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第1式-神前の悪魔-

力の抜けた僕の手を取り、掴みかかっている指を一本一本ゆっくりと外す。
田上さんは、僕と対照的にいつも通りの顔をしていた。
「さっさと戻って報告書書くぞ」
足が棒のようで動かない僕を横切り、彼はカツカツと靴を鳴らす。
追いかけてばかりの背中を捕まえるために、僕は咄嗟に言葉を紡いだ。
「田上さん」
靴音は止まらない。
「田上さん!」
僅かに歩みが詰まり、逡巡した彼はこちらを向いた。
続く言葉はなかった。咄嗟に彼を引き止めた理由は、今の僕にはまだわからない。
勿論、知りたいことはたくさんある。
でもこの人の口から語られるのは、耳触りのいいものばかりでない。僕は、彼の中にある答えを聞くのが怖い。いや、もしかしたら彼自身のことが怖いのかもしれない。
山田さんがあの時味わったのだろう、得体の知れない恐怖。
それでも、僕はまだ彼を嫌いになれなかった。

「なんで、僕を側においてくれたんですか」僕の運命を変えた彼の選択の理由を、僕は尋ねた。
「顔」
彼は端的にそう言うと、向こうからこちらに歩み寄る。
出会った時のように鼻先をぐっと近づけられ、息を止めた。この距離だと長い髪に覆われた右半分の顔もうっすらと見える。
「大里」
田上さんは僕の顔をじっと見つめた。
僕は石になってしまったかのように動けない。
「俺な、実は」
潜められた声に喉が鳴る。
僕はほんの数日前の更衣室での出来事を思い出していた。
「た、…のうえ、さん」
ゆっくりと持ち上げられた彼の手に気付いて、僕は反射的に目をぎゅっとつぶった。
「そう。それでごぜーますよ」
どっ、と衝撃が走ったのは、今度はこめかみではなく胸だ。
人差し指で無遠慮に肋骨を押され「ぐぅ」と潰れた声が出る。
「俺の名前」
「名前が…どうしたんですか」
いささか鳩尾に近い位置だったため少し痛い。僕は胸を押さえて掠れた声で聞き返した。
「そろそろ教えといてやるですよ。俺の名前は田上誓たがみちかいっていうんでごぜーます」
たー、がー、み、と、音を伸ばして強調した彼の言葉の意味を咀嚼し、嚥下する。その瞬間、僕は今まで自分が彼をなんと呼んでいたのかを思い出し、顔を青くした。
「え、えぇ?!そ、そんなの、聞いてないですよ。なんで教えてくれなかったんですか!」
随分長い事、僕の勘違いは放置されていたようだ。
「お前が聞かなかったから」
こともなげに彼は言う。そして、口の端を吊り上げた。
「改めて、てめーの教育係の田上誓だ。これから、バンバンこき使うんで、よろしくお願いするでごぜーますよ」
差し出された彼の右手を見つめる。
山田さんの一件で僕が離れると思って突然こんな事を言い出したのだろうか。
それとも本当に気まぐれなのだろうか。
どちらにしろ、僕の答えは決まっている。
「よろしくお願いします」
僕は彼の手を取り、さして力の入っていない手を握った。

「…でも、僕は田上さんの考え方、違うと思ってますから」
キッと田上さんを睨みあげる。
「構わねーですよ」
彼は何故か嬉しそうに微笑んでいた。
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