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第2式

田上さんが言った「別に」という言葉通り、彼は花嫁に何の注文もつけなかったし、何の努力も強要しなかった。
あの日は特に何も変わったことはなく、僕らは泥だらけの花嫁を丁寧にぬぐって、夫妻を帰しただけだ。
いや、ただ一つの小さな変化。
散垣さんが夫妻の担当に加わり、打ち合わせにも参加するようになった。それだけ。
しかし、それが保奈美さんにとてつもない変化をもたらすものなのだと、僕は早速次の打ち合わせから実感することになる。

***

「あら。とてもいい香りがするものだから、誰かが花束を買ってきてくれたのかと思ったの。保奈美さんが来ていたからだったのね」
目を細めて笑みを浮かべた散垣さんに、僕と保奈美さんは一瞬何を言われているのかわからなかった。
保奈美さんは花を差し入れてくれたわけではないし、何よりこの部屋に花など一本もない。
「ふふ、素敵ね。甘い香りがするわ。でも爽やかなのは何故かしら。私きっと、同じ香りを嗅いだら保奈美さんの顔を思い出すの。私でそうなのだから、旦那さんはきっと抱きしめた感触まで思い出してしまうに違いないわ。あぁ、これが恋の香りというものなのね」
右手を頰に添えて小首を傾げた彼女はうっとりとそう言うと、「お茶がまだなら私に入れさせてもらえないかしら。とびきりの恋に1番のお菓子もあるの」と奥に引っ込んでしまう。
おとぎ話の住人のような言い回しで何事か言われた後の保奈美さんは、彼女がふざけているのか本気なのか判別つかないようで、つぶらな目を点にして問題の彼女、散垣さんが消えた扉の向こうを見つめていた。
「これ、ジャブな」
田上さんは、口を開けていた僕らに淡々と言った後、保奈美さんに視線を投げて足を組んだ。
「コロンを褒めたんじゃねーですか?それと、あんたが持ってきたお菓子の香りも混ざっていい感じだったんでしょう。俺にゃちょっとわかんねーでごぜーますが」
スンと鼻を鳴らした彼は、打ち合わせの初めに保奈美さんが差し入れてくれた手作りクッキーを半分に割って口に運ぶ。
保奈美さんが自分の服に鼻を当てて釈然としない顔をしていると、トレーを持った散垣さんが戻り、お茶とチョコレートを僕らの前に置いた。
「チョコレートは素敵よ。恋をしている気分にさせてくれるんですもの。今日のお味はラズベリー。甘酸っぱい可愛らしい恋。甘くて爽やかな今のあなたにぴったりでしょ。このお茶も、あなたのことを考えながら入れたのよ。街のどこかで同じ香りを嗅いだとき、今日の幸せなティータイムをほんのちょっぴりでもあなたが思い出してくれますように」
メニューの端に添えられているようなポエムを口ずさんで散垣さんは保奈美さんの隣に座った。
今日は仕事ということで弘樹さんがいないからか、保奈美さんは緊張した面持ちでいる。
いや、散垣さんの突然の童話チックな言い回しの方が、今の彼女にとっては居心地悪いものなのかもしれない。
その後打ち合わせは滞りなく進んだが、随所挟み込まれる散垣さんの甘い台詞と褒め言葉は止むことはなかった。

***

「すげーでしょ柘榴ちゃん」
甘い言葉で胃もたれを起こしオフィスのデスクに伸びる僕の横で、田上さんは黙々と焼き菓子を消費していた。
「あれが柘榴ちゃんの"デフォルト"なんでごぜーますが、あれあんますると下手に相手に気を持たせかねねーんで、禁止なんですよ」
もう残り少ない差し入れのかけらを、田上さんは口の中に放り込む。
「童話的っつーか、劇的っつーか。イタリア男みたいな褒め方してくれるもんでごぜーますから、まあ供給過多で最初は向こうもきちぃでしょうが、荒療治っつーこって」
ほんのり甘い焼き菓子を苦いコーヒーで喉奥に流し込んだ彼は、やけにつやつやとしながら頬杖をついて窓の外を眺める散垣さんを見てほくそ笑んでいた。
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