシャツを着たこの人が表に出てきたということは、それ程事態が窮しているということなのだろう。
「ご迷惑だぁ?迷惑かけられてんのはこっちだ!客になんて態度とってやがる!さっさと社長を出しやがれってんだ!」
しかし、その一言は火に油を注いでしまった形になり、男性の声はより大きく乱暴になる。もしかしたら暴力沙汰になるのかもしれない。胃がキュっとなる。何をしてくれるでもないが、何か頼りになるものが欲しくて、僕は隣に立っている田上さんをちらりと盗み見た。田上さんは喚き散らす男性を見て確かに、ゆうっくりと笑っていた。我慢しようとしているのにどうしても耐えられないというように、不自然に口の端が歪んでいる。そしてゾッとする程気味が悪い笑みを浮かべながら、喉の奥でくっくっと声を噛み殺していた。
「いいでごぜーますよぉ、柘榴ちゃん。そちらのお客様、個室で」
田上さんはその場から動かず、少し大きな声を出す。柘榴ちゃん、と呼ばれた女の人は振り返りざまに一度頷き、「では、あちらに」と男性と女性を笑顔で奥に通した。
「はぁ〜〜こりゃまた活きがいいのが釣れちまったでごぜーますな〜〜」
笑みを抑えるように手で口を隠した田上さんは、夜のような色をした瞳を三日月にたわめ、少し遅れて男女と柘榴さんの背後をついて行く。
僕は、大股で先を歩く田上さんが、舌なめずりをしているのを信じられないような気持ちで見ていた。
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